禅のパスポート

禅語録 無門関no解釈to意訳

無門関 NO20  

無門関 NO20  

 この第二十則は、過去に、禅が継承者を失って断絶したことがあるのを実証する公案です。

師、白雲守端(はくうんしゅたん)から伝えられた袈裟を、後継者に譲るつもりで、この三公案を座下の求道者に提出した松源(しょうげん)和尚だが、意にかなう者がなく、塔所に閉って、あと腐れのないように処置したという

 

無門関 大力量人 (だいりきりょうにん)第二十則

【本則】松源老師の禅境(地)丸出しの公案(三転語)とは・・

(1)大力量の人=禅者は、手足を動かす因縁をもたない。

そこをひとつ、動かして見せよ・・

(2)窮屈に、口先だけで喋らず、禅を気楽につまんで(語って)みせよ・・

(3)達道の禅者は、どうして様々な心意を断絶しないのか?

    【本則】松源和尚云く、大力量の人、何によってか脚(あし)をもたげ起こさざる。

      口を開くこと舌頭上(ぜつとうじょう)にあらず。

  また云く、明眼(みょうがん)の人 何によってか脚下の紅紫線こうし(せん)を断(た)たざる

無門曰く 禅を丸出し、ありありと丸投げにした松源老師。

ただボンクラ求道者ばかりの寄せ集めでは、解かる奴はいないだろう。まして、即座に解かった・・という奴が、ワシ(無門)のもとに来たなら、思いっきり、どやしつけてやる。

どうして・・だと?(ぐっと睨みつけて)

本物、贋物がハッキリ見分けられるからだ。

  無門曰く、松源謂(しょうげんいい)つべし腸(はらわた)を傾(かたむ)け腹を倒すと、

  ただ是れ人の承當(じょうとう)するを欠く。

  たとい直下(じきげ)に承當するするも、

  正(まさ)によし無門のところに来らば痛棒(つうぼう)を喫(きっ)せん。

  何が故(ゆえ)ぞ、ニイ。

  真金(しんきん)を識(し)らんと要せば火(か)裏(り)に看よ。

 

素玄曰く 

(第1公案)フルベースにホームラン性のヒット・・走れ走れ

(第2公案)ピッシャリとやぶ蚊叩いて将棋かな

(第3公案)樹の上で竹筒を目に当てて・・

     「京都が見える、大阪が見える」

 

【頌に曰く】足をあげて太平洋をひとまたぎ・・高い入道雲の上から眼下に座る場所をさがすも、ハテサテ身の置き所なし。

サア・・これに見識(結句)をつけてみよ。

  【頌に曰く】脚(あし)をもたげて踏飜(とうほん)す香水海(こうすいかい)、

   頭(こうべ)を低(た)れて俯(ふ)して視(み)る四禅天(しぜんてん)。

   一箇の渾身著(こんしん つ)くるに處(ところ)なし。

   請(こ)う一句を續(つ)げ。

   *香水海・・太平洋の意。四禅天・・紺碧の空の意。

*山本玄峰老師の「無門関提唱」では、この「第三公案・三転悟」はありません。文中を察するに、公案の見解(けんげ)は、老婆心の限りを尽くしていると見受けます。ただし、私は、素玄居士の、率直な、人生裸で生きるべし・・の頌(意見)を尊重します。

素玄 結句を続けて曰く「雲北風南蒼鶻迷」           

               雲は北に・・風は南へ・・ハヤブサは(飛ぶに)迷う 

 

平常心・・金メダル獲得、優勝は『平常心』で出来ません!

禅のパスポート 無門関NO19 

平常心・・金メダル獲得、優勝は平常心で出来ません!

この趙州の一語・・禅語解釈・解釈の一切を完全に否定します!

最近、この禅語がスポーツや政界に、流行語のように広まっている。「平常心で頑張ります」「平常心で勝てました」・・こんな禅語の理解力で紹介されたら、昔、発言した禅者、南泉・趙州も浮かばれまい。まして、意味を誤解して、どんなに頑張ろうと平常心での成功はありえないし優勝がある訳でもない。

もし勝てたのなら、それは、きっと何か別の、気力・・集中力とか、努力、スポーツ指導者や、医学などの研究チーム、あるいは神仏のせいだから、マスコミは、禅語の真の意味を知ることが大事でしょう。

唐代の・・唇から光を放つ・・といわれた禅者・・趙州従諗(778~897)の命懸けの修行と、その生涯120年間の一悟(語)である点・・特別に意味に留意してほしいのです。

「文字・言葉」への誤解が人をダメにします。「平常心」・・世に出回る禅語解釈の一切を私は完全否定します。

まず表題に「心」をつけないのには深い理由があります。

次に「道」というのは、「禅」(悟り/一真実/真人/本来の面目/隻手の音声/無字/色即是空/般若)・・のことで、抽象的だから何でもあてはめられる言葉です。だから、生きるに大切な、文字・言葉を、無造作に「禅」を体験しない学者やマスコミが伝えてしまうのは困ります。

例えば、心の安定、不安の解消とか、その禅風景の紹介に・・「座禅」と書く。正解は「坐禅」です。座ではなく坐です。

こんな文字の基本も知らない作者や記者がいっぱいいます。

 

この「平常心」は、禅者の平常心だから、非常もまた平常心なのです。何らの対象がなく、非常と平常の区別のありようがない・・非常に処すること、平常の如く・・平常にあること、なお非常の如く・・その「心」の文字は仮に用いた言葉です。

師の南泉のごときは、平常・非常の禅境(地)の出入り口すらない(窺がえない)平穏無事の人なのです。

また「道」とは「行い」そのもので、道徳でもないし、平常心が「道」そのものではない。禅は・・何かと何かを当て比べて比較分析できるものではありません。その心境について疑問が生ずれば、疑う人が、誤解し間違っているのです。

 

平常・・非常・・ただし擬(問が)湧けば背く(間違い)。

心は、智をもって得べからず・・雑念妄想、論理、言い訳が少しでも混じったら「禅」悟り・・は消えてしまいます。

また「不知」は、死物木石のごとき様子で、好奇心がない。無関心である。スマホに夢中の依存症は、不知無記の状態です。澱んだ沼のように、心が腐ってブツブツ泡が吹いているのです。

禅は、イキイキ、ピチピチ・・生活がハツラツと生きている。

それを「禅による生活」・・「平常是道」というのです。

 

それなら「禅」・・平常(心)とは何か・・

【すなわち思慮分別なきところ、大空のガラッとしたもんサ。是非すべきなしだ・・】しかし、こんな講釈禅では頼りない気がする・・と、素玄居士は評されている。

素玄曰く「カラスがカアカア鳴いている。雀がチュンチュン鳴いている。それで私もチュンチュン、カアカア」

 

無門関 平常是道 (びょうじょう ぜどう)第十九則

【本則】師の南泉に、未悟・修行期の趙州が問いかけた。

趙州「道」とは何ですか?

南泉「ありのまま・・それでよかろう」

趙州「それを思慮分別するべきでしょうか?」

南泉「文字、言葉に騙されるでない」

趙州「思慮無くして、どうして道を納得できましょうか?」

南泉「道は智でもなく、不知でもない。智は、思惑、妄想。

   不知は死物木石(慮するなし)。達道に至れば

   カラリとした青空のようになって、曇るの降るの

   ・・天気予報は無用だ」

趙州、言下において(スッと青空になって)頓悟した。

  【本則】南泉 因(ちな)みに趙州問う、如何なるか是れ道。

      泉云く、平常(へいじょう)心(しん) これ道。

      州云く、還(かえ)って諏(しゅ)向(こう)すべきや否や。

      泉云く、向わんと擬(ぎ)すれば、すなわち乖(そむ)く。

      州云く、擬せずんば、いかでか是れ道なることを知らん。

      泉云く、道は知にも属(ぞく)せず、不知(ふち)にも属せず、

          知はこれ妄(もう)覚(かく)、不知は是れ無記(むき)、        

      もし真に不擬(ふぎ)の道に達せば、なお太虚(たいきょ)の廓(かく)然(ぜん)として

      洞豁(どうかつ)なるがごとし。豈(あに)、強(し)いて是非すべけんや。 

      州 言下に於(おい)て頓悟(とんご)す。

【無門曰く】南泉老師、禅のことを事きめやかに説明したが、筆舌の解釈では、何のことやらわからない。大空とやらの「青空」をもらって、あまりの無限(夢幻?)に四苦八苦。

その荷を放擲(すてさる)のに、まあ・・ざっと三十年はかかるだろうな・・ご苦労さんです!

   【無門曰く】南泉 趙州に発問(はつもん)せられて、

    直(じき)に得たり瓦解氷消(がかいひょうしょう)。

    分(ぶん)疎(そ)不下(ふげ)なることを。

    趙州 たとい悟り去るも、更(さら)に三十年を参(さん)じて始めて得ん。

【頌に曰く】春夏秋冬、何時もこの世は美しい。嫌な仕事、家事さえなければ、どこへでも観光遊山できるのに・・

   【頌に曰く】春に百花(ひゃくか)あり 秋に月あり、夏に涼風あり 冬に雪あり。

    もし閑事(かんじ)の心頭(しんとう)にかかる無(な)くんば、

    すなわち是れ人間の好時節(こうじせつ)。

(この頌 拙劣。無門だんだんと頌・テーマに種切れらしい・・と素玄居士 附言あり)

 

禅のパスポート 無門関NO18  

   無門関 洞山三斤(とうざん さんぎん)第十八則

     【本則】洞山和尚 因みに僧 問う、

              如何なるか是れ佛、山云く 麻三斤。

【本則】語録の問答でいう「佛」とか、「一真実」とか・・これを「ZEN」と置き換えるのが宗教でない「禅」の現代版です。

それでは「禅」とは・・何ですか?

「麻(ま)三斤」・・無門関では、雲門の乾屎橛(かんしけつ/クソカキベら 第26則)、俱胝竪指(ぐていじゅし 第3則)碧巌録に雲門餬餅(うんもんこびょう 第77則)禾山解打皷(かざんかいだく 第44則)など、意中の対象を払拭し、心を超越した一語・・無中に湧き出る、文字言語の及ぶところではない境地の公案、問答があるが・・これこそ、雑念を入れ込む余地がない・・いわゆる、憑(と)りつくスベがない禅者の一語だ・・一番シックリとしている・・と、素玄居士は褒め称えられた。

それに続けて・・こう書くと、読者は自己催眠的境地を演出して、解かったような気持ちになろうとする。それが口にも出る。それが口頭禅だ。三文の値打ちもない。そのくせ到りえ還り来れば別事なし・・とぬかす。云うなかれ。了悟はなお未悟のごとし・・と。偽禅横行し、この増長漫をなさしむ・・と言葉荒く切って捨てられた(そして念々、不退転に工夫すべしじゃ・・と、公案透化の心境を語られている)

俺がある夜、寝る時に、この麻三斤がガラリと透った。なるほど、肩の荷を下ろしたような気持であったが、別に也太奇(やたいき・またハナハダ奇なり)もなければ、汗も流れず大歓喜もなかった。白隠の口頭禅とは大分違っていた。

 

しかし、目の前がズウッ・・と広くなって雑物の遮(さえぎ)ることなしの気持がした。これは公案が消えていったのじゃ。

素玄曰く 麻三斤(ま さんきん)、秤量(しょうりょう)しおわって他に渡し、無價(むか)の黄葉を受けて無底の財布に納む。

     *黄葉・・児童のママゴト遊びのお金=黄色の葉っぱのこと。

この本則の解説は、ほぼ素玄居士(高北四郎先生)提唱の全文です。こんな正直な語録の提唱や頌は、私の積年の経験で初めてであり、禅について目からウロコのありさまでした。則ごとの素玄曰くは、見性の記録として貴重な一語です。

提唱 無門関=昭和12年8月、狗子堂 発行 定価1円80銭の小冊子です。戦前「禅は宗教ではない」と喝破されたのは、おそらく素玄居士ただ一人。師は、当時の禅関係者にとって、さぞかし煙たがられた禅者でしたろう。師弟密室の悟証確認を否定して、1則ごとの頌(見性・意見)を提唱されています。おそらく戦争中は、35才~小学生低学年の子供さんがおられたようで、文中に登場。召集されてか、空襲下で消息が途絶えたのでないか・・と推測しています。(奥付/東京市王子区上十條1578番地/古本ただ是れ1冊と思い大事にしています)ラジオでがなり立てる放送(電波)ですら、すこし、いい加減にしてもらいたい・・と意見されています。スマホにのめりこみ、依存症になるAI・バーチャルの現代、もし生きておられたら、どのようにZENを語られたであろうか。

【無門曰く】洞山老人、いささかハマグリの口を開けたような禅・・麻三斤・・腹の中をさらけ出したが、求道者よ・・その肚(ハラ)をシッカリと見届けたかな?

  【無門曰く】洞山老人 些(さ)の蚌蛤(ぽうごう)の禅に参得(さんとく)して、

   わずかに両片(りょうへん)を開いて肝腸(かんちょう)を露出(ろしゅつ)す。

   しかも、かくの如くなりといえども甚(いずれ)の處に向かってか洞山を見ん。

 

【頌に曰く】禅者の一語・・中でも飛び抜けてこれが一番だ。

言葉は手短じかだし、その意の親切なこと・・きわまりない。

もし、ホンの少しでも、是非を分別したら、もう禅はないぞ。

  【頌に曰く】突出す 麻三斤 言(こと)親(した)しく 意さらに親(した)し。

   来(きた)って是非(ぜひ)を説(と)く者は、すなわち是(こ)れ是非の人。

 

 

禅のパスポート NO17 ・・「煩悩無尽誓願断」

雑念妄想  腹いっぱいの放蕩息子に・・「禅を食え」と勧めても・・

禅寺の跡継ぎをつなぎとめる資格養成所・・僧堂で読誦する「四弘誓願」がある。出家僧の誓願である。この句のたった一行の造作が、禅を日本から絶滅させてしまったのではないかと思います。

「煩悩無尽誓願断(ぼんのうむじんせいがんだん)」・・煩悩は尽きることなく(雲の如く湧いてくるけれども)これを断ずることを誓願いたします。

いかにも、モットモラシイ誓いであるけれど、禅は「煩悩即菩提」=色即是空(般若大智)を道う・・背骨にしているので、煩悩を断ずれば、菩提(悟り)も生まれない無明(死に体)となる・・そんな、ピチピチと躍動するイノチがない「死禅」となる誓願です。

では、初心の求道者が「誓願」するならどういうか・・「煩悩悟性誓願忘」・・悩みも悟りも両方とも忘れはてることを誓願する・・とか。

「煩悩即菩提誓願覚」・・煩悩ソノママが悟りとなる覚智に至りたい・・とか。

まあ、しかし、禅は欣求宗教ではありませんから、仏教・寺僧に衒ったような造作、計らいはしないに限ります。

蘆葉(ろよう)の達磨以来、禅は、集団で伝燈継承される宗教、学問(論理)倫理道徳などに一切関わらず、ただ「一箇・半箇」の師弟の間にしか預托できない、扱いづらい盆栽なのである。

しかも、師がいかに心砕いて禅を教導しても、その弟子が独り、自分で自覚できないと、禅は、そこで腐った「煩悩」のタネのまま絶滅する・・そんな可憐な花を咲かせる一輪(拈花微笑)なのだ

 

禅の・・断絶する出来事は、インド・中國・日本で数えきれないほどあった。2500年前、釈尊から迦葉、中國へ達磨禅、そして日本へ・・ホソボソと生き延びてきた寺僧禅は、この第2次世界大戦の後、絶滅危惧種から絶滅種のステージに昇りつめた。

この由来、因縁は、羅漢と真珠に順次、書きます。

無門関十七則は、中國河南省、白崖山で40年間、隠れ住んで「禅による生活」を満喫していた南陽(なんよう)慧忠(えちゅう)国師(?~775)・・唐、粛宗(しゅくそう)皇帝?⇒(代宗だいそう皇帝)に請ぜられて759年、禅を講じた・・が、その弟子、耽源(たんげん)という侍者との、「オイ」と「ハイ」の応答=1箇半箇の禅・伝燈の話だ。

南陽慧忠と耽源の禅語・公案は、碧巌録 忠国師無縫塔(ちゅうこくしむほうとう) 第18則にあり、禅者の一語(碧巌の歩記)で詳細を紹介する。ここでは素玄居士の提唱を意訳する。

「一箇半箇」とは禅を伝えるにあたり、師は、ほぼ印可するに足る弟子ひとりと、その弟子が万一に先立たれると、その後を伝える半人前を・・かけがえのない者として鞭撻することをいう。そのZENの「一真実」・・禅による生活と禅境は師弟それぞれであるが、これを「一箇半箇」という場合もあります。

 

        無門関 国師三喚(こくし さんかん) 第十七則

【本則】サア、どこに勝敗がある?

禅者は何をぬかすか・・解かったもんじゃない・・と素玄居士 

(いささか言葉遣いが荒いので、意訳して紹介します)

禅者はもともと心に一物なし。サッと出放題なことをやる。

「オイ」と呼べば「ハイ」と答える。

三回も呼ばれて、三回返事した。

そしたら「お前さんの敗けだな」とは、いったい何のことか?

まるで手がかりがない。チョットでも手がかりがあると、ソレについて回って、這い上ってくるから始末にわるい。

手がかり足掛かり少しもないのが公案だ。ツルツルの鉄壁を手掛かりなしでとりついて、千尋の谷へマッサカサマ・・見事に墜落死するのが禅というもの。

名前を呼ばれて返事した・・そうしたら・・お前の敗け・・それともあんたの勝ちカナ?など、ワラにもすがるような考えをおこしたらアカン!              

(そこに禅の味もチョッピリあるが・・)

ナントか禅の跡取りをつくりたくて、禅機(TPO)を弄する師に、お前さん、呼ばれたつもりで一本、応酬して見せなさい。

  【本則】国師、三たび侍者を喚ぶ、侍者三度応ず。

   国師云く、まさに謂(おも)えり、吾れ汝を辜負(こぶ)すと、

   元来、かえって是れ汝、吾れに辜負す。

 

素玄曰く・・銅像の馬が駆け出した。アレよアレよ・・と云っている間に、また元の台座に帰ってきた。どこに風が吹くか・・という面付(ツラツ)き。

 

【無門曰く】老師さん・・三回も呼ぶのは的外れ。金石麗生なる禅を、全部、さらけ出して賭博するとは・・無鉄砲です。

年取って身寄りがないからといって、放蕩息子に飯食え!飯食え! 車をもたせ海外に遊びに行かせ、なに不自由なくしてやったら、後の面倒をみてくれる等と思ったら大間違いだ。

(腹に雑念妄想、いっぱいに詰まっているから「禅」を食うに食えない有り様だ)

さても、この勝負、丁半揃って、目はナント出たかな?

禅の跡取り息子は、苦労させるに限ります。

  【無門曰く】国師三喚(さんかん)、舌頭地(ぜっとうち)に堕(お)つ。

   侍者、三たび應ず。光に和して吐出す。

   国師 年老い、こころ孤(こ)にして牛頭(ごず)を按(あん)じて草を喫せしむ。

   侍者いまだ肯(あ)えて承當(じょうとう)せず、

   美食飽人(びしょくぽうにん)の飡(さん)に中(あた)らず。

   且(しばら)く道(い)え、那裏(なり)か是れ他の辜負(こぶ)の處、

   国清(くにきよ)うして才子(さいし)貴(たっと)く 

   家(いえ)富(と)んで小児嬌(しょうにおご)る。

 

【頌に曰く】この抜けようのない手錠足かせ・・丁半賭博の失敗を放蕩息子に責任を取らせるとは、ひどい話。家・財産そっくり無くして、負債ばかりの家を継がせたいなら、さらに素っ裸にして、地獄の剣の山か、針の山に追い上げるのが一番だ。

  【頌に曰く】鐡(てつ)枷(か)無孔(むく)、人の儋(にな)わんことを要す、

   累児孫(わざわいじそん)に及んで等閑(なおざり)ならず。

   門をささえ、並びに戸をささうることを得んと欲せば、

   さらに須(すべか)らく赤脚(せつきゃく)にして刀山(とうざん)に上(のぼ)るべし。

 

 

禅のパスポート 無門関NO16  

さあ・・この広大な宇宙で、誰もコピペ出来ない・・ただ独りの遺伝子(唯我独尊)をもつ貴方が、目覚ましベルで仕事や家事に精出すのは、どうしてなのだろうか?

 

無門関 鐘聲七條(しょうせい しちじょう) 第十六則

【本則】ベルが鳴ると、学校では教室で集って勉強。会社では営業活動がはじまる。人は、どうして、わざわざ窮屈な真似をして生業(なりわい)に励むのか?

   【本則】雲門曰く、世界 恁麼(いんも)に廣闊(こうかつ)たり。

  何によってか鐘聲裏(しょうせいり)にむかって七條を披(き)る。

 

素玄居士 曰く・・禅は生活や仕事に縛られてはいない。自由ではあるが、理屈で言うのは屁理屈だ。禅が自得だ・・というのは、イチイチ理路整然と納得するのではなく、理解の筋道を絶して自得するにある。

直に、それが行動に跳躍する・・ベルの音に飛び起きるのだ。

注意!禅は直に行動というのではない。行動に理解がはいらない行動だ。ベルの音に縛られるとか、縛られないとか、一切、関係なしの行い・・だ。

素玄居士曰く「一本足の弥次郎兵衛、アッチにふらふら、コッチにふらふら、落ちそうで、落っこちない・・と思っている間に、そうら落っこちた」

 

【無門曰く】参禅は即してはいけない(造作してはならない)

碧巌録の雨滴声(うてきせい第四十六則)に、衆生は顛倒(てんどう)して己に迷って物を逐(お)うとある。

鐘の音や桃の花を見て悟入することはあるが、悟ればその声色を自由に駆使するのが禅者である。

声が耳に来るか・・耳が聲の所に行くか・・そのどちらでもない妙・・目で聞き、全身で見る・・それが禅者である。

   【無門曰く】

   おおよそ参禅学道は、切に、声にしたがい、色を逐(お)うことを忌(い)む。

   たとえ声を聞いて道を悟り、色を見て心明らむるも、またこれ世の常なり。

   ことに知らず、衲僧家(のうそうけ) 聲に騎(の)り色を蓋(おお)い、

   頭(ず)頭上(ずじょう)に明に 著々上(じゃくじゃくじょう)に妙なることを。

   しかもかくの如くなりと言えども、しばらく道え

   聲 耳畔(じはん)に来(きた)るか、耳 声邊(せいへん)に往(い)くか。

   たとい、響寂ならび忘ずるも、ここにいたって如何(いかん)が話會(わえ)せん。

   もし耳をもって聴(き)かば、まさに會(え)し難(が)たるべし。

   眼處(げんしょ)に声を聞いて、まさに始めて親(した)し。

 

【頌に曰く】禅が手に入れば、万象もわれに同じ。

未悟は森羅万象(しんらばんしょう)、千差萬別(せんさまんべつ)。

されど未悟そのものも万象の一員なり。

會も不會も同じこと。世界はひどく広濶(ひろひろし)だ。

    【頌に曰く】會(え)すれば、すなわち事(じ)、同一家

    會せざれば萬別千差(まんべつせんしゃ)。

    會せざれば事、同一家、會すれば萬別千差。

(この偈は、同じことを繰り返して、あまり知恵がない・・と、素玄の附記あり)

 

 

般若心経と禅(行者への教え)について・・

武田邦彦先生のアコースティック哲学「オスとメス」≒「般若心経」

武田 邦彦先生のブログ「アコースティック哲学・・オスとメス」を拝見した。http://takedanet.com/

人間の寿命とは、約12憶年前、生物が「雌雄」同体から別体に分かれて、進化する集団生活の過程で遺伝子として設定されたもの。約15万年前、ネアンデルタール人の頃から、家族の死や別離の悲しみなど、集団生活の中で寿命=死者の概念が誕生した(雌雄同体は自分のコピペばかり。次世代も自分を継続するので多様化できず、また生死や宗教問題はない)

・・ナルホド・・優れた物理学者の手にかかると、大乗(慈悲)仏教の発生した由来や、キリストの愛についてなど、説明を受けずとも・・独り合点がゆくことが多いので驚きます。

私は、ZENは宗教ではないし、坐禅による「悟り」は、脳(神経回路)の新ルート創造の結果であろう・・と推測しています・・ので、坐禅は、酒を造るような・・長い年月の思考・感性の醸成、発酵期間が必要だ・・と思っています。

そして、坐禅の結果、突然、思考の断絶が訪れて発生する、発明・発見の悟り=見性は、まるで、物理学の「量子」のような働きと振る舞いが脳内であるようです(量子論など、よく知らないのにしゃべっています)

もっと、科学者(物理・量子論などの学者も含めて)による脳(量子AI)の研究が進んでほしい・・と願います。

さて、ZENには「般若心経」が昔から引っ付いていますが、私のいう・・役立たずの「独りポッチ禅」では、この般若心経の読経や写経、坐禅での思惑、造作すること・・一切が要らないのです。

ZENを「自分の生活(日常の行い)とする時」・・確かに、禅の「神髄」に般若心経がある・・のですが、それを確信しながら、般若の門(玄関)を入ったと自覚した瞬間、もう、戸口(玄関)の外に立っているのです。心経の中に、永続して留まれません。このことは2行目・・「般若波羅蜜多(ZEN)を、深く行(おこなう=ぎょう)ずる時」・・と、坐禅の前提条件として銘記されているのに、今まで誰も深く指摘しませんでした。

つまり、禅を深く実行できない・・初心の求道者には、次の行・・一切の苦しみと厄災から度される・・(救われる)ことはない・・のです。

併せて附記しておきますが、臨済の「喝」や徳山の「棒」は、般若(ZEN)の働き=瞬間の禅機を捉えた表示(表情)ですから、絶対に恐喝・暴力的行為ではありません。

般若(ZEN)が見せる、雷光・雷嚇(イナビカリと雷鳴)一声のような、思いがけない・・天地自然の表情なのです。*表情は表現と違い、造作のない、自然な心の働きをいいます。

これを悟りもしない寺僧・師家が葬式や僧堂で、荘厳な袈裟を纏ってシタリ顔でやるものですから、さぞかし臨済もあきれていることでしょう。

ですから・・以下、この般若心経は、達道の禅(行)者への・・悟りの完成・・についての教えである・・と思います。

くどいですが、写経や禅寺拝観の手間があれば、坐禅でもしたい・・の心を大事に、どうぞ役立たずな「独りポッチ」3分間イス禅を推奨いたします。

 

摩訶般若波羅蜜多心経 (まかはんにゃはらみった しんぎょう)

(大いなる智慧の完成=禅による正覚の教え)悟りの完成の教え

 

観自在(かんじざい)菩薩(ぼさつ)    禅者よ

行(ぎょう)深(じん)般若(はんにゃ)波(は)羅(ら)蜜(みつ)多時(たじ)  

                      禅による生活を深く行う時

照見五薀(しょうけんごうん)皆(かい)空(くう)  形あるもの、すべて空無なりと照らし看るので

度(ど)一切(いっさい)苦(く)厄(やく)      一切の苦しみと不安から解放される

舎(しゃ)利子(りし)          禅者よ

色(しき)不異(ふい)空(くう)         「在る」は空(無)にことならず

空(くう)不異色(ふいしき)           空(無)は自在にことならない

色即是空(しきそくぜくう)    すなわち「ある」は、そのままに「ない」のであり

空即是色(くうそくぜしき)    空(無)は そのままに自在である

受想(じゅそう)行(ぎょう)識(しき)亦復如(やくぶにょ)是(ぜ) 

                人の感覚や思いや知識も またこのとおりだ 

舎(しゃ)利子(りし)        禅者よ

是(ぜ)諸法(しょほう)空相(くうそう)     すべてが「ない」のだから

不生(ふしょう)不滅(ふめつ)         生じてもいないし 亡びてもいない

不垢(ふく)不浄(ふじょう)          汚れてもいないし 浄(き)よくも無い

不増不減(ふぞうふげん)           増えてもいなければ 減ってもいない

是(ぜ)故空中(こくうちゅう)無色(むしき)    だから「無」の中に「ある」はなく

無受想(むじゅそう)行(ぎょう)識(しき)     思いや行いや知識も「無い」

無眼(むげん)耳鼻(にび)舌(ぜつ)身(しん)意(に)  眼や耳など五体や思いも無く

無色声香味蝕法(むしきしょうこうみしょくほう) 五感や執着する欲望も無い

無眼界(むげんかい)乃至(ないし)無意識界(むいしきかい) 

                   目に映る意識 無意識、本能のすべて無く

無無明(むむみょう)亦(やく)無無明尽(むむみょうじん)             

                   原因と結果や苦悩の報いなど すべて無い 

乃至(ないし)無老死(むろうし)      さらに老いて死ぬことも無いし

亦無老死尽(やくむろうしじん)      また老いて死なないということも無い 

無苦集滅(むくじゅうめつ)道(どう)     死苦八苦する、輪廻の業や愛執も無い

無智(むち)亦(やく)無得(むとく)      智も無く また得るもの無く

以(い)無所得(むしょとく)故(こ)      その得るところ無きゆえをもって

菩提薩埵依(ぼだいさったえ)般若波(はんにゃは)羅(ら)蜜(み)多(た)故(こ)    

                    「禅」による・・悟りを体得するから・・

心無罣礙(しんむけいげ)無罣礙(むけいげこ)故(こ)  

                     心にこだわりがなく 疑いなきゆえに                   

無有(むう)恐怖(くふ)            恐れおののくことが無いし

遠離(おんり)一切(いっさい)顛倒(てんどう)夢想(むそう) 

                     一切の妄想と執着がなく離れ消えて

究竟(くきょう)涅槃(ねはん)         ついには安心、自在となる

三世(さんぜ)諸仏(しょぶつ)         過去現在未来、時間なき禅者は

依(え)般若波(はんにゃは)羅(ら)蜜(み)多故(たこ)  

              禅(さとり)の行(かんせい)・・禅による生活のゆえに              

得阿耨多羅(とくあのくたら)三藐三(さんみゃくさん)菩提(ぼだい)  

               ピチピチと躍動するいのち・・そのものとなる

故知(こち)般若波(はんにゃは)羅(ら)蜜(み)多(た)  禅(行)による生活を知るゆえに         

是(ぜ)大神(だいしん)呪(じゅ) 是(ぜ)大明(だいみょう)呪(じゅ)  

                       この霊妙で光り輝く真言をのべ 

是(ぜ)無上(むじょう)呪(じゅ) 是(ぜ)無(む)等(とう)等(とう)呪(しゅ)      

                       比較できない心の不思議をのべ 

能除(のうじょ)一切(いっさい)苦(く)       よく一切の苦しみを除き、

真実(しんじつ)不虚(ふこ)            真実にして虚なしからざる 

故説(こせつ)般若波(はんにゃは)羅(ら)蜜(み)多呪(たしゅ)  

                   ゆえに 禅(行)による生活の真言を説く

即説呪曰(そくせつしゅわつ)       すなわち呪(マントラ)に説いていわく

羯諦羯諦(ぎゃていぎゃてい)     来たぞ 着いたぞ

波羅羯諦(はらぎゃてい)       まったき青空のただ中についた

波羅僧羯諦(はらそうぎゃてい)    よくぞまあ すがすがしいこと

菩提娑婆訶(ぼじそわか)       さあ禅者よ 自然(ありのまま)なり

般若心経(はんにゃしんぎょう)                         

【咄=トッ!・・意訳の終わりに・・すべてを吹き飛ばす掛け声をかけておきます】

禅のパスポート 無門関NO15  この飯袋子(はんたいす)・・江西、湖南、すなわち恁麼(いんも)にし去るか。 

●私は4回あまり職を変わり、lifeworkを見つけました!

昔・・中国や日本の、禅に関心のある求道者は、自分のことをよく見極め、適切な指導、鞭撻をしてくれる師(先生・老師)を求め、訪ねて行脚(あんぎゃ)した。

現代の集団的、一律教育方式と違い、規制に束縛されない寄宿、自炊の研究生活とでも言いますか・・学生である自分が納得できない師(先生)であれば、遠慮なくサッサと見切って、次の、自分が信頼するに足る師を探す旅(行脚)に出た。

私は、高校、大学は、それぞれの学生が何を学びたいか・・

将来、なにをしたいのか・・求道ならぬ「求学者」として、自由に特色ある学校を選ぶことができ、高校、大学までは、授業料、全額免除。先生や教授、その勉学の仕組みは、それぞれ学生が選ぶような、厳しい自由競争の中で切磋琢磨する・・主客転倒のSYSTEMを検討するよう、提案したい・・と思っています。

この私でも、TV映画の助監督からコピーライター、マーケティング・プランナー、SPエージェンシーの運営と、4回余りの転職でどうにか落ち着いたが、大事な経理関係を学ばず、随分と無駄な時間を費やした。

どんな仕事について苦労しようと、どんな苦労も役に立つが、勉強しなかった悔いは死ぬまで残る。

とにかく、教育の仕組みは、文科省の管理下におかれて完全に利権化している。昔,求道者が師を選んだ・・学びの基本に返ることが大事でしょう。これだけ進化したデジタル社会です。

学問、教育は、マスマス独立独歩。職人と同じく師を求める・・手の温かさが大事です。

無門関 洞山三頓 (どうざん さんとん) 第15則

この飯袋子(はんたいす)・・江西、湖南、すなわち恁麼(いんも)に し去るか。

古くからの中國の、人を罵る俗語・・飯ぶくろ(弁当箱)のような、ろくでなし・・が、あっちをウロウロ、こっちをウロウロさまよい歩く・・の意

【本則】修行中の洞山が、雲門老師を訊ねた時、さっそく「禅者からの丸裸にされる・・問い」がはじまった。

雲門「何処から来られたのかな?」

洞山「査渡(さと)から・・」

雲門「この夏(安居・げあんご)は、いずこに?」

洞山「湖南(揚子江)の報慈山で修行していました」

雲門「それなら、お前さん、何時、その報慈を離れたのか・」

洞山「八月二十五日」

雲門老師は、ここで彼を見切って「それじゃ、六十回(三頓の棒を許す)ぶっ叩こうぞ」

叩かれた洞山、何故なのか、訳が分からず夜を明かした。

その思いが募って、不満と怒りで頭に血が上ったようになった洞山、あくる日、雲門老師に食って掛かった。

「昨日、三頓の棒を食らいましたが、どんな罪科(つみとが)があったのか、叩かれるイワレを言ってください」

雲門曰く「エエイただ飯食(めしく)らいの糞造機(ふんぞうき)めが。アッチコッチをさまよって、そのようにやって来たのか」

その「一語」を聞いて洞山、桶の底が抜けたように大悟徹底した。

  【本則】雲門、ちなみに洞山、参する次(つ)いで、門、問うて曰く

     「近離(きんり) いずれの處ぞ」山云く「査(さ)渡(と)」

      門云く「夏、いずれの處にかある」               

      山云く「湖南(こなん)の報慈(ほうじ)」

      門云く「幾ときか彼(かれ)を離(は)なる」             

      山云く「八月二十五」

      門云く「汝に三頓(さんとん)の棒を放(ゆる)す。

      明日(みょうじつ)に至って、却(かえ)って上(のぼ)って問訊(もんじん)す。

      昨日、和尚に三頓の棒を放(ゆる)すことを蒙(こうむ)る。

      知らず、過(とが)いずれの處にか在る。

      門云く「飯袋子、江西湖南、すなわち恁麼に し去るか」

      山、ここにおいて大悟す。

 

【素玄居士曰く】田の面なる水のせせらぎ聞きてあれば、

        世の憂さとしも思もほえぬかな。

【無門曰く】さすがに雲門宗の始祖・・雲門老師だ。

洞山に、ニッチもサッチもいかない、ギリギリの禅の食い餌(六十棒)を与えて、いっぱしの獅子の子を育て上げたものだ。

夜通し中、叩かれた屈辱に耐えて、雲門に吠え掛かればこそ、悟ることが出来た。それでも、うれしいとハシャギ回ってはいない。

無門、座下の求道者に問う。

はたして、三頓の棒で叩かれるべきか・・そうでないか。

もし叩かれるとなれば、宇宙にある総てのモノが痛棒を喫すべし。

そうでないとしたら、雲門、叩けばホコリしか出ないのに、口から出まかせをいう奴となる。

サア・・ここで徹底、カラリとなれば、洞山・・天地同根の禅機、禅境(地)を手に入れたことになる。

 【無門曰く】雲門 当時(そのかみ)すなわち本分の草料をあたえて、

       洞山をして別に生機(さんき)をあらしめ、

       一路(いちろ)の家門 寂寥(じゃくりょう)をいたさず。

       一夜 是非 海裏(かいり)にあって著到(じゃくとう)して 

       直(じき)に天明(てんめい)を待って再来(さいらい)すれば、

       また他のために注破(ちゅうは)す。

       洞山 直下(じきげ)に悟り去るも未(いま)だ是れ性燥(しょうそう)ならず。

       しばらく諸人に問う、

       洞山三頓(さんとん)の棒、喫(きっ)すべきか喫すべからざるか。

       もし、喫すべしといわば、草木叢林(そうもくりん)みな棒を喫すべし。

       もし、喫すべからずといわば、雲門また誑(こう)語(ご)をなす。

       者裏(しゃり)に向かって明(あき)らめえば、

       まさに洞山のために、一口(いっく) 気を出ださん。

 

【頌に曰く】獅子は仔を崖から落とし、這い上がってきて親の足を咬むような仔を育てる・・と、古事にある。蹴落とされ、振り落とされても、再び、谷底から這い上がるような、気迫のある・・洞山なればこそ、初めは見当もつかず壁にぶち当たった。けれども、雲門の「飯袋子」の一語が、禅機禅雷、喪心して・・ビリビリ感電死にいたった所だ。

一の矢は浅く、二の矢は深く、ともに、ど真ん中に的中だ。

  【頌に曰く】獅子、児(こ)を教(おし)う迷子(めいじ)の訣(けつ)。

   前(すす)まんと擬(ぎ)して跳躑(ちょうちゃく)して早く翻身(ほんじん)す。

   端(はし)なく再び敍(く)ぶ當頭著(とうとうじゃく)、

   前箭(ぜんせん)はなお軽く、後箭(こうせん)は深(ふか)し。

 

 

【素玄居士云く】(両堂 猫児を争うのに対して)五歩あるいは三歩

禅のパスポート NO14  

無門関 南泉 斬猫 (なんせん ざんみょう) 第十四則

【本則】中国池州 南泉山 普願(ふがん)老師の禅院で、東西に分かれている僧堂の何百人の求道者たちが、倉の大切な米穀をネズミから守る一匹に猫をめぐって、所有権の罵りあい、大喧嘩になった。

何の罪トガもない猫の奪い合いに、この求道者たちを仕切る南泉老師。やむをえず、包丁片手に登場して、猫の首を捕まえて、吊るし上げて云った。「サア・・誰でもよい、一句、道え。そうすれば猫は助ける。云えないなら、ぶった切る」・・と。

この禅機ハツラツ・・的なきに矢を射れ・・とのご宣託に、並み居る大衆(求道者)、平常は無所得(むしょとく)即無尽蔵(むじんぞう)の悟り顔で、托鉢したり経を上げたりしているのに、黙り込んでしまった(何か、下手な芸当でもして猫の命乞いをすればいいのに、南泉の禅・・血滴々とホトバシル)・・やむなく南泉・・スパリと猫を斬った。

南泉は斬猫して公案をまどかにしたのである。(この公案、猫の霊が憑いている)

 

その夜、帰ってきた趙州が、この話を聞いて、草履を頭にして出て行ったのは、まことに自然の行為。猫もなければ、南泉もない。思慮、分別が微塵もない無造作の働き・・さすが趙州の独り舞台だ。狗子(くす)佛性の公案=「無」と同じで、さらに活発な、天衣無縫である。

この辺の味が禅だな・・(ここまで素玄居士の見解ソノママ)

 【本則】南泉和尚 ちなみに、東西の両堂 猫児(みょうじ)を争う。

  泉、すなわち提起して云く「大衆(たいしゅ) 道(い)いえば、即ち救わん。

  道(い)えずんば、即ち斬却(ざんきゃく)せん」

  衆 對(こた)うるなし。泉 遂に是を斬る。

  晩に趙州 外より帰る。泉 州に挙示(こじ)す。

  州 すなわち履(くつ)を脱して頭上に安(あん)じて出(い)ず。

  泉云く なんじ、もし在(あ)らば、すなわち猫児(みょうじ)を救(すく)いえん。

【素玄居士云く】 

(両堂 猫児を争うのに対して)五歩あるいは三歩。

(趙州の活作略に対して)火事だ、火事だ、お寺が火事だぁ。

        エッサッサ。エッサッサ。

 

【無門曰く】趙州の草履を頭にのせて出て行った禅機を喝破したら、南泉の令「道いえば斬らず」の禅機も納得できよう。

草履なんかに目をつけていたら・・もう駄目だ。

アブナイ、アブナイ。お前さんまで斬られるぞ。

  【無門曰く】しばらく道え、趙州 草鞋をいただく意、作麼生(そもさん)。

   もし、者裏(しゃり)に向かって一転語(いってんご)を下(くだ)しえば、

   すなわち南泉の令(れい)、みだりに行(ぎょう)ぜざることを見ん。

   それ、あるいは未だ然(しか)らずんば、険(けん)。

 

【頌に曰く】趙州が、もし、その場にいたら、逆に、南泉の包丁を奪い取って、南泉が命乞いしたことだろう(無門、南泉の命乞いの場を・・一目、見たくてたまらないようだ)

  【頌に曰く】趙州 もし在(あ)らば、倒(さかしま)にこの令(れい)を行(ぎょう)ぜん。

   刀子(とうす)を脱却(だっきゃく)せば、南泉も命(めい)を乞(こ)わん。

 

【附記】碧巌録では、第六十三則「南泉斬却猫児」(なんせん ざんきゃく みょうじ)と第六十四則「趙州頭戴草履」(じょうしゅう ずたい そうあい)の話は、無門関、従容碌で明らかに連続した説話として記述してある。碧巌録(雪賓重顯)は、南泉普願の禅機と趙州従諗の禅機を、別々に意見するために、故意に二話の公案としたようだ。

この南泉斬猫の則・・殺生を厳禁する仏教寺院で、戒律に厳格な南泉老師の一刀両断の行為は、大乗律に合わない話・・であるのに、後世、寺院の禅者、ことごとく南泉の行為を肯定している。

しかし・・私の意見は少し違う。いかに血みどろに東西の僧たちが喧々諤々(けんけんがくがく)、猫の取り合いをしているから・・といって、南泉は趙州の師であり、数百人の弟子を持つ達道の禅者である。まして猫は、今の愛玩動物とは異なり、米穀をネズミなどから守る大事な役目をもっている。それを、ワザワザ、台所の包丁を隠し持って、争いの真ん中に分け入って、何か、至道、禅機の芸の一つも見せてみよ・・とは、どうも、どさまわりの芝居ががっていて胡散臭いのである。

血で血を洗う公案は、どうにも後世のデッチアゲに思えてならない。

古来、この問答は難透と言われる。他、無門関 第四十一則 達磨安心(慧可断臂 えかだんぴ)ともに、とおり一辺の師家の見解、講釈に、お説ごもっともと、意見できなかった寺僧たちのテイタラクこそ、禅絶滅の元凶であろう。

この詳しくは、碧巌録の六十三則=六十四則で述べた。

ここでは、素玄居士の見解を尊重しておく。

 

 

禅者の振る舞い・・芝居じみたやり取り、本当にあるのですか?9/6追記 ・・第13則

●碧巌録(85則)でも、この無門関でも、どうやら9/6 掲載した則が、禅者のヒマをもてあそぶ「禅による生活」を描く・・一般常識からはずれる芝居で、読者から、早速に質問されたので追記します。

禅語録には、一見、芝居じみてみえる禅者の行録がたくさん出てきます。

いずれも本当にあった命がけの修行、その「禅機」のやりとり・・です。

私も、生前、父との会話や、その振る舞い、表情に、ほとばしる禅機を感じて、思わずうなってしまったことが何度かあります。年を経るにしたがって「閑古椎カンコツイ=先の丸いキリ」とか「木鶏モッケイ」とか言われる禅境地を窺うことになりました。

 現代の僧堂で行われる修行は、寺の跡継ぎを養成する「促成・温室栽培」で、しかも、師家もまた、言われた通り一偏の指導ですから、悟後のスリアゲなど、ありようも出来ようもありません。

禅は、宗教や哲学や論理・心理、論理学で解析、検証できません。著名な禅寺で、それらしい振る舞いの坊さんや、白皙の学者を登場させ、NHKの教養などで話させても・・これ全部・・生座鳥の受け売り話。本命の禅者がいるとスレバ、まず・・大のテレビ嫌い・・電話嫌い・・団体組織嫌い・・必ず清貧です。(あえて事例をあげれば、一休宗純や大愚良寛です。白隠盤珪、仙厓なども、コメみその代わりに禅画や書を書いて生計にあてていました)

 

電磁波で平安な世界へ導いてくれる・・と、スマホ狂信者があふれる現代・・

いずれは・・北朝鮮の水爆、高高度爆発でデジタル社会が壊滅して、アナログ社会にまいもどったら、この禅者の一語と、そのわけの分からない振る舞いが、何だったのか・・気づくことになるでしょう。・・どうぞ「独りポッチ禅」で、依るべなし・・無依(ムエ)の人になってください。

禅のパスポート 

無門関 徳山(とくさん) 托鉢(たくはつ) 第13則

禅は「今、ここに」に生活する・・中にしか発現しない。だから・・何時、どこで、誰が・・は深く問わない。何ごとを、どのようになしたか・・これを自分の境地として、どれほど深く味わうことができるか・・

いわゆる「禅境(地)を楽しむ」のである。

主義主張、自我意識の強い・・人には「禅=禅による生活」は、関心もなく、身に染むことはないといえよう

ただ、心落ち着かず、不安や悩みに苦しむ・・安心を求めたい人が、ふと、坐禅でもしたい・・と、思った瞬間・・その時だけ・・ZEN=禅が姿を現わす・・と言ってもよい。

(たいてい、禅の効用、利用価値を考えてしまうので、純禅=自分の無所得、無価値・無功徳な姿は、すぐに消え失せてしまう・・)

たったの3分間・・独りポッチ禅をする時、私は、碧巌録か、無門関に、気ままにページを開いた一則を看ることにしている。

千年前の、それこそ現代の文明文化から比較すれば・・何もない、貧しく不便な禅者たちの生活ではあるが、明らかに悟りの世界がイキイキと出現する。宗教でも主義主張でも、無関心でも、スマホの依存症でもない「禅による生活」がある。

しかも、彼ら・・達道の禅者は、人生を達観して、ヒマでしようがない・・暇をもてあました人たちだから、何事につけて、生きることを楽しんでいる様子が見て取れる。役立たずな生き方・・役立たずの坐禅・・その舞台が、いま、ここに開幕する。

 

【本則】ある日、徳さん(山)・・食事時でもないのに、自分の茶碗と箸を持って、ひょっこり食堂に姿を現した。そこに居合わせた料理長、雪峯に「まだ、食事の案内、合図をする時間じゃないのに、何をウロウロされますか」と注意された。

徳さん、うなだれて自分の部屋(方丈)にもどった。

  *徳さん、雪峯にやり込められ、自室に帰ったのは禅機。

   徳さんの得意の三十棒が出なくても、すごすごと戻る姿に、

   雪峯は・・その性根、禅者の一悟を見届けていない。

   この雪峯と徳さんの商量に相乗りした巌頭は、ナカナカの達者だ。

この件を、万事仕切り役の巌頭に報告したところ・・巌頭いわく「いつも腹ペコの徳さんだ。まだまだ、往生の覚悟などできていないな」と決めつけた。

   *末期の句を、禅の極所と誤解してはならない。

    三昧(正受)が禅の極所であるとか、極所など本当はない

    ・・という・・のを打発しての発言だ。鋭いトゲがある。

徳さん、これをまた聞きしたので、巌頭を呼んで「ワシのやった行動を否定するのか」と問うた。すると巌頭、お耳を拝借・・と、耳元で何かささやいた・・徳さん「ナルホド、それなら致し方ない」と納得して寝てしまった。

   *それでは「末期の一句」とは、何を言うか・・

    禅者は、時に、こんなイタズラをして楽しむ。

あくる日。求道者を集めて、徳さんの禅話が始まろうとした時、巌頭、手を打って大笑いしながら言った。

「イヤア・・喜ぶべき出来事だ。徳さん老師、覚悟の一句がワカラレタようだ。これからはもう誰も手出し、ご意見できないよ」

   【本則】徳山(とくさん) 一日(いちじつ)托鉢(たくはつ)して堂に下(くだ)る。

   雪峯に、この老漢(ろうかん)、鐘いまだ鳴らず、

   鼓(く)いまだ響(ひび)かざるに托鉢して、

   いずれのところに向かって去ると問われて、

   山すなわち方丈(ほうじょう)に帰る。

   峯(ほう)、巌頭(がんとう)に挙(こ)似(じ)す。

   頭云く、大小(だいしょう)の徳山、いまだ末後(まつご)の句を會(え)せずと。

   山 聞いて侍者をして巌頭を喚(よ)び来たらしめて問うて云く。

   汝 老僧を肯(う)けがわざるか。巌頭、密(ひそ)かにその意を啓(もう)す。

   山すなわち休(きゅう)しさる。

   明日(みょうにち)陞座(しんぞ)。はたして尋常(よのつね)と同じからず。

   巌頭、僧堂の前に至って掌(たなごころ)を打って大笑(たいしょう)して云く。

   且喜(しゃき)すらくば老漢、末期の句を會することを得たり。

   他後(たにの)ち 天下の人 彼を奈何(いかん)ともせじ。

 

【素玄居士云く】泥棒にはカギをあたえよ・・

 

【無門曰く】これが・・徳さん、一期一会の話なら、巌頭、徳さん、ともに末期の一句、わかってはいないと・・叱りつけた無門。

さあ、しっかり坐禅して納得すればいいが・・こりゃ一幕物の田舎芝居だね

   【無門曰く】もし是れ末期の句ならば、

    巌頭、徳山ともに未だ夢にも見ざることあり。

    険点(けんてん)し將(も)ち来ればよし

    一(いっ)棚(ぽう)の傀儡(かいらい)に似(に)たり。

【頌に曰く】無門の見性の一句はさておき、末期の一句はどうもアヤフヤ・・はっきりしない・・末期の句を会(え)する人は、昔も今も、本当に少ない(と、素玄居士は提唱で指摘している)

*無門慧開 天龍和尚に参じ、後、月林禅師のもと、狗子佛性の公案を6年間粘弄、ある日、太鼓の音で省悟。重ねて雲門話堕の則を聞かれて拳をあげた。林は、これを見届けて印可したという。無門は、平常、頭髪茫々、人々から開道者と呼ばれていたソウナ。

   【頌に曰く】最初の句を識得すれば、すなわち末後の句を會す。     

    末期と最初と、これこの一句にあらず。

 

 

禅のパスポート 無門関NO12(8/23 追記修正) 

無門関 第12則   巌喚主人 (かんがん しゅじん) 

【本則】瑞巌(ずいがん)の彦和尚(げんおしょう)、

    毎日 自ら(みずか)主人公と喚(よ)び、また自ら応諾(おうだく)す。

    すなわち云く「惺惺著(せいせいじゃく)」=「諾(だく)」

    「他時(たじ)異日(いじつ)、人の瞞(まん)を受くること莫(なか)れ」 

    「諾々(だくだく)」

【本則】自分が自分を呼んで、目を覚ませ!とか・・騙されるなよ!とか・・ハイと返事もしている。こんな心理的な自己問答は・・禅ではない。

だが、瑞巌老の自戒めいた話は、自分で禅機(エンジン)を発動させ、禅境(車のドライブ)を楽しむ心地であろう。

 

公案とみるよりは、看脚下=照顧脚下の実際とみて、貴方の禅境の一語を言ってみよ・・と迫る話だ。

 

【素玄居士云く】胡馬(こば) 北風に嘶(いなな)く・・

【附記】アエテ意訳スレバ・・1日千里を走るサラブレッドは、遠い故郷から吹いてくる寒風に誘われ、嘶いて走り出す・・の意。

臨済録 臨済・麻谷マヨクの商量中、「千手観音のどの手、どの眼が本当のものか?」と問答した、その公案の大燈国師の着語に「凛凛リンリンたる清風 匝地ソウチ寒し」とある。

自己・・素っ裸の・・「本来の面目」とは何かを問う、最も難透な公案だといわれる。

明白徹底、掌を見る如くに看えなければ臨済白隠の児孫(寺僧たち)禅を知ったというな・・と、釋 宗活老師が「臨済録 講話」光融館 昭和16年発行で喝しておられる。

碧巌録に次いで、無門関を意訳していますが、講釈抜きで、ズバリ切り込んでくるのが「無門関」です。禅に関心を持つ、欧米、外国の方には、言い訳不要の、無門関の方が、坐禅するには最適でしょう。論理的に解釈できない・・してはならない「禅」は、分析、検証の科学的な因果関係に包まれた西欧文化に、全く適合できません。チョウド、インドの哲学者風の達磨が、中國にZENを紹介した時、現実的実務主義の中国人に理解されず、九年の面壁坐禅をしたように・・まだまだ・・真の求道者・・読者数は少ない状況です。日本人が1千年かかって純禅を挙揚し、今や、絶滅種となりましたが、欧米で一粒の麦・・もし死なずば・・次の千年期に、禅の大樹となるよう、由来、因縁、哲学・論理・科学的考察は放棄して、この・・役立たず三分間「独りポッチ禅」を提唱する次第です。         

臨済義玄リンザイ ギゲン(黄檗希運オウバク キウンの弟子、禅ー臨済宗の祖)麻谷寶徹(馬祖道一バソ ドウイツの弟子)無門関・・公案は、人物、履歴、因縁に固執しないこと

 

【無門曰く】瑞巌老は、夜店のお神楽(かぐら)の面売りだね。

 

しかも独りで売って、独りで買う・・落語の花見酒、杯と五文のやり取りか・・儲けのないフーテンの虎さんだ。

(ニィ!は語気を強める「サァ!ドウダ!」の口調)

 

威勢のいいタンカ売に、買おうか・・どうしようと、キョロキョロまごまごしたら、この買い物、高くつくぞ。まして瑞巌老の真似や受け売りをしたら、禅気に毒された病人・・と心理療法の的にされるぞ。

【無門曰く】瑞巌老子(ずいがんろうし)、自(みずか)ら買い自ら売って、  

      許多(そこばく)の神頭(じんず)鬼面(きめん)を弄出(ろうしゅつ)す。

      何が故ぞ(おいオイ・・どうだね・・漸耳(にい)!

      一箇は喚(よ)ぶ底(てい)、一箇は応ずる底、

      一箇は惺(ピチピチした生活=)惺底(せいてい)、

      一箇は人の瞞(まん=偽り)を受けざる底、

      認著(にんじゃく)すれば、依然(いぜん)として還(かえ)って不是(ふぜ)。

      もし、また他に倣(なら)わば、すべてこれ野狐(やこ)の見解(けんげ)ならん。

 

【頌に曰く】禅を知識や論理で解かろうとする者は、南極で北極星をさがす天文学者だ。雑念・妄想がいっぱい詰まった望遠鏡で、星がどうして見えるものか。

日常生活そのままが、人間本来の生き方だと思ったら大間違い・・(だから現実、実利重視の女性や学理の言うだけの蕎麦屋の釜、スマホにのめり込む信者は、ナカナカ禅を手に入れた生活ができない)

スターダスト⇒★と望遠鏡のゴミ・・看間違えたら大変だぞ。

 【頌に曰く】学道の人、真を識(し)らず、

       ただ従前 識神(しきしん)を認めむるが為なり。

       無量劫来(測りがたき轟雷)清氏(商ない事)の本(元)、

       痴人喚(ちじん よ)んで本来、人(にん)となす。

 

禅のパスポート 無門関 NO11  

無門関 州勘庵主 (しゅうかんあんしゅ) 第11則

【本則】百二十歳まで行脚修行した趙州。

ある日ある時、ある禅庵を訪ねて・・「有りや・・有りや」

(いったい何があるのか、何を尋ねたのか・・日時や庵主名など不明なのは、無用だから書いてない)

すると庵主、すっと拳(こぶし)をあげた。

趙州云く「浚渫(しゅんせつ)してない浅い港なので船泊(ふなどまり)できない」といってサッサと出て行った。

また別の禅庵を訪ねて云く「有りや・・有りや」

するとこの庵主もまた、すっとこぶしをを立てた。

趙州云く「これはナント・・自由、活殺自在な働きの方である」と丁寧に礼をした。

 【本則】趙州 一庵主の処にいたって問う「有りや 有りや」

  主 拳頭(けんとう)を竪(じゅ)起(き)す。

  州云く「水浅くして、これ船を泊する処にあらず」と、すなわち行く。

  また一庵主の処にいたって云く「有りや 有りや」

  主もまた拳頭を竪起す。

  州云く「能縦能奪(のうじゅうのうだっ)、能殺能活(のうせつのうかつ)」と、

  すなわち作礼(さらい)す。

 【無門 曰く】両方の庵主、同じように拳を立てたが、一方は船底が海底につくから泊まれない・・と退散し、もう片方は、同じ仕草なのに、自由自在な働きである・・と、ほめたたえて深く礼をした・・この趙州の「入り組み」態度の違い・・を見て取れる・・求道者・・いるかどうか。

もし、一人を誉め、もう一人をダメとする・・確かな意見ができれば、反対に趙州こそ、二庵主に、喝破され(見抜かれ)ていることもわかろうというものだ。

 

禅寺では「趙州無字」の公案一則を透過すれば、あとは口伝とか、密室の参事として伝授する・・アンチョコ方式をとる・・そうだが、禅による生活の本当は、こうした公案で鍛錬された「一語」徹底しているか、どうかで決まる。

もし、二庵主の優劣,是非があるというも、無いというも、やっぱり、それは口頭禅だ。

  【無門 曰く】一般に拳頭を竪起す。

  なんとしてか一箇を肯(うけが)い、一箇を肯(うけ)がわざる。

  しばらく道え、ごう訛(が)いずれの処にかある。

  もし、しゃりに向かって一転語を下しえば、

  すなわち趙州の舌頭に骨なく、

  扶起放倒(ふきほうとう)、大自在をうることを見ん。

  しかもかくの如くなりと謂(い)えども、

  いかんせん、趙州 かえって二庵主(あんじゅ)に勘破(かんは)せらるることを。

  もし二庵主に優劣ありといわば、未(いま)だ参学(さんがく)の眼(まなこ)を具せず、

  もし優劣なしというも、また未だ参学の眼を具せず。

 

素玄居士・・

【九谷の徳利、青磁の杯、独り小房に座り交互に忙がし。

趙州 訪ね来たるも拳を用いず。壁間のグラビヤ、代わって応接す】

禅機は「禅の生々なる流露」で、相手がなくても、独り禅機を弄(ろう)して楽しむ。ここでは相手があっても相手なきに同じ。この庵主したたか者じゃ。ここは趙州と手を打って、散歩するのも面白いが、今時、いないなぁ!

趙州の禅機は天性の妙だ・・これを酌めども尽きずに楽しむ、面白い一則だ・・と言われます。

 

禅【頌に曰く】生きていく、その中で、大切なものはいろいろあるが自分の一番、大事なものは何か・・

  【頌に曰く】眼(まなこ)は流星、機は掣電(せいでん)。

   殺人刀(さつじんとう)、活人剣(かつじんけん)。

   (禅者の容姿、行動・・ズバリ・・意訳の必要なし)

禅のパスポート 無門関NO10

【ビールの貴きを恐れざれ・・

  水道の麦酒に化せざるを歎く・・】素玄居士 見解(けんげ)

無門関  清税(せいぜい) 弧貧(こひん) 第十則

【本則】俗に「禍いと炊飯ほど出来やすいものはない・・」どうか1分間でも3分間でも、弧貧(白紙)になって坐禅して、自己をかえりみ照らして、自己の主人公(性根玉)をハッキリしてもらいたい」山本玄峰著「無門関提唱」大法輪閣より抜粋

清税という求道者・・あるいは師の禅境地を試す意味で言った、問いかけであろう。弧貧とは、独り窮困して貧乏、腹ペコ。どうぞご飯をお恵みください・・だが・・飯もらいが真意ではない。

「私は、ただ独りにして無一物、心裏にかかる迷い雲なし」・・師よ、このような禅(境地)者に、与える「一語」ありましょうか?・・との公案=検主問・・としておきます。

これに対して、曹洞宗の始祖、曹山は、駘蕩(たいとう)とした境涯を酒中の趣きに形容して、見事に応酬した一語である。

*闍梨は、僧の尊敬語 *青原白家は「灘の正宗」位の酒どころか・・本則 意訳を、生一本、冷で味わいください。

  【本則】曹山和尚 因みに僧 問うて云く 

      清税は孤貧(こひん)なり 

      乞う 師 賑済(しんさい)したまえ、

      山云く「税 闍梨(じゃり)」 

      税 応諾す(ハイ・・と素直に答えた)

   山云く「清原(せいげん)白家(はっけ)の酒 

   三盞(さんさん) 喫(きっ)しおわって猶(なお)いう未(いま)だ唇を沾(うるお)さずと」

     (いったい何杯飲めば、少し酔いましたと云うんだい)

 

【無門曰く】禅は、生活に根差した行いが総てですから、その時々の「禅境地」を試みなければ、進歩したか、退歩したか・・本物か贋物か、よくわかりません。とりわけ骨董、茶器、陶器の類は、割って中の焼成の具合を看なければ、真贋つきにくいといわれます。

さあて清税の貧するところ全く鈍した心根か・・またまた酒を飲んだところ・・銘酒かワインかビールか・・何だろうか。

  【無門曰く】清税 機を輸(ま)く 是れ何の心行ぞ。

   曹山は具眼(ぐがん)にして、深く来機(らいき)を辨(べん)ず、

   しかも是(かく)の如くなりといえども、しばらく道(い)え。

   那裏(なり)か是れ 税闍梨(ぜいじゃり)、酒を喫する処。

【頌に曰く】坐禅して、三昧(ざんまい)の境地になったなどと言うことなかれ。パチンコ、競輪、ギャンブルに夢中になったり、写経や坐禅の真似事をしても、三昧はあり、それを大覚=悟りと誤解してはならない。単に、集中した時の心理作用だから、三昧境は、誰でもなれる心理です。

「貧」の極致は范丹(はんたん)に似たり・・(中国の古歌に・・范丹という人は貧しくとも泰然自若。釜の中に魚を生ず・・と唄われたそうだ)

無一物中無尽蔵の清税は、貧の極致にあるから、気持ちは項羽のごとし。酒を飲んでも、くちびるを潤おさず・・その日暮らしでも、常に満ち足りてある。

(あえて言えば・・御心もまま・・自然法爾に続くのか・・)

【頌に曰く】

貧は范(はん)丹(たん)に似、気は項羽(こうう)のごとし。

活計(かっけい)なしといえども、あえて興(とも)に富を闘(たたか)わしむ。

 

【附記】かって、私が円覚寺に寄宿参禅していた学生の頃、父の(縁、用事)で、吾兄,五郎が山向う東慶寺、松が丘文庫の鈴木大拙先生を訪ねた時、「貧」の一字の扇子を頂き、家宝のように大事にしていたのを思い出します。あの頃は若くて「貧」とか、「無一物」とか、よく納得していなかったです。坐禅は「悟り」の手段ではなく、ただの毎日の心の洗濯、掃除ですね。日頃の暮らしの中に、弧貧の境地が醸成されてこそ、うまき酒になるのでしょう。

現在、つくづくと、提唱する「3分間独りポッチ禅」は、この則、清税「弧貧」の禅といってもいい・・と思います。

孤独を感じ、寂寥を想ったら・・はてなブログ「禅者の一語」/禅・羅漢と真珠・・を覗いてください。禅の本音を露裸々に紹介しています。

 

禅のパスポート 無門関NO9

【楽しみは夕顔棚の下涼み 男はてゝら、女は二布して・・古歌】素玄居士 

 

【本則】ある時、興陽の禅院に住する清譲(せいじょう)老師に、求道者が訪ねてきて問うた。

大通智勝佛=無礙自在(むげじざい)、清浄法身(しょうじょうほっしん)の虚明(きょめい・・実在しない覚者の意。臨済録)が、永劫(永遠)に坐禅したとて、禅を把握できず、禅を悟れないのは、どうしてでありますか? 

(本則、的確に禅の極所をついている問答です)

譲曰く「ナルホド・・その問いは、しごく最ものことじゃ」・・と言われても、求道者にとって、サッパリわからない答え方であり、更に問う。

「長い間、禅院で坐禅修行を続けているのです。どうして見性(悟り)を得ることが適わないのですか」

譲曰く「彼が禅をなさざるがためなり」

仏法佛道を「禅」と言い換えても同じこと。禅者は、例え寺院にいても、仏法が念頭に現前することもなく、仏道を領得することもなく、何事も因縁を結ぶことはない。

どちらにしても、禅者と仏とは、無関係であり、仏となることも出来なければ、仏となることをしないのでもある。

寺院・在家の差別なく、環境、職業さまざまであっても、禅(悟りの)境地に何の関係もないこと。

禅は無一物である。悟りを成すとか・・成らない・・とかの話でないことは、すでに世尊拈花(第6則)の公案で書いた。

禅は自得自悟するもので、則に即することなく、他から与えられるものではない。

サアテ・・その「ZEN」とは何だろうか?

  【本則】興陽(こうよう)の譲和尚(じょうおしょう) 因(ちなみ)みに僧問う、

   大通智勝佛(だいつうちしょうぶつ) 十劫(じつこう)、道場に坐し仏法現前せず。

   仏道を成(じよう)ずることを得ざるの時 如何(いかん)。

   譲曰く、その問い、はなはだ諦當(ていとう)なり。

   僧曰く、すでに是れ道場に坐す。何としてか仏道を成じ得ざる。

   譲曰く、伊(かれ)が成仏せざる(なさざる)が為なり。

 

無門曰く・・釈迦や達磨、達道の禅者たち・・どいつも理知に解するは放任するが、禅(悟り)を得たというのは許さない。

  • 無門曰く、只(ただ) 老胡(ろうこ)の知を許して 老胡の會(え)を許さず、

  凡夫 もし知らば是れ聖人(しょうにん)。

  聖人もし會せば即ち是れ凡夫。

 

この無門の着語・・どうも不十分だ・・と素玄居士。

「禅・・だとか、仏だとか・・何をうるさいやぶ蚊かな」

団扇パタパタ・・「オイ、蚊やりを焚いとくれ」女房、ハイハイ・・と附記。

頌に曰く、身の程のアレコレより心を労することのないのが一番。

禅を領得すれば神仙に同じ。

わざわざ大名に仕立てる手間ヒマはいらない。 

  • 頌(じゅ)に曰く、身を了(りょう)ぜんより 何(なん)ぞ心を了じて休(きゅう)せんにはしかじ。

  心(しん)を了得(りょうとく)すれば身(み)愁(うれ)えず。

  もしまた身心ともに了(りょう)了(りょう)ならば、

  神仙(しんせん)何ぞ必ずしも更に候(こう)に封(ほう)ぜられん。

 

 

 

禅のパスポート 無門関 NO8

♫・・お手てつないで野道を行けば みんな可愛い小鳥になって歌を歌えば靴が鳴る・・(清水かつら 童謡1919)素玄居士

素玄居士は、著作「提唱 無門関」の第八則 見解(けんげ)で、童謡を歌っておられる。

それと、水を田んぼに上げる踏板式水車を解体、再組立てする公案と、どこの何が、その解(禅意)で一致するのか・・

さらに、この則、月庵(げったん)シャレたことをぬかす。

こんな子供のイタズラもチャント禅の工夫があるのじゃ。

本則はすこぶる親切丁寧で、この則で手に入れなければアカン・・と結語されている。

無門関 奚仲造車 (けいちゅう ぞうしゃ) 第八則

月庵老師を訪ねてきた求道者が教えを乞うた。

昔、奚仲という人が、田に水を引く足踏み式の水車を発明して、稲の収穫に貢献をしたそうな。

そのせっかくの水車を、バラバラに解体して壊し、改めて組み立てたが、前と同じなら何の工夫もないことになる。

さあて今度は、どんな具合にしたか・・何を明らめたのか。

いちばん大事で肝心なものは、何だったのか?

水車に託して・・人の手足、頭を分解、再生したらフランケンシュタイン(化けもの)になりましょうか・・本当に大切なものは何か・・という問いである。

   【本則】月庵和尚 僧に問う

    奚仲、車を造ること一百輻(いっひゃくぷく)、両頭(りょうとう)を  

    拈却(ねんきゃく)し、軸(じく)を去却(こきゃく)し

    何邊(なにへん)のことをか明(あき)らむ。

 無門曰く 

もし、ただちに、その意が明らめられたら、そいつの目は流れ星。雷電の手腕を発揮しようぞ。  

  • 無門曰く もしまた直下(じきげ)に明らめ得(え)ば、眼(まなこ) 流星(りゅうせい)に似(に)、機掣電(きせいでん)の如くならん。

 頌に曰く 

本当に死にかけた病気をした者でないと、医者や病院の有難みはわからない。人の世は、持ちつ持たれつで成り立っている。

俺は独りで生きている・・と、独尊を気取る人ほど、気位は高く、孤立して、迷いに迷う有り様となる。

(動植物界では、群れを形成して、他を生かしていく社会であればこそ、長寿・生存の確率は高いという。ハグレ雄は短命だ・・と武田邦彦先生のブログにある http://takedanet.com/ )

実際の暮らし・・生業(なりわい)については、禅者もマゴマゴする。天地同根、無疑への転処は、禅であり禅機です。

   頌に曰く 機輪転(きりんてん)ずる処、達者なお迷う。

   四維(しゆい)上下(じょうげ)、南北(なんぼく)東西(とうざい)。

禅のパスポート 無門関NO7

☆昨来、口を過ごす余物なし。

   趙州一語の粥を饗(きょう)し来る。

   山堂寥廓(さんどうりょうかく) 嵐気冷(れい)なり。

   失銭の閑人 鉢を洗って帰る☆(素玄 居士)

   

禅を悟るに、難行苦行・・開けても暮れても坐禅三昧・・といわれる。しかし、達磨より三代あと、鑑智僧璨(かんちそうさん)は、信心銘において「至道無難(しどうぶなん)、唯嫌揀擇(ゆいけんけんじゃく)」・・悟りへの道は難しいものではない、ただ、好き嫌いや比較することがなければ・・と、わずか584文字の詩的論文で述べている。

彼は、当時・・日本で法隆寺が建立された頃(606年)、仏教道教の迫害にあい、深山に隠棲して難を逃れ、少ない求道者に、大樹の下で説法中、合掌・坐亡したと伝えられている。

 

禅の悟りはイロイロだが、素直に、独りで坐禅、自省すれば、ヒヨットした、何かの機縁があって、涙ながらの玉ねぎの皮むき作業が終わる。ただ、それだけのこと・・なのだ。

 

無門関  趙州洗鉢 (じょうしゅうせんぱつ) 第七則

趙州に、求道者が問う・・私は、まだ当地にて お目見かかって日も浅い者ですが、どうぞ、禅についてご教示ください。

趙州「朝の粥食は食べましたか」

求道者「ハイ、いただきました」

趙州「それじゃ茶碗を洗いなさい」

求道者 省悟(閃き)あり。

 あちこち行脚して、ご教示ばかりをいただく、そんな、乞食根性に自己不信、怒り、疑問がたぎっていたのだろう。

それに趙州の「禅による生活」=日常行動・・すごい切れ味の禅者の一語である。

   【本則】趙州 因(ちな)みに僧 問う、

    某甲(それがし)、乍入叢林(さにゅうそうりん)。

    乞う師、指示せよ。

    州云く、喫粥了也(きっしゅくりょうや) いまだしや。

    僧云く、喫粥了也。

    州云く。鉢盂(ほう)を洗い去れ。

    その僧 省(せい)あり。

 

無門が云う,明眼の禅者(趙州)の日常すべてが禅そのもの。

ご教示とやらの手がかりは、一挙手一投足、ゴホンと咳払いしようが、コッンと机を叩こうがズバリ禅を表現している。

臨済が師、黄檗のもとを去り、大愚に参じて「黄檗、恁麼(いんも)に老婆親切(ろうばしんせつ)なり=さすが黄檗だな。美味しいご飯を炊くのが上手だ」の一語で、禅を手に入れたのも、この求道者に似ている。

サア・・鐘を甕(かめ)と言い間違える人になるな。洗えと言われる前に、茶碗を洗ってしまう輩でないと、禅は手に入らないぞ。

現代、いったい何処に大愚や趙州がいるのかな?

  無門曰く、

  趙州 口をひらいて膽(たん)をあらわし、心肝を露出す。

  この者、事を聴いて真ならずんば、鐘を呼んで甕(かめ)となさん。

 

頌に・・「禅を難解だという人こそ、素直でないな。分析・比較・検証と、論理や心理を学問しても、効能書きに頼る病人は助からない。ご飯を上手に炊き上げるには、水加減は当然として、初めトロトロ、中パッパ、子供が泣いてもフタ取るな・・電磁的自動化社会に安住するスマホ教信者に禅は無縁でしょうね。

  頌に曰く、

  ただ分明(ふんみょう)を極(きわ)むるがために、翻(かえ)って所得を遅からしむ。

  燈(ともしび)のこれ火なるを早く知らば、飯(はん)の熟するにすでに多時(たじ)。

 

附言  A carpenter is known by his chips

        (大工の良し悪しは、カンナくずでわかる)

もう一つ・・「正直でないと桶は作れない」・・これホントです。

 

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