禅のパスポート

禅語録 無門関no解釈to意訳

禅のパスポート 無門関NO35 ♪・・月がぁ出た出た 月がでたぁ・・♪

 禅のパスポート 無門関NO35  

♪・・月がぁ出た出た 月が出たぁ・・三池炭鉱の上に出たぁ・・さぞやお月さん煙たかろう・・♪

 

                   無門関 倩女離魂(せいじょ りこん)第三十五則

 

             【本則】五祖 僧に問うて云く、

                  倩女離魂 那箇(なこ)かこれ眞底(しんてい)

【本則】(素玄提唱)この話は五祖当時の社会種(記事)であったらしい。禅にはこんな脚色の芝居も多いのじゃ。維摩経もドラマじゃが、こんな具合に禅には嫌う底の法なしだ。(どんなことも話になる・・の意)

昔、衝陽(しょうよう)に倩女という娘がいて絶世の美人。この倩女の従兄(いとこ)に王宙(おうちゅう)というのがいて、幼い頃、娘の父が戯(たわむ)れに、後来(ごらい)この娘を君の妻にすべしと云うた。ところが少女が成人するとすこぶる美人となり縁談の申し込み、山の如くじゃ。その中に顯官(けんかん 知事、高官の意)からも所望されたので 父はその気になる。娘はそれを聞いて快々として楽しまず、宙も約束の変更を恨んでいた。それで都に出ようと思って船に乗って数里行くと、夜半に岸からその船を逐(お)う者がいる。恋し恋しの倩女じゃ。宙は夢かとばかりに喜んで船に入れて遁(のが)れ去り、追手をおそれて蜀に入り、居ること五年。二人の子まで産んで睦まじく暮らしていたが、ある日、倩女は故郷のことを思い出し、父母に背いたのは申し訳がないという。宙ももっともじゃ、俺も悪かった。父母に謝し天下晴れて夫婦になろうというので、船を命じて衝陽にいたり、宙が先に叔父の家に行って 今日までのことを語り、深くその罪を謝した。叔父は愕然として驚き いったい その女はどこの者かと聞くと、それはあなたの娘さんのことだという。叔父は益々 不審(ふしん)に思い 倩女は病気で数年来、寝ているという。宙は そんなことはない、今 船の内にいるのじゃというて 使いをやって見させるとチャンと船にいる。そんならと病臥(びょうが)している倩女に話すと、喜んで起ち、笑って語らず病室を出るのと、船から上がってきた倩女と二人は、ピッタリ合して一体となった。叔父が嗟嘆(さたん)して云く。宙がここを去ってより物を言わず、しかも酔うたようにしていたが、神魂(しんこん)遠く去ったのであったか・・と。倩女もいう、宙がここを去ることを知って 睡中にあわてて船を追うたが、その後、去る者われか、留まるもの我かを知らなかった・・と。

このどっちが本物かというのじゃ。              この理解情解をいれぬところが公案の体裁をなしている。

禅には眞も偽も そんなところにウロウロしていてはアカン。

物事についてまわったらお終いじゃ。紛々擾々(ふんぷんじょうじょう)たることなかれじゃ。本則は禅機じゃ。禅機を練るには良い公案じゃ。

 

素玄居士曰く・・

妖怪も 芝居演戯の巧みさに吊られて     霊怪不妨演戯巧

出没したり離合したり これも一興だ     出没離合又一興

人間は 五尺の身なれども、五感の外に    人間五尺五感外

また、別に風流の境(地)あり        又有別風流境在

 

    【無門曰く】もし この者裏(しゃり)に向かって、眞底を悟りえば

           すなわち知らん殻(かく)を出でて 殻に入ることは

           旅舎(りょしゃ)に宿(しゅく)するがごとくなることを。

           それ あるいはいまだ しからずんば切に乱走することなかれ。

           まくねんとして地水火風 一散せば、

           湯におつる螃蠏(ほうかい)七手八脚なるがごとくなり。

           那時(なじ)いうことなかれ、道(い)わじと。

 

【無門曰く】この奇しくも愛しい倩女の心地は、求道行脚の旅宿に泊まるごときものか。ホンモノはどっちだろう・・と、駆け回って探す・・愚かなことはしなさるなよ。

死ぬときは、窯ゆでのカニのごとくに、五体は地水火風の四元に分解して、こんはずではなかった・・と反省しても、後の祭りだ。 さあ、腹をくくって旅に出よ。「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」とうたった俳人もいたなぁ

松尾芭蕉(1644~1694)毎日の平生(日常生活)が辞世の句である・・と覚悟した。

  

   【頌に曰く】雲月是れ同じ 渓山おのおの異なり。

    萬福萬福(まんぷくまんぷく)是れ一か 是れ二か。

【頌に曰く】月は万象を照らし、渓山それぞれに清風に満つ。

「月白風清」・・是れ、けっこう毛だらけ、猫灰だらけ・・

  それ一か・・それとも二か。

この奉魯愚は、隔週位には更新しております。

 【はてなブログ 禅のパスポート お気に入り】

  ・・旧画面のままになる状況になりますので、

  お手数でも 更新しなおして ご覧ください。

 (当方での操作方法?よくわかりませんので・・)

その他⇒【禅者の一語 碧巌録意訳】

    【羅漢と真珠・・禅のココロ、元服の書】

     ともに、順次、更新いたしております。

 

禅のパスポート ◆だんまりの親の靴底・・苦労を語る! 

 

        禅のパスポート 無門関NO34  

 

    無門関 智不是道(ち これ みちならず)第三十四則

 

    【本則】南泉云く 心これ佛(禅)ならず 智これ道(禅)ならず

【本則】(素玄提唱)心も知も思慮分別で同じ意味じゃ。

佛も道も同じく禅のことじゃ。

同じことを別の文字で現したまでじゃ。

前に 人の為に説かざるの法も本則も同じじゃ。

禅語は同義語を いろいろにコンビネーションをするから、その文字に捉われると五里夢中になる。そこを未悟底(みごてい)がいろいろに講釈するから、なお解からなくなる。思慮分別したら禅がなくなると云うので、従前 いくたの則と違わない、心不佛、智不道は 即心即佛とも違うようで違わぬようなもんじゃ。

文字の駆使の巧妙は禅文学だね。

 

素玄居士曰く・・子供が西洋料理を一度食べたい、食べたいとぬかすので「エエイ、このガキめが」とコボシコボシ、横町の食堂にライスカレー1枚とコーヒー1杯。

 

  【無門曰く】南泉いいつべし、老いて羞(はじ)をしらずと。

   わずかに臭口(しゅうく)をひらいて、家醜(かしゅう)外に揚ぐ。

   しかも かくの如くなりといえども、恩を知る者は少なし。

 

【無門曰く】いろいろと禅者は、言わでもがなに、禅について示すのだが、月を指す その指さきをみて月だという輩とか、月を見て、月見ダンゴをたべたいとか、造作する者ばかりで、ホントに解かるものは皆無だな。

 

  【頌に曰く】天はれて日頭(にっとう)出で、雨くだって地上うるおう。

   情をつくして すべて説きおわる。

   ただ、おそらくは信不及(しんふきゅう)なることを。

 

【頌に曰く】太陽あれば、今日も天晴れ!

雨降れば、緑為す山並み・・

禅とは、このようなものだと、アリノママ天地同根に見せびらかしているのに、独り一人、気づかず宝のもちぐされ。

ケチをつけたり、他人との比較で愚痴ばかりだ。

中には信仰まで持ち出す者がいるけれど、禅はもともと哲理とか欣求とかに即することなし。

 

 

無門関NO33 ノーメイク 会社入れぬ 顔認証(第一生保 川柳コンクール)5/25改題

この則、全文 素玄居士の提唱ソノママを紹介します。

 

     無門関 非心非佛(ひしん ひぶつ)第三十三則

 

        【本則】馬祖 因みに僧 問う

            如何なるか 是れ佛(禅)

            祖云く 非心非佛(禅・ひしんひぶつ)

【本則】(素玄提唱)

字づらの意味では、心を非とするは、即ち佛を非とする。

この佛も「禅」のことじゃ。

心とは何か、禅とは何か、

その心以外が即ち禅以外じゃ。

いったい心に境界線があるかしら、敬とか愛には非敬も非愛もある、敬も非敬も愛も非愛も、みな心の内じゃ。

心以外とは何のことやら、禅以外とは何かナ。

文理的に云うなら即心即佛(禅)以外のものを指すことになる。

即心即佛は、前の公案(第30則)に述べた。

心以外を把握したら本則になる。

心以外というものが、あるじゃろうか、

掴んで見たら いつの間にやら心になっていた。

心だナと思ったら、いつの間にやら心以外に変わっていた。あゝ七面倒な事じゃのう。

 

即心即佛は禅の公案じゃ。

非心非佛は禅機の公案じゃ。

表と裏のようなもんじゃ。

即心即佛から禅機が生々ハツラツ、湧起(ゆうき)する。流露(りゅうろ)する、それが非心非佛(禅)じゃ。

即心即佛は述べて盡(つく)さざるところあり、非心非佛は至りて極まるところなし。

あんまり広々として、手の舞、足の踏むところを知らずじゃ。

禅機も非心非佛(禅)にならんと面白みが出ないテ。

悟臭(ごしゅう)が抜けるのじゃ。

 

素玄居士曰く・・春は嬉しや 二人揃うて花見の酒。

         ステテコ ドンドン。

 

【無門曰く】(素玄 解)

これが出来たら禅のこと了畢(りょうひつ)じゃ。

   【無門曰く】もし者裏(しゃり)に向かって見得(けんとく)せば

         参学の事 畢(おわ)んぬ。

【頌に曰く】(素玄 解)剣客だろうと、詩人だろうと「やあコンニチハ、~~~ヾ(^∇^)おはよー♪」と云うようなもんじゃ。

ヂャガ非心非佛を丸出しにはすまいぞ・・と云っているが、素玄は丸出しにしてしまった。

前二句の倄訛(こうか)が非心非佛(禅)をチャラチャラさせたつもりか知らんテ。

どうも心許ない裳裾(もすそ)の乱れか。

   【頌に曰く】路に剣客に逢わば、すべからく呈(てい)すべし。

    詩人に遇(あ)わずんば、献ずることなかれ。

    人に逢(お)うては、かつ。三分(さんぶ)を説(と)け、

    未(いま)だ まったく一片(いっぺん)を施(ほどこ)すべからず。

 

*附則 「倄訛」・・倄⇒ゴウカの字は、ゴンベンになっているが辞書にない。「嘘偽り・ごまかし」の表現の意。真の禅者と遭遇しないかぎり、本音をバラスことはしないがよい。

事の次第は、3割がた語れば十分だ。

餃子にビールで、ありのまま、気楽に話せば良いものを、よせばよいのに満漢全席の振る舞いだね。

 

「正直」でないと丸い木桶はつくれない・・タイトル 改題

「正直」の木桶づくり・・その事由とは?(問い合わせに答えます)

四角い木桶は、直線のカンナで水漏れなしに作れるが・・円状の木桶は、特別の道具(カンナ)がいる。それを「正直」という。曲がったものを作るのに、素直な「正直」の名をつけるとは、昔の職人、ナカナカやるね。

 

文字や言葉を時事即応に駆使するのに、川柳がある。

「ノーメイク 会社入れぬ 顔認証」第一生保 第31回川柳コンクール ベスト③北鎌倉人(50代男性)

「減る記憶 それでも増える パスワード」ベスト⑨脳活(20代 男性)

「スポーツジム 車で行って チャリをこぐ」ベスト①健康追求男(60代 男性) 

第一生保(31回サラリーマン川柳コンクール ベスト10より)2018年5月23日産経夕刊 抜粋。

あと50年もすれば AI社会はどう変わっているか「効率化 進めて気づく 俺が無駄」・・ベスト④さごじょう(30代 男性)

有(会)難うございました。 

 

禅のパスポート 無門関NO32

母の手が 泣く子のクチビルを「ア・ワワのワ?!」     

                                   大慈の野晒し一語(5/13 母の日に因んで)

無門関 外道 問仏(げどう もんぶつ)第三十二則

    【本則】世尊、たなみに外道 問う、

     有言(うごん)を問わず、無言を問わず。

     世尊 據座(きょざ)す。

     外道 讃嘆(さんたん)して云く、

     世尊 大慈大悲(だいじだいひ)我が迷雲をひらいて、我をして得入せしむ。    

     すなわち禮を具して去る。

     阿難ついで佛に問う

    「外道 なんの所證(しょしょう)あってか讃嘆して去る。

     世尊云く「世の良馬(りょうめ)の鞭影(べんえい)を見て行くがごとし」

 

【本則】(素玄提唱)言葉をもって答えることを問わない。無言で答えることも問わない。いったいこの外道は何を問うのかナ。どうして答えることを求むるのかナ。

こうゆう質問を作り出したのは誰か知らないが、随分ヒマな男もあったもんじゃが、また、こんなことを考えるというのもコメの値段も知らぬ奴のことじゃテ。理知の世界の思想と大分かけ離れている、別の調子じゃ、また別調の風に吹かるじゃ。

 

世界、恁麼(いんも)に廣闊(こうかつ)なりか、ここらが禅の面白みじゃ。

この外道というのは、仏教信者外の者を指し、それが釈迦当時、すでにこの禅を入手していたのだ。

禅は釈迦以前、釈迦以外にありしことを知るべく、禅を禅宗の独占のようにいうのは大きな誤りじゃ。

この則は史実でないとしても、禅に宗教的なことはないのじゃ。

 

世尊、ただ據座(きょざ)。世尊も律義なもんじゃから、外道の云うた通り、有言でも無言でもない處を見せたわけじゃろうが、ここは據座も良久(りょうきゅう)も黙(もく)も、そんなことに拘わりはないのじゃ。

ポンと1本棒でどやしてもよいし、喝でも逆立ちでも喋っても、どんな芸当をして見せてもかまわぬのじゃ。禅者の一挙手一投足、一言でも多言でも、すべて禅ならざるなしじゃ。

據座にシガミついたら了期なしじゃ。

 

外道も據座で悟ったかどうか、こやつも禅者で世尊を検(ため)しに来たのかもしれず、あるいは本当にここで悟ったかも知れん。優れた禅者だと、その前に行くと自然に打発することもあるのじゃ。

趙州の洗鉢や喫茶去の一語で了悟した奴もあるのだから、世尊は、良馬が鞭の動く影を見て走り出すようなもんじゃと云うたが、修行が積むとどんなことが機縁となるか、解からんもんじゃ。

素玄居士曰く・・窓の外 苗売りの声、室内 一碗の茶。

 

  【無門曰く】阿難は すなわち仏弟子、あたかも外道の見解(けんげ)に如かず。

   しばらく道え、

   外道と仏弟子と相去(あいさ)ること多少(たしょう)ぞ。

【無門曰く】アーナンダは、釈尊の従兄弟にあたる、多聞第一の人である。だが、禅による生活の見識と随分の格差、違いが出てしまったな。

    【頌に曰く】剣刃上(けんにんじょう)に行き、

    氷稜上(ひょうりょうじょう)に走る。

    階梯(かいてい)に渉(わた)らず、

    懸崖(けんがい)に手を撒(さっ)す。

【頌に曰く】禅者は、するどい刃(ヤイバ)の上を行くように、ツルツルの氷の上を走るように・・のんびり階段を上り下りするのでなく、高い崖にかけた手をツイと放すような・・絶妙な瞬間に打発するのだ。

 

 

無門関 NO31 この飯は砂まじりだ!

禅のパスポート 無門関NO31  

サァテ・・婆さんから、掏り取った財布の中身、ナンボのものか・・当ててみなさい!

(スリの極意は、中身を抜いて空の財布を元にもどしておくソウナ・・)

 

 無門関 趙州勘婆(じょうしゅう かんば)第三十一則

    【本則】趙州、因(ちな)みに僧、婆子(ばし)に問う。

    臺山(たいざん)の路(みち)いずれの處にむかってか去る。

    婆云く、まくじきに去れ。僧わずかに行くこと三五歩。

    婆云く、好箇(こうこ)の師僧、また恁麽(いんも)にし去る。

    後に僧ありて州に挙示(こじ)す。

    州云く、待て、我去ってなんじがために、この婆子(ばし)を勘過(かんか)せん。

    明日すなわち去って、また かくのごとく問う。婆もまたかくのごとく答たう。

    州帰って、衆に謂(い)って曰く、

    臺山の婆子、我 なんじがために勘破(かんぱ)し了(おわ)れり。

【本則】素玄居士提唱 

趙州の弟子のどやつもが婆子にしてやられる。

学人修禅のためにも邪魔ものとでも思ったのか、趙州も八十からの老人のくせにノコノコ婆子の所まで出かけたのじゃ。

だが、その時の問答の様子は一般の僧の場合と同じで、その他のことについてはチットも書いてない。どんな具合にやったのか、わからぬが、これを書き落としとか読者の想像にまかせるなどと思ったら大間違いじゃ。かくの如く問い、かくの如く答えた以外にないのじゃ。

それなら、どこを勘破(かんぱ)したのじゃろうか。

あんまりアケスケに書いては修行を毒するようなもんじゃが、これも禅の大衆化でやむを得ないか。

いったい何度もクドクドしく云うが、禅では物事についてまわってはいけないのじゃ。禅には即することはないのじゃ。だから趙州はテンで初めから婆子を勘破する考えはない。勘破しようとしたらかえって婆子に勘破せられるだけじゃ。

好箇(こうこ)の師僧、また恁麽(いんも)にして去るじゃ。

早く既に勘破するの念なきが故に、すでに早く勘破し了(おわ)ったのじゃ。それならどう勘破したのじゃろうか。

ここでチョット五臺山のことを書いておく。これは碧巌集 文殊前後三三(三十五則)にある。無着(むちゃく)和尚が飄然(ひょうぜん)として、荒涼たる五臺山を旅行中、一寺院を訪ねて宿泊した。そして文殊が居て問答する。文殊は釈迦の弟子中、智慧第一と言われた人である。文殊、問うて曰く、南方の仏法如何か住持すと。着云う、末法の比丘(びく)少しく戒律を奉ず。珠また云う、多少の衆ぞ。着云う、あるいは三百、或いは五百。無着、文殊に問う、この間、如何か住持す。珠云う、凡聖同居し龍蛇混雑なり。着云う、多少の衆ぞ。珠云う、前三三後三三。翌日、無着 辞して寺を去る。均提童子(きんていどうじ)これを送る。着問う、是れ何の寺ぞ。童子、金剛の後面(山の寺)を指す。着、頭(こうべ)を回(めぐ)らせば、寺も童子も見えず、ただ是れ空谷(くうこく)なり・・云々(うんぬん)。このことは碧巌に、まだ二三のことも附記して、頗(すこぶ)る面白く書いてある。

この前三三後三三の公案は、禅機溌剌(はつらつ)で、この戯曲の作者は誰かわからないが、確(しっか)りとした禅者だ。禅境は別に是れ祖庭の春じゃ。

素玄居士曰く 双葉山 臺山に高きこと六八寸(18~24㎝)

   【無門曰く】婆子、ただ坐(い)ながら はかりごとを帷幄(いあく)に解(げ)して、

   要はかつ賊を著(つ)くることを知らず。

   趙州老人、よく営を盗み塞(さい)をおびやかすの機を用(もち)いて、

   また かつ大人(たいにん)の相なし。

   検点しもちきたれば、二(ふた)り ともに過(とが)あり。

   しばらく道(い)え、なりか是れ趙州、婆子を勘破する處。

【無門曰く】臺山への道を問う求道者の誰彼に、ただ真っ直ぐに行け・・の一点張りの茶店ばあさん。趙州に、正体を見破られ、完膚なきまでにシテヤラレタことを知らない。

趙州老師も、泥棒の本領を発揮してナントおとなげない、いたずら小僧のようだ。

趙州も婆さんも、ドッチモドッチだな。

さあ、この婆さんの大事な財布を掏り取った趙州。果たしてイクラの札束を手にしたか・・当ててみよ。

   【頌に曰く】問(もん)すでに一般。答(とう)もまた相似たり。

     飯裏(はんり)に砂あり、泥中(でいちゅう)に棘(いばら)あり。

【頌に曰く】問うも、答えもありふれてはいるが、この飯は砂まじりで喰えたものではない。泥の中に鋭いトゲがある。一筋縄ではイカナイぞ。

 

 

禅のパスポート 無門関NO30 ◆コピペはホントの「自分」じゃないぞ!

 

    ◆コピペの「心」は・・ホントの「自分」じゃないぞ!

   無門関 即心即佛(そくしん そくぶつ)第三十則

    【本則】馬祖 因(ちなみ)に大梅(だいばい)問う

     如何なるか是れ佛(禅)

     祖云く 即心即佛(禅) *佛とは覚者のこと・・禅の意と同義。

【本則】素玄居士 提唱(原文そのままに紹介。( )内は意訳)

馬祖は即心即禅(佛とは禅)という。素玄(私)は「禅」は対象を絶し心意を超越するという。ドッチが眞でドッチが偽か知らんテ。

何より簡単なのは心を掴(つか)みだして見ることじゃ。

そしてそれが禅かどうかを調べるのじゃ。

サア、皆の衆、自分の心を掴んで見ておくれ。

掴んで見たら他人の心であったら駄目じゃ。

自分で自分を精神することが出来れば、自分の心が自分の心になるのじゃが、精神してみたら、どうやら自分以外のものになってしまっていはせぬかナ。

(素玄居士、提唱中、この則1回だけ、言葉(文字)で、いいつくせる限界ギリギリまで、老婆親切=心接に語っているが、漫画しか見ない、文字離れの現代・・読み飛ばされても結構です・・)

心理学では手のつけられぬ問題になっている、自分自身の精神を他人の精神の如く観じ批判することは出来る、自省(じせい)という奴じゃ。然らば自省するものは何かというと、そ奴はいつの間にやら自分でなくなる。

自省もつまり他観批判じゃ。道徳も自律というが自律する奴は自分以外にあって、それが自分以外の自分を他観し批判し、且(か)つ自律の命ずるままになっているのじゃ。自律が自分を圧倒してくれる。自分はどこにあるか判らない。修養とは、この高遠な自律の命ずるままに聴従する習慣に外ならない。

この事は自心を自観する習性が人間に成立しなかったのではないかと思う。

パブロフ(露国の心理学者)の刺激と反射の理論からすると、自心を自観する習性は成立し得なくて、かかる場合においても類似の他観に被覆せられるのではなかろうか。自心を自観する刺激ができない。自心を自観する反射も成立しない。習性の不成立じゃ。もとより、これは素玄の私説にすぎないが・・。

この自心というも心意に対象をもうけ、それに律せられると云うことに外ならず、即心と云うもつまるところ対象を立(りっ)し、それを心とし、それを把握する・・それを禅だとする。

もし馬祖の意がこうであるとすると「即心即佛」は「禅」にならぬ。心を超越せず心を立し対象を作っているから、そしてその心は一般の対立的な平凡な心にすぎない。馬祖ともあるものがこんな心のことを云うはずがない。

馬祖の心は一事の立するなき心じゃ。

把握することなき、知識することなき心じゃ。

道徳とか自律とか信仰とか、そんな紛々擾々(ふんぷんじょうじょう・思いわずろうの意)なることなき心じゃ。

心意を心意することのない、水灑(みずそそ)げども水着(みずつか)ずじゃ。

この心が佛(覚・サトリ・禅)じゃ。

心の心とすべきなきところが禅で、心意の超越であり素玄の禅と同じことになる。

處でそれは不可得の心で、即心というとその不可得の心を可得することになる。

(達磨安心 第41則)慧可の不可得に向かって達磨が「汝の為に安心す」としたのは、その不可得を可得して安心するとしたのである。不可得の把握が即心で達磨の安心じゃ。

即心即佛(禅)じゃ。

素玄云く 

 昨年三百餘 不招新年来(去年はアレよアレよ)

   復々三百餘 又々新年来(今年の正月はアッ!という間!)

 

  【無門曰く】もし、よく直下に領略し得去らば、佛(禅)衣を着、禅飯を喫し、

   禅法をとき、禅行(禅による生活)を行ず。すなわち是れ禅ならん。

   (これを早合点するなよ)

   しかも、かくのごときなりといえども、大梅、多少の人を引いて 

   あやまって定盤星を認めしむ(固定、概念的に認知する・・秤の目盛りを誤まるな)

   いかでか知らん、この佛(禅)の字を説くも三日、口を漱(すす)ぐということを。

   もし是れ、この漢ならば 即心即佛(禅)と説くを見ば、耳を蔽うて すなわち走らん。

 

【無門曰く】よく聞きなさい。

佛(禅)の事を説明したら、三日間は口を漱いで(うがい)しなければならない。コレを聴いたら、耳をふさいで逃げ出せ・・と言われた。

   【頌に曰く】青天白日(禅は・・露堂々、隠れていない)

   切に忌む 尋覓(じんみゃく・・たずね求めるな)することを。

   更に如何(いかん)と問えば、臓をいだいて屈と叫ぶ。

  (腹いっぱいにご飯を食べて、食べていないと叫ぶようなもの・・の意)

【頌に曰く】 「水」を雲と言い、霧と言い、氷と言い、H2Oと言い、春の小川、滝、湖、大海の・・と言ったところで、その水の中にいて、喉の渇きを訴える・・悩みの独り一人は、ゴクリとMIZUを飲まねば、本当の癒しにはならない(白隠坐禅和讃)

   ヘレン・ケラーが「WATER」とサリバン先生に手文字で書いたソノ瞬間・・

   それがソレに近い例えであろう。自分の内側から「内爆」する発見です。

 重ねてご注意・・経本や教育のコピペ「心」は・・ホントの「自分」じゃないぞ!

 どうぞ・・はてなブログ「禅・羅漢と真珠」・・江戸時代、庶民の言葉で直指、不生禅を説いた盤珪さん、紹介中。おりご覧ください。

禅のパスポート 無門関NO29

愛は利己・・大慈は利他なり・・盤珪永琢(ばんけいようたく1622~1693 不生禅を提唱)

・・ナラバ禅行は・・?

無門関 非風非幡(ひふう ひはん)第二十九則

【本則】六祖 ちなみに・・風、刹幡(せつぱん)を颺(あ)ぐ、

    二僧あり、対論す。一(ひと)りは云く「幡(はた) 動く」と。

    一りは云く「風 動く」と。往復して かって理に契(かな)わず。

     祖云く、是れ風の動くにあらず、是れ幡の動くにあらず、

    仁者(じんしゃ)が心 動くと。

    二僧 悚然(しょうぜん)たり。

【本則】素玄居士 (原文のまま)

幡(はた)の動くのは、お前さんたちの心が動くのだ・・とは頗(すこぶ)る禅的だ。遉(さすが)に六祖じゃ。

大庾嶺(だいゆれい)の大将が、世の難を避けていたが、禅、興隆の時に臨(のぞ)み、山から下りた際の話である。

禪ではモノに即することなく、心は又その大敵じゃ。

風幡(ふうはん)に即せざるも、心が残っているから心で風も幡も動かしている、心に眼をつけて眼の敵(かたき)にするのじゃ。肚(はら)がドッシリと坐っていると心奴(め)動き出ぬ。

心がヒッ込んでいると禅機、活発じゃ。撃石火(げきせきか)閃電光(せんでんこう)の活作略(かつさりゃく)をする。

ここが禅の生々たる流露(りゅうろ)じゃ。

素玄云く 帝銀事件で予審判事と検事とが互いに不事実を強調している。言の長き事6尺、語軽きこと三斤。

【無門曰く】(この・・無門曰くと、頌に曰く・・は、どの則も意訳です)

風や幡や心に絡みつかれては、祖師(ZEN)は見えてこない。

では恵能の真意をどこでみるか。もしも、その真意を、はっきりと見るならば、二人の求道者は「鉄」を買って、それが「純金」だったことで、大儲けしたことになる。

六祖恵能は大変ご苦労なさった方なので、ツイツイ本音を漏らして、禅の大事を安売りしてしまった。

  【無門曰く】是れ風の動くにあらず、是れ幡の動くに非ず、是れ心の動くに非ず。

   何のところにか祖師を見ん。

   もし、この者裏(しゃり)に向かって見得して親切ならば、

   まさに知る、二僧、鉄を買うて金を得たり。

   祖師は忍俊不禁(にんしゅんふきん)、

   一場(いちじょう)の漏逗(ろうとう)なることを。

 

【頌に曰く】風も幡も心も、全部、たった一つの判決文で、決済をすましてしまう。言葉や文字を追っかけていては、すべてが邪魔で災いのもとになる。

心が動く・・と言えば落語のオチとなろう。

   【頌に曰く】風幡心動(ふうぱんしんどう)一状に領過(りょうか)す。

    ただ口を開くことを知って、話堕(わだ)することを覚えず。

 

【附記】帝銀事件・・1948年1月、東京都豊島区の帝国銀行、椎名町支店に現れた男が、伝染病予防のためと言って青酸カリ溶液を飲ませ12名を毒殺。現金を奪った事件。

犯人とされた平沢貞道は犯行を否認、1955年死刑確定。

再審請求がなされて刑の執行がなされないまま1987年、95才獄死した。

禅のパスポート 無門関NO28

尊き大道も書物の時は、

世の中の用を潤沢(じゅんたく)することなし。

(水の氷たるが如し。さて氷となりたる経書を世上の用に立てんには、よく溶かして元の水として用いざれば潤沢にはならず無益の物なり。二宮尊徳/夜話) 

二宮尊徳の格言・・例えれば、文字言語は水が硬く凍り付いた「氷」の状態であり、活用しようとすれば、溶かして水にしないといけない。

実際に畑を潤おし、人の喉の渇きを癒すのは「水」の働きである。

水は方円にしたがい自由自在である・・の意。

 

     無門関 久響 龍潭(きゅうきょう りゅうたん)第二十八則

【本則】素玄居士の提唱を、ソノママに記述します。

徳山は金剛経を講じ、南方に魔子(ます・ZENという仏法破壊者)ありて、即心即佛というを聞き、これを打殺せんとして金剛経 疏抄(しょしょう・詳細な解釈、講義資料付)を肩に担い、龍潭を訪ねて、この商量(問答)となった。

紙燭(ししょく)を消して黒漫漫(こくまんまん)か、こんなところで悟ったら無我夢中じゃ。徳山の云うことを見てもわかる、和尚の即心即佛を疑わずと。力の抜けた矢のようなもんじゃ。

何で「牟(む)う」と云わぬ。暗闇(くらやみ)の黒牛じゃ。

そしたら俺は讃(ほ)めてやるがな。龍潭も出放題に讃めちぎっている。とかく禅を修じはじめは、チョット手がかりがついたような気がするが、そんなことで也太奇(やたいき・奇跡的)だとか何だとか、独りで偉がるのがある。しかし徳山は、後来、豪物(ごうぶつ)になるだけに、疏抄を焼いたが、こんな荷物をかついで歩くのも大変なわけじゃ。お経と禪とは全然 別物で、そこがわかっただけでも、まずまず結構。

  【本則】龍潭、ちなみに徳山 請益(しんえき)して夜にいたる。

    潭云く「夜ふけぬ。なんじ何ぞ下り去らざる」

    山 ついに珍重(ちんちょう)して廉(れん)をかかげて出(い)ず。

    外面の黒きを見て却囘(きょうい)して云く「外面くらし」

    潭すなわち紙燭(ししょく)を点じて度與(どうよ)す。

    山 接せんと擬(ぎ)す。潭すなわち吹滅(すいめつ)す。

    山 ここにおいて忽然(こつぜん)として省(しょう)あり、

    すなわち作禮(さらい)す。

    潭 云く「なんじ、この何の道理をか見る」

    山 云く「それがし今日(こんにち)より去って

         天下の老和尚の舌頭(ぜっとう)を疑わず」

    明日にいたって龍潭 陞堂(しんどう)して云く、

   「このうち この漢あり。牙釼樹(げけんじゅ)の如く、口 血盆(けつぼん)に似たり。

    一棒に打てども頭(こうべ)を回(めぐ)らさず、

    他時異日(たじいじつ)孤峰頂上(こほうちょうじょう)に向かって、

    吾が道を立(り)っすることあらん。

    山ついに疏抄(しょしょう)を取って法堂前において、一炬火をもって

    提起して云く、諸(もろもろ)の玄辯(げんべん)を窮(きわ)むるも、

    一毫(いちごう)を太虚(たいきょ)におくが如く、

    世の枢機(すうき)をつくすも一滴を巨壑(きょがく)に投ずる似たりと。

    疏抄(しょしょう)をもってすなわち焼き、ここにおいて禮辞(らいじ)す。

 

素玄曰く 映画の殺陣(たて)・・コロリと死んでる。

【無門曰く】(この・・無門曰くと、頌に曰く・・は、どの則も意訳です)

徳山は龍潭に至るまで、学問知識の自慢でいっぱい。ZENの不立文字の意味すら、知識解釈で用足りると思い込んでいた。

行脚(あんぎゃ)の途中、茶店のヤリ手婆さんとの「點心(てんじん)問答」・・金剛経の一説「過去心、現在心、未来心、すべて不可得(ふかとく、あり得ない)のに、昼飯がわりの食事(點心、てんしん)、いったいどこに點ずるのか?答えられずに徳山の口は「への字」になってしまった。

この「ココロを点ずる」のはどこか・・道うて見せよ・・そうずればモチ代は無料にしてやる・・に答えられず、自慢の鼻をへし折られたが、コノコトを教えてくれた先生の居場所だけは突き止め、龍潭にたどりついた。

だが、まだ負けず口だけは達者だった。

「ナンダ・・ハロバロと辿り着いてみれば、龍が棲みつくような淵もなければ・・ただのチッポケな池があるだけじゃないか」

このように龍潭に参禅、問答した由来は、徳山にとっては大事かもしれないが、私やアナタにはどうでもよいこと。

龍潭は、多少、見どころのある徳山に・・妄想の火だね・・があることを見抜いて、夜更けの話の帰り際、明かりを吹き消す・・思い切りの冷や水を頭から浴びせたのである。徳山、省あり・・これは悟りではない。禅機に気づいた状態(知識を氷とすれば、心が自由に行動できる水の状態)で、これからコノコト(色即是空)を、生活の中に体験していく修養の始まりにすぎない・・ので、冷静に見れば、この公案・・一場のコントなのである。

   【無門曰く】徳山いまだ関を出でざる時、心墳墳(こころふんぷん)口悱悱(くちひひ)

    とくとくとして南方に来って、教外別伝の旨を滅却せんと要す。

    禮州(ほうしゅう)の路上にいたるにおよんで、

    婆子(ばす)に問うて點心(てんしん)を買わんとす。

    婆云く、大徳(だいとく)、車子(しゃし)の内(うち)是れ何の文字ぞ。

    山云く、金剛経の疏抄。

    婆云く、ただ経中に云うが如くなれば、

    過去心も不可得(ふかとく)、現在心も不可得、未来心も不可得と。

    大徳、那箇(なこ)の心をか點ぜんと要するや。

    徳山この一問を被って、直に得たり口扁擔(くちへんたん)に似たることを。

    しかも かくの如くなりといえども、あえて婆子の句下(くげ)に向かって死却せず。

    遂に婆子に問う、近所に何の宗師かある。

    婆云く、五里の外(ほか)に龍潭和尚あり。

    龍潭に到るにおよんで敗闕(はいけつ)をいれ盡(つく)す。

    いいつべし、是れ前言後語に応ぜずと。

    龍潭、おおいに児を憐れんで醜(みにく)きを覚えざるに似たり。

    他の些子(しゃし)の火種(かしゅ)あるを見て、郎忙(ろうぼう)して

    悪水(おすい)をもって驀頭(まくとう)に一澆(ぎょう)に澆殺(ぎょうさつ)す。

    冷地に看(み)きたらば、一場(いちじょう)の好笑(こうしょう)ならん。

 

【頌に曰く】百聞一見に如かず・・というが、一目見ただけでは、教外別伝(仏教のそと・・別の教え)は、簡単に納得できない。ではどうするか・・徳山は、鼻を捻じられることは防いだが、イキナリ眼をつぶされて、おかげで禪のことが少しわかったようだ。

    【頌に曰く】名を聞かんよりは面(おもて)を見んには如(し)かず。

    面を見んよりは 名を聞かんには如かず。

    しかも鼻腔(びくう)を救いうるといえども、

    いかんせん、眼晴(がんせい)を瞎却(かっきゃく)することを。 

 

【附記】

*徳山宣鑑(とくさんせんかん/蜀、四川省の禅者780~865)若くして、すでに一角の仏教学者であつた徳山(周金剛は、南方に「禅」という不立文字教が流行っていると伝聞して、悪魔の教えを破壊すべく、講釈用の金剛経を引っ担ぎ、蜀をでて南下。途中、禮州路で茶店の婆さんに「どこに点心するのか」と問われて、答えられず、手ひどくやり込められた。

そのあと、龍潭に尋ね、夜分に到る問答で、明かりを吹き消されて1本負け。自慢の金剛経を焼き捨てた・・話である。

龍潭を辞して、その足で潙山(いさん)霊祐(れいゆう)のところにやってきた問答は、碧巌録第4則「徳山 潙山に到る」で詳しく紹介します。

折に はてなブログ「禅・羅漢と真珠」「禅のパスポート」ご覧ください。

 

 

 

禪のパスポート・・無門関 第二十七則 素玄居士提唱(意訳)

     無門関 不是心佛(ふぜ しんぶつ)第二十七則

【本則】素玄居士提唱(今回も原文のまま、意訳しません)

人のために説かざる・・の法は・・何のための法か。

人だとか犬だとか馬や木や、そんな相手を目当てにせぬ法もあるのじゃと、南泉も出鱈目(でたらめ)なことを吐(ぬ)かすが、これも南泉の手腕じゃ。

禪をしっかり掴んでおれば、何を言っても、それが通るのじゃ。

さすがに趙州の先生ほどあって すらすらとよくも口から出るわい、この心を不とし、この佛(禪)、この物を不とするのじゃと、萬象を抹殺し去って・・この何をか説く。

 

  【本則】南泉和尚 ちなみに僧 問うて云く

  「還(かえ)って人のために説かざる底(てい)の法ありや」

   泉云く「有り」

   僧云く「如何なるか是れ 人のために説かざる底の法」

   泉云く「不是心(ふぜしん)、不是佛(ふぜぶつ)、不是物(ふぜもつ)」

 

素玄曰く 欧亜連絡、仏国ドレ機、高知海岸に不時着。

      飛行機大破。二鳥人は軽症、まずまず安心。

*ちょうど、こうした大陸横断のフランス機が高知県に不時着する事件があったようです。飛行士2名は軽症で無事との報道に、素玄居士、一安心した様子がうかがえます。

*1937=昭和12年5月26日夕方、フランスから香港経由、東京に向かう百時間懸賞飛行の中、コードローンシムーン単葉ツーリング機、搭乗マルセル・ドレー/フランソワ・ミケレッチは、四国の戸原海岸に不時着。2名は地元の人々に軽症で救助された。のちフランスに帰国。同時期、星の王子様で有名なサン・テグジュベリもサハラで不時着し、九死に一生を得ている・・そうだ)

 

【無門曰く】(この・・無門曰くと、頌に曰く・・は、どの則も、私の意訳です)

あんまり説きすぎるのも良くないゾ。

隠すこと一切なし・・とはいえ、隠さなすぎるのも問題。私財のありたけを放り出してしまって、どうするつもりかな。

 【無門曰く】南泉この一問を被(こうむ)りて、直に得たり 

  家私(かし)を揣盡(しじん)して 郎當(ろうとう)小(すく)なからざることを。

 

【頌に曰く】説きすぎは自分の徳をそこなうばかりか、お釈迦様まで傷つけることになる。

いっそのこと黙っておればよかった・・。

たとえ、地球の海水が1滴も無くなろうと、こんなことはイワナイ・・の覚悟でおれば、すべてが安泰だっただろうに・・。

  【頌に曰く】叮嚀(ていねい)は君徳(くんとく)を損(そん)す。

        無言 眞(まこと)に功有(こうあ)り、さもあらばあれ、

        滄海(そうかい)は変ずるとも、終(つい)に君が為に通(つう)ぜず。

 

奉魯愚「禅者の一語・・碧巌録意訳/羅漢と真珠・・禅の心、禅の話」おりにご覧ください。

            有(会)難うございました。      

 

 

 

  

禅のパスポート 無門関NO26  

簾を巻き上げれば、青空が見える

       ・・だが大空は禅ならずジャ!

 

    無門関 二僧 巻簾(にそう けんれん)第二十六則

【本則】素玄提唱(原文のまま・・意訳ありません)

この一得一失が禅の妙じゃ。

二僧同じく去って簾を巻く、歩き具合も手つきの様子も、眼つきも腰つきも何一つ書いてないのじゃ。

そんなことは無用じゃ、それなら・・どこに一得一失があるか、

臨済は賓主歴然(ひんしゅれきぜん)という語を用いているが語意いよいよ同じじゃ、がまた別なりだ、

無礙縦構(むげじゅうこう)の禅機は、書いて書かれぬことはないが、そんなことは読んだだけではナルホドというだけで他人の刀を借りて振り回すようなもんじゃ、剣道の技倆(ぎりょう)にはならん、

かえって他を傷つけ自からを害(そこ)なうのみじゃ、

教えられるとその人に禅が湧いてこぬ、

学人を毒することになる、また学人の為にもならぬこともあるのじゃ、また教えたところで悟りにはならぬ、

要は悟るにある、悟れば一得一失がわかる、

サア法眼のこの禅機を勘破(かんぱ)せよ。

   【本則】清涼(せいりょう)の大法眼(だいほうげん)、

    因(ちな)みに僧、斎前(さいぜん)に上参(じょうさん)す、

    眼、手をもって簾を指す。

    時に二僧あり、同じく去って簾を巻く。

    眼曰く、一得一失(いっとくいっしつ)。

 

素玄曰く ラジオの天気予報、

      東の風又は西の風・・晴れ又は雨。 

 

【無門曰く】(この無門曰くと、頌に曰くは、どの則も意訳です)

二僧の誰が良し・・であり、誰が至らぬ・・のか。

もし、ちゃんとした見どころを押さえた者であるなら、清涼国師の大事な、基準点がわかろうというものだ。

(素玄云く・・サラケ出してやったぞ。得も失もアルモンか!)

  【無門曰く】しばらく道え、これ誰か得 誰か失。

   もし 者(しや)裏(り)に向かって、一隻眼(いっせきげん)を著(じゃく)得(とく)せば、

   即ち清涼国師 敗闕(はいけつ)の處を知る。

   しかも かくの如くなりといえども、

   切に忌(い)む、得失(とくしつ)裏(り)に向かって商量(しょうりょう)することを。

 

【頌に曰く】簾を巻けば、清々しい青空が見えてくる・・

これが禅だと思うと大誤解となる。・・大空は禅ならず。

ここのところをしっかりツカメ。けれども、閉め切って風通しが悪いのも禅ならずじゃ。

どうも、この頌は少しソグワヌところがある。

   【頌に曰く】巻起(けんき) 明明として太(たい)空(くう)に徹す、

    太空なお いまだ吾宗に合(かな)わず。

    いかでか似(し)かん 空よりすべて放下(ほうげ)して

    綿綿(めんめん)密密(みつみつ) 風を通(つう)ぜざらんには。

禅のパスポート 無門関NO25 (無い門を) 叩けよ・・さらば開かれん!(seisyo no Kopipe)

    無門関 三座説法(さんざ せっぽう)第二十五則

【本則】潙山霊祐の弟子、仰山(ぎょうさん慧寂けいじゃく 814~890)潙仰宗(いぎょうしゅう)の開祖の夢談義。

彌勒(みろく)菩薩(ぼさつ)の所に招待されて、第3座(講演)を依頼された。

司会者がカチンと机を打って(白槌)、居並ぶ菩薩や羅漢、居士達が注目する中、仰山を紹介した。

仰山「それ摩訶衍(まかえん)・・大乗(禅)の法は・・四句(一異有無を離れ)×過去+現在+未来+未起+巳起=百非・・を絶す。

よくぞ、大事なコノコトにお付き合い頂いた」と喋った所で・・目が覚めたトサ。

禅語、問答に出てくる定番「四句百非」わざわざ勘定するに及ばない・・要は言語を絶する・・禅の意。

坐禅して何か納得できたら、早く行動して身に着けて、「コノコト」の覚悟は忘れることだ。

上味噌は、ミソ臭くはない。

 【本則】仰山(ぎょうさん)和尚 夢に彌勒(みろく)の所に往(ゆ)いて第三座に安(あん)ぜらる。

    一尊者あり、白槌(びゃくつい)して云く。今日(こんにち)第三座の説法に當たる。

    山すなわち起って白槌して云く、

    摩訶衍(まかえん)の法は、四句を離れ百(ひゃく)非(ひ)を絶す。

    諦聴(たいちょう)、諦聴と云うを見る。

*禅は、四句百非・・仏教学を学ぶのではないから、月を指さす指先のゴチャゴチャした文句は学者にまかせて、直ちに本題の月を仰ぎ見るがよい。白槌で始り白槌で了わる・・それが禅です。

 

素玄云く・・寝言歯ぎしり、喰い過ぎのとが。

【無門云く】無門も「コノコト」の例えようがなく、仕方なく、似たような文句を並べただけ。

水槽の酸欠でクチヲパクパク足掻いている・・金魚のような菩薩サン達だ。

禅から遠きこと十万八千KM。

   【無門云く】しばらく道(い)え、これ説法するか、説法せざるか。

         口を開ければ即ち失(しっ)し、口を閉じればまた喪(そう)す。

         開かず閉じざるも、十萬八千。

*十萬八千KMとしたが、八萬四千の法蔵の経といい、読み終わり、納得するのに、どれほどの時間経過が必要か・・解からない・・の意。

 

【頌に云く】すべての生活と社会は、本来、カラリとした青空の境地なのに、夢の中で夢を説く・・騙されるなよ!目を覚ませ!

煩悩即菩提(ぼんのう そく ぼだい)だぞ!

   【頌に云く】白日(はくじつ)青天(せいてん) 夢中に夢を説く。

         捏怪(ねつかい)捏怪、一衆を誑謼(おうこ)す。 

 

 

禅のパスポート 無門関NO24 「ひと風呂浴びて・・ビールと餃子!」

禅者の一語を「おもしろくない」とか、「真面目過ぎて困り者だ」「むろん不真面目はいけない」など、評論する輩は放っておくこと。

この無門関、碧巌録に登場する、どこのだれを指して、まじめすぎは困り者だと言うのか。

 

無門関 離却語言(りきゃく ごごん)第二十四則

【本則】禅を語れば語るだけ「禅」から離れてしまう。・・では黙ってしまえば、今度は内にこもった臭いオナラのようになる。要は語黙によらず「禅」を示せ・・と、求道者は迫ってきたわけだが、風穴は、春ののどかさを詩に託して示した。

はたして、それで百点満点かどうか・・

ここで素玄居士の一言。

公案は禅か禅機かをしめすもの。何と言うても同じことの一つ事だから、一則しっかり手に入ると、千則万則みな透るのじゃ。

それがギクシャクして透らなければ本物じゃない。無門の評も頌も、素玄曰くもその通りで段々と種切れになる訳だ。

落語と同じで、噺の起承転結・・役柄の演技、セリフは、男は男らしく女は女らしく、落としどころが必ずあって、オチは同じ。

噺の筋は違うように思えても、落つれば同じ谷川の水・・つまるところは同じなのが種明かしだ。

   汝州の風穴延沼に求道者が問う。

   お喋りは災いの素。だからと言って、沈黙は金じゃない。

   息ひとつしてみせるのも悪臭無限だ。

   サア・・ZENとは何だと詰め寄った。

   風穴・・鼻先に、怒り顔で詰め寄る求道者に・・

   「この地(江南)、春先は格別だな。鳥が啼いているし、

    花は香っているし・・ひと働きしたし・・ね」

     【本則】風穴(ふうけつ)和尚、ちなみに僧問う

      「語黙は離微(りび)にわたる、如何(いかん)が不犯(ふぼん)を通ぜん」

      穴云く「長(とこしな)えに憶(おも)う  江南三月(さんげつ)の裏(うち)、

                      鷓鴣(しゃこ)啼(な)く處(ところ) 百花香(かんば)し。

 

素玄曰く いにしえの奈良の都の八重桜 今日九重に匂い塗るかな(古歌)

 

【無門云く】風穴は、春の感想詩をうまく、スパリと表現して見せた。それは、禅に背いていないが、すでに「詩であり語であり」問答の口先に乗っている。・・だけれども、今回は・・必ずしも語に堕している訳でもない・・禅者らしい境地が偲ばれる・・語黙をすり抜けた処を見抜いてほしいものだ。

   【無門云く】風穴の機 掣電(せいでん)の如く、路(みち)をえてすなわち行く。

    いかんせん前人の舌頭に坐して断ぜざることを。

    もし者(しゃ)裏(り)に向って見得して親切ならば、

    自(おの)ずから出身(しゅっしん)の路(みち)あらん。

    しばらく語言三昧(ごごんざんまい)を離却(りきゃく)して一句を道(い)いもち来れ。

 

【頌に曰く】この春を歌う詩は、風骨を表さず・・変わったところは何もない、求道者が問うたから作詞したものではない・・自然そのものが謳われている。

この詩の意味は、ああだ・・こうだ・・と理屈道理をこねるほど間違うものとなる。素直に、百花とまではいかなくても、春の花咲き乱れる温泉にでも入って、ウグイスの啼く声に聞きほれてごらん・・と言いたいね。

   【頌(じゅ)に曰く】風骨(ふうこつ)の句を露(あらわ)さず、 

           いまだ語(かた)らざるに先(ま)ず分布(ぶんぷ)す。

           歩を進めて口喃々(くちなんなん)たれば、

           君が大いに措(お)くことなきを知りんぬ。

 

 【附記】  いにしへの 奈良の都の 八重桜

      けふ九重に にほひぬるかな      伊勢大輔(61番) 

現代語訳・・昔の、奈良の都の八重桜が、今日は九重の宮中で、 ひときわ咲き誇っております。

 *江南・・中国、揚子江から南を江南という。北は江北。

*風穴延沼(ふけつ えんしょう896~973)臨済樹下の禅者。

 

 

禅のパスポート 無門関NO23 「伝法の袈裟、燃やせば煙バカリでいかん。枯れ枝を集めて焚き木して芋でも焼こうぞ。 

この、六祖恵能が大庾嶺(だいゆれい)で神秀(じんしゅう 明)上座と衣鉢の取り合いを演じた・・二十三則の前には、蘄州(きしゅう)黄梅県、東馮墓山(ひがしひょうもざん)の五祖弘忍(ぐにん)を訪ねる、嶺南(れいなん・・南蛮(なんばん)、獹獠(かつろう)/野蛮な猿猴(えんこう)の住人)の薪売りで母を養う蘆(ろ)行者(あんじゃ)=曹渓(そうけい)恵能(えのう 638~713)の、求道見性の話がある。

菩提(悟り=悟道の人)はあるのか・・その悟境(地)はどんなものか・・禅を伝燈するにあたり、頌偈(じゅげ)を求めた五祖弘忍に、暗夜、明上座は一篇の禅境詩を書き付けた。

   身是菩提樹   わが身こそ悟りの樹なり

   心如明鏡台   ココロは磨かれた鏡のごとき

   時々勤払拭   迷いの曇りを磨き上げして

   莫使染塵埃   ホコリやチリに汚染されぬようにすべし

あくる朝、壁に書かれた偈を読んでもらった、字の書けぬ蘆行者はついでに、ワシの詩を頼んで二つ書いてもらった・・と、正直に六祖壇経(敦煌本・恵能自叙伝)にある。

   菩提本無樹   もともと悟りに樹はよけい

   明鏡亦無台   ココロを支える台いらず

   仏性常青浄   ZENはつねに清らかソノモノ

   何処染塵埃   いったい何処にホコリつくかナ

その2 禅は学んでもつまらない。

    禅にめざめ体得してこそ大事だよ・・

   心是菩提樹   ココロこそ悟り・ZENソノモノで

   身為明鏡台   おのれは鏡の台ソノモノだ  

   明鏡本清浄   モトモトきよらかソノモノなのに

   何処染塵埃   どんなにしてもホコリはつかぬぞ

恵能の見性を見届けた弘忍は、伝燈の要らざる争いを予測して、ひそかに衣鉢を与えて船でのがすが、明上座は逃がすものかと、あとを追いかけ、この大庾嶺での舞台の幕が開く。

ただし、学者が面白おかしく解説しても、薬の効能書きを読んでも病気は治らない・・ごとく、自分が自分の心(本来の面目)を攫まないと、誰かがつかんでくれるなど期待したら大間違いだ。

サア、云く因縁はここまでにして、釈尊伝来の衣鉢を奪い取ろうとして、追いかけてきた明上座のソレカラ・・を見てみよう。

 

無門関  不思善悪(ふしぜんあく)第二十三則

【本則】上座・・ようやく山頂で蘆行者(恵能)を捕まえた。

彼は石の上に衣鉢を置いて、明上座に語りかけた。

「この衣鉢はZEN=悟りを表すもの・・力ずくで奪うものものでも、奪えるものでもない。ほしければ君が持ち去るがよかろう」

じゃ、遠慮なく頂きます・・と、取り上げようとしたが、やましい気持ちが邪魔をして、山のように重く感じて持ち上げられなかった。

往くも帰るもならず、ギラギラした燃える目で蘆行者を見上げた明上座「私は衣鉢の為に追いかけて来たのじゃない。菩提樹もなく明鏡台もない・・偈の真意が知りたいのです。どうぞ開示してください」と詰め寄った。蘆行者は、脂汗を流す明上座を傍らの石に座らせて云う。

「ここに至って、イイも悪いも価値損得は捨てなさい。さあ、この今がいま、本当の君自身とは・・」とするどく問われて・・上座は直観、省悟した。

緊張の糸が途切れて、汗やら涙やら溢れ出てきた。

「ありがたいことです。いいも悪いも基準点が消失しました。このカラッポの密語密意の他、見性の意旨はありましょうか」

蘆行者「説いたことも、君が得たことも密なるものじゃない。今、君が自分の面目を返照すれば密はかえって自分の周りにある」

「イヤハヤ黄梅山では修行が大事とばかり、本来の面目を失っておりました。いま、水を飲んで冷暖自得の心地です。行者こそ、私の師です」「(そうした禅境地なら)ワシと君と、一緒に黄梅の弘忍老師を師としよう。善く自ら、コレを護持しなさい」

  【本則】六祖、ちなみに明上座、追うて大庾嶺に至る。 

   祖、明の至るを見て即ち衣鉢を石上になげうって云く「この衣は信をあらわす。

   力をもって争うべけんや。君が持ち去るにまかす」

   明、ついにこれをあぐるに山の如くにして動ぜず。

   踟蹰悚慄(ちちゅうしようりつ)す。

   明云く「我きたって法を求む、衣のためにするにあらず。

   願わくば行者(あんじゃ)、開示(かいじ)したまえ」

   祖云く「不思善不思悪(ふしぜん ふしあく)、

   しょうよもの時、那箇(なこ)か是れ明上座が本来(ほんらい)の面目(めんぼく)」

   明、当下に大悟し、邊体(へんたい)汗ながる。

   泣涙作禮(きゅうるいさらい)して問うて曰く

   「上来(じょうらい)の密語(みつご)密意(みつい)のほか、

    かえって更に意旨(いし)ありや否や」

   祖曰く「我いま汝がために説くものは、すなわち密にあらず。

   汝もし自己の面目を返照せば密はかえって汝が邊(へん)にあらん」

   明云く「それがし、黄梅にあって衆にしたがうといえども、

       実に未だ自己の面目を省(せい)せず。

   いま入處(にゅっしゅ)を指授(しじゅ)することを蒙(こうむ)って、

   人の水を飲んで冷暖(れいだん)自知(じち)するがごとし。

   いま行者はすなわち某甲(それがし)が師なり」

 祖云く「汝もし是の如くならば、すなわち吾と汝と同じく黄梅を師とし、よく自ら護持せよ」

 

素玄曰く 大庾(だいゆ)嶺上(れいじょう)、衣鉢(いはつ)を擲(なげう)ち、おもむろに腰の煙草入(たばこい)れを探(さぐ)れば、明上座すでに来たって悪鬼に似(に)たり。

大庾嶺上(だいゆれいじょう)風冷なり。傳衣(でんい)を焚(た)いて暖(だん)をとる。(糞造衣は煙バカリでるのう・・枯れ枝を集めなさい)

密(みつ)は汝の邊(ほと)りにあり。

 

【無門云く】大庾嶺の山頂で、目を血走らせて求道、問法の明上座を相手に、事情切迫のため、ZENの殻をむきタネを取り去り、食べやすい大きさに切って、フォークにさして口元に運んでやる・・とは・・。だから蘆行者・・いつまでも頭を剃らず、素人ぶって放浪していたのか・・親切にもホドがある。

  【無門云く】六祖 謂(いい)つべし、

   この事は急家(きゅうけ)より出(い)ずと、老婆(ろうば)親切(しんせつ)なり。

   たとえば新荔支(しんれいし)の殻(かく)を剥(は)ぎ終り、

   核(かく)を去りおわって爾(なんじ)が口裏(くり)に送在(そうざい)して、

   ただ爾が嚥一嚥(えんいちえん)せんことを要するが如し。

 

【頌に曰く】この思わざること・・絵にも筆にも描き切れないが、そうかといって、生半可に納得したふりをしてはダメだぞ。

本来の面目は、隠すに隠せないものだ・・「密」というのを「秘密」としたらアカン!・・と素玄居士の注意書きがある。

ただの「極所・奥底・禅」の意とすべし。

それは何もかも丸出しのモノじゃ。

破壊も朽ち果てることもない。

(この頌 拙劣であると、素玄居士 吠えています)

   【頌に曰く】描(びょう)すれども成らず画(えが)けども就(な)らず、

   賛するも及(およ)ばず生受(しょうじゅ)することを休(や)めよ。

   本来の面目、隠すにところなし、

   世界 壊(え)する時、渠(かれ)朽(く)ちず。

 

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禅のパスポート 無門関 NO22 テーブルをポンと叩けば、ZENが発現する!  

どこかの国の誰かが、ZENを垣間見るチャンスが生まれ・・

【素玄居士 解説】抜粋・・いくら詮索しても禅と仏教とを連結すべき因縁はないのである。だから、俗人の禅者(居士)、異教徒(外道)の禅者があり、彼らは禅宗僧侶の禅と区別すべきものがない。

もし、禅宗の仏教教義中、禅的なものを主として宗とすと称するならば、その然るものを挙示せよ。もし存するならば、ソレは禅的なものでないか、または仏教的なものでありえない偽の禅である。禅と宗教は相容れざるものである。

禅者は、すでに自己に安心をもっている「得道者」であり、信仰にたよらず関知しない。釈尊も、よく仏教と禅とを区別していたことを、この則がハッキリさせている。

(第九則 大通智勝にも明瞭にされている)

 

禅は宗教ではありません。禅宗として、仏教中に宗派を立てたのは百丈(清規)に始まること・・ですが、そうであるなら、中国、百丈の時代に至って、初めて「禅宗」宗派を名乗るのは、ひどく遅すぎる出来事です。

 

達磨が面壁禅を持ち込んできて以来、臨済録、信心銘など語録には、どの文言や禅者の振る舞いにも、一切、宗教的臭みは見当たりません。

禅は・・執着、分別、有無を両忘して、決して宗教的な欣求を許さない「悟境」を、独り・・冷暖自得。「禅による生活」を実行するにあります。

当時、師弟(一箇半箇)の伝承・印可を尊重したのは、それだけ偽禅が横行し、師家の真贋が問われたことにあります。

未悟底の求道者には、卒業証書が必要と言うだけのことでした。

また、宗教をナリワイとした寺僧(僧業・生活手段)にとって、禅の一種の免許証明は、仏教的儀式や葬祭にまつわり、禅的な超越した風格を加味する必要な演出であったのでしょう。

戦前、素玄居士の無門関提唱は、ほとんど戦争の渦中にあって、省みられることはありませんでした。しかし、スマホ、PCなど、電磁的情報通信の時代です。どこかの国の誰かが、広くZENを垣間見るチャンスが生まれます。

公案・第六則「世尊拈花」迦葉に付嘱す・・の意味は、印可、伝承することは一切ないので「頼んだぞ」とすべきでしょう。

*ZENの端的は、テーブルをポンと叩いてもそこに禅を赤裸にする。碧巌録 第六十七則 傳大士講経(ふたいし こうきょうをこうず)は、このことである。

 

     無門関  迦葉刹竿(かしょう せつかん)第二十二則

【本則】阿難が、釈尊から不立文字、教外別伝の「禅」を付嘱(頼まれた)迦葉尊者に問うた。

 

「禅」には、何か秘伝でもありますか。悟りを得ると、スポーツの優勝トロフィのような表彰があるのでしょうか。

迦葉は、直ちに「阿難よ」と呼びかけた。

阿難は「ハイ」と返事した。

迦葉曰く・・(講演会は終わった)

「案内の門前の旗竿を仕舞いなさい」

   【本則】迦葉、因み(ちな)に阿(あ)難(なん) 問うて云く、

    世尊(せそん)、金襴(きんらん)の袈裟を伝うる外(ほか)、別に何ものをか傳(つた)う。

    葉(しよう) 喚(よ)んで云く「阿難」 難 応(おう)諾(だく)す。

    葉云く、門前の刹竿(せつかん)を倒却(とうきゃく)著(じゃく)せよ。

素玄曰く 足にタライをのせて、お尻に枕する者は何か?

「足芸の香具師」・・何だ、つまらぬ。 

 

【無門曰く】もし、旗竿をぶっ倒したなら、世尊拈花(せそんねんげ)のシーンが手に取るように見えるだろう。でないと、過去、未来永劫にわたって、心を追い求めて流離(さすら)う人となり、禅の妙は得難い。

  【無門曰く】もし、者裏(しゃり)にむかって一転語(いちてんご)をくだしえて親切ならば、

   すなわち霊山(りょうぜん)の一會(いちえ)、

   厳然(げんぜん)として未(いま)だ散(さん)ぜざることを見ん。

   それ未だ然(しか)らずんば、毘婆尸佛(びばしぶつ) 早く心を留(と)めて、

   直(じき)に今に至るまで妙を得ず。

 

【頌に曰く】問が答え・・そのもの。

「アーナンダよ」と呼ばれて、阿難「ハイ」と答える。

二人とも意気投合できずに、目パチクリ。

肩の凝る話だ。

ヤレヤレ、迦葉も阿難も、恥ずかしいところをお見せした。

(でも、四季風物以外の別境地もオツなものだ)

  【頌に曰く】問處(もんじょ)は何ぞ答處(たつしよ)の親しきに如(し)かん。

   幾人(いくばくびと)かここにおいて眼(まなこ)に筋(きん)を生ず。

   兄呼(ひんよ)び弟応(ていおう)じて家醜(かしゅう)を揚(あ)ぐ。

   陰陽(いんよう)に属せず別にこれ春。

 

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禅のパスポート 無門関NO21 「大した値打ちがないので恥ずかしい・・」 

たいして値打ちがないので恥ずかしい限りじゃが、

提唱する以上「素玄曰く」を附けることにする。

それが責任じゃ。高いか安いか・・さらしものじゃ・・(素玄居士)

この禅のパスポートでは、できる限りに、素玄居士の「提唱無門関」の意見のままに、公案の意訳を紹介していきたい・・と思う。若い頃、禅の本を見て「赤肉団上(しゃくにくだんじょう)の一(いち)眞人(しんじん)」とか・・「父母未生(ふぼみしょう)以前(いぜん)、本来(ほんらい)の面目(めんもく)」とか・・難しい漢字漢文の意味さえ理解できたら、悟りの道も近かろう・・と思った次第です。

だが、今、この無門関は、漢文の意訳だけして、何の手がかりもなく、まるで断崖絶壁をよじ登るような坐禅を読者に要求することにしました。

素玄居士は、緒言、冒頭に「禅に秘伝あることなし」として、禅は学問ではない。禅学、禅文学は嘘だ。禅は、単に「極所」があるだけで階梯(かいてい)なし。本物の語録公案を拈弄(ねんろう)して自悟自得する外はない。

贋物の語録・公案もあるし、いい加減な講義や、中には論理的とか・・恐ろしく誤まっている迷老師・師家の指導も横行している。だから、真禅の絶えるに忍びず、禅の極所にいたる道筋を、唯ひねくりまわすだけじゃが、筆舌しうるドン詰まりまで話してやろう。

そして各公案ごとに素玄曰く・・を附けることにした。

提唱者は、その公案が透っていなければ出来ぬことだが、それを評とか頌とか、無門関や碧巌集などには、チャンと載っている。

これからの提唱者も同じく「見解(けんげ)」をつけて見せなければいかん。

でないと値打ちがわからん。贋老師などは話しても差し支えないことを密室で話すべきと秘密めかしたり、提唱で言わないようだが、それは卑怯で、つまりは未悟底なのじゃ。

たいして値打ちがないので恥ずかしい限りじゃが、提唱する以上これが責任じゃ。高いか安いか・・さらしものじゃ・・。頌としなかったのは取材や文体の自由を欲したからである。

*見解(けんげ)・・悟り、禅機禅境地を述べた(詩的な)文句。頌や偈の意。

昭和12年7月、提唱無門関 素玄居士 狗子堂発行)

 

素玄曰く・・世の中は寝るほど楽はなかりけり。    

       浮き世の莫迦(ばか)は 起きて働く

       (著述もなかなか骨が折れるテ)

 

  無門関  雲門屎橛(うんもんしけつ)第二十一則

佛とは仏様のことであり、ソノママ「禅」でもある。

仏すなわちクソかき箆(お経はさしずめトイレ紙)だと、雲門ズバリ断言した。

よくまあ・・ここまで味噌クソに貶(けな)しつけたものだが、ここまで言わねば・・佛とか、お経とか、腹いっぱいの便秘症状・・洗い流し、きれいサッパリ拭き取ることができないのが、糞袋子(ふんたいす=人間)だ。

口先だけの師家がたや、求道が飯のタネにする者には、チットは堪(こた)える本音・本物の公案だ。

佛といい禅という、そんな妄想を一気に洗い流す下剤をかける公案だ。

(現に、この世の中・・横綱が説教しても、若手はスマホに見とれて馬耳東風。ぶん殴られて、休場事態となった・・因習のこびりつく相撲協会・・大騒動になっている。こんなテイタラクの横綱審議会、理事など関係者、横綱は辞任・引退すべし・・2017-11-23現在・・日馬富士貴ノ岩事件)             

 

【本則】雲門山(うんもんざん)の文偃(ぶんえん)老師(852?~949)に、求道者が問うた。

   「いかなるか是れ佛=ZEN」

   門云く「糞カキべら」

     【本則】雲門因みに僧問う「いかなるか是れ佛」

             門云く「乾屎橛(かんしけつ)」

 

【無門云く】雲門の處は、貧しくて、子供らに白い飯も食べさせられず、教えるのに下書きのヒマもなく、突然の罵詈(ばり)雑言(ぞうごん)。尊き仏様を「クソべら」に例えるようなことだから、唐代の政治的迫害の余波を受けることになり、仏教の衰退を増長させてしまった。この責任・・どう取るつもりか。

  【無門云く】雲門謂(い)いつべし 家、貧にして素食(そじき) 辨(べん)じがたし。

   事(じ) 忙(いそが)しゆうして 草書するに及ばず、

   ややもすればすなわち屎橛(しけつ)をもち来って、門をささえ戸を拄(ささ)う。

   仏法の輿衰(こうすい)見(み)つべし。

(真実は、雲門に責任なし。ズバリ「禅者の一語」を誉めている)

 

 

【頌に曰く】雲門、間髪をおかず、まるで雷光のごとくに「クソカキベラ」と答えたが、それは如何なる訳か・・など・・解釈、心理分析していたら・・モウ度(ど)し難し(助けられない)

まるで鼻の下にクソつけて、屁もとをさがすような・・そこのキョロキョロしている飯袋子(飯と酒だけ腹いっぱい、頭と心はカラッポのお前さんのことだよ・・)何か一言、云ってみよ。

   【頌に曰く】閃(せん)電光(でんこう) 撃(げき)石火(せっか)。 

         眼(まなこ)を貶得(さっとく)すれば、すでに蹉過(しゃか)す。