禅のパスポート

禅語録 無門関no解釈to意訳

サナギが蝶になるように・・禅のパスポート=【無門関むもんかん】を意訳します

禅のパスポート=無門関 講話・意訳 2017-4-29~

●はじめのおわりに・・

テレビやスマホを見すぎの方は、肥満になると言われます。

「働く」という字は、人(ニンベン)が動くと書きます。お仕事や、家事など、忙しく活動なさる方は、たとえストレス(課題、悩み)が多くあっても、肥満にはなりにくいのでしょう。では、ストレスがなくなり、肥満にもならない・・そんな心身の働きを自然で美しいものにする方法は、あるのでしょうか。

あります。それには、たった3分間ポッチ・・ひとりポッチのイス坐禅をお勧めします。

「ポッチ禅」といいます。

「禅」は古代インドの俗語「jhan ヂャーン」が語源です。ディヤーナの梵語が中国で静慮(じょうりょ・深く智慧を行ずること)から禅に・・英語では meditation=瞑想といいます。

坐禅は(目を閉じる瞑想とはちがい)、半眼にして、徹底して「独りポッチ」で坐ります。字は、人がバラバラに分かれて、土の上に坐る状態・・釈尊の時代から「座る」ではありません。「坐」です。

大切なのは、二人以上の団体、組織で坐禅したり話題にしたりしないこと。独りです。

(坐)禅は、欣求宗教ではありません。揺籃期・成熟期、願ってもない寺僧の教導を得て成長してきましたが、欧米に伝播した現代にあって、禅本来【独り・孤】の姿にもどりました。また、倫理や哲学・論理や心理療法や、仕事、趣味、社会的報酬、地位など、総てに無価値で、関与しない「無功徳、無利益」なものになりました。つまり、何の役にもたたない・・ことを覚悟して「3分ポッチ」「独りポッチ」で、姿勢を正して坐ることです。

じゃあ、坐る間、何を思うか・・頭脳は、寝ている時も働き続けています。何も考えないのが一番ですが、考えるな!ということを考えますから、チョット、気になった無門関のどれか1則を、味気ない鉄の飴玉をしゃぶるように(拈弄・ネンロウ)してください。3分間は、ゆっくりした呼吸(10秒)の、わずか18回です。吸って5秒、ゆっくり吐いて10秒・・1呼吸15秒位の禅者の坐禅では、12回で3分間が過ぎ去ります。

タッタの3分間・・ですら、落ち着けない現代病の貴方は、想いめぐって「ポッチ坐禅」がやれないことでしょう。たかが坐禅。されど坐禅。役立たずだからこそ、大事なのです。(いずれ、キット、無価値の尊さが自覚される時がきましょう。千年も前から、この無門関や碧巌録などで、実在の求道者たちは、純禅(悟り)を体験してきました。痩せたい・・不安をなくしたい・・などとあがかずに、サナギが、春風に誘われて、蝶になるように、自由にポッチ禅をなさってください。

門より入る・・これ家珍(かちん)にあらず

漢文で書かれた本則(ほんそく)や頌(じゅ)・偈(げ・悟りの見解けんげ)は、できるだけ心の内から啓発(けいはつ)されるよう、粉飾(ふんしょく的な心情)を除去して簡略化(かんりゃくか)し、解釈は文意にそって、正直に意訳しました。

また、公案(問題)本則は、漢文の味わいをつけたくて、時に文語調など、自由に書きました。

●無門関は、約1200年前・・求道する各則の主人公が、納得の答えを求めて行脚・修行した実話です。生死について、生き方について、愛憎について、執着について・・などなど・・ズバリ、迷悟を一刀両断に介錯するかのような「禅者たちの命がけの一悟」・・です。現代人が、いかに自分を見失っているか「禅による生活」を発見、発明してください。他の人や学問や宗教に寄らない、自分の中からだけの「自覚」です。

  • そして・・ラスト・・私の見解(けんげ)(禅者としての心境を、「野ざらし一語」として記述しました。(読了まで、お付き合い頂ける方限定・・おわりのはじめ・・に、一則ごとの意看(いみ)を、役立たずで、恥ずかしいですが掲載しました)千年も前の、禅語録が出た時以来・・明治、大正、昭和にいたる達道の禅者、指導の師家(しけ)たちは、ことごとく提唱時や、日常生活で、自己の禅機・禅境(地)を、露裸々(ろらら)・赤灑々(しゃくさいさい)に現わして、求道者に接しています。

「禅者の一悟」を、道(い)わぬが花・・師と求道者の二人だけの密室の参禅で・・と、まるで秘め事風になったのは、禅寺の跡継ぎ養成のための、修行組織の温室栽培や接ぎ木の禅継承がはやりはじめた事によります(これは日本の禅の衰退を助長しました)

また、二人以上の暮らしのあるところ、組織や団体の集うTPOでは「純禅」は育ちません。「禅」は、自分・・貴方・・唯ひとりの中でしか発芽せず、接ぎ木できません。一説に千二百則あると言われる公案は、逆に、独り一人ごとに解決しなければならない課題があると言う事です。、

ですから、独りポッチ=三分ポッチのイス禅をなされるおり、なんのことやらわからなくても、チョット心惹かれる一則を思い返し、考え返し行ってください。

「ポッチ禅」は、畳の上の水練ではなく、せめて「海水浴」・・冷たい海の中での実地実習になるよう・・意見しておきます。

 

第二則より入りますが、第一則「趙州 狗子(くす・無字)」は、入学したての小学一年生が、物理学量子論の学術論文を書く・・以上に難解な問題だと確信するからです。

いま、畳の上でしか泳ぎを知らない子供が、いきなりオリンピック水泳の金メダリストと競泳するような・・いや、イルカと競争するような、実力があろうはずがないからです。(昔の禅者、求道者は勇敢でした。泳ぎを知らないと言ったトタン、イキナリ水の中に放り込まれるような、大変、直裁的な荒い修行でした)

 

門より入る・・これ家珍(かちん)にあらず・・

ナカナカ解けない公案(問題)で悟りに至る・・ソンナ簡単に、禅の関所は透(とお=通)してくれません。

ズバリ言えば、これは、四十八の門のない関所(税関)を、それぞれ自分なりの四十八の方法で透明人間になって、通過してみよ・・と言われる問題集です。

まず・・教えられた知識・経験・体験などは、本当の(自分の宝)自覚ではない!

無門関の著者 無門慧開(むもんえかい)和尚が喝破(かっぱー見ぬいて言い切り)しました。

知識や学問、経験は、どれほど貴重であっても、つまりは他の人、社会の研究、体験、アドバイスにすぎません。参考になるだけです・・と。

禅では、賢者のことばや教えを、月(真理)をさす指(知識)に例えます。人は、よく間違います。その指を「月」そのもの・・と誤解するのです。

また、空に浮かぶ「月」を見ても、見た・・というだけです。目のご不自由な人には見えず、どんなに説明しても真の理解は出来ません。

親や先生や本や友人から、どのようにアドバイスされようと、言われようと、心底(しんそこ)、自分自身が納得・安心できる「答え」は、自分自身で見つけるしかない・・

他人の体験、知識、経験、推理、祈りなどは、「禅=自分」を解放するには、どうやら役立たないのです。

文字や言葉は、人が生きるため、生活するための便利なツール(道具)です。スマホやPCや新聞だって楽しく心豊かに生きるための情報ツールです。でも、道具を「真実」と錯覚してはなりません。

ホラホラ・・話がまた月を指す指に戻るでしょう。

そうだから、千年も前に「門のない関所」が設けられました。簡単には解けない公案(問題)で、自分の心の内から、発明、発見する答えでない限り、その関所を透(とお・通)してくれない・・「無門関」です。

 まず、無門関の由来、序・監修を解読しておきます。

 

【無門關(むもんかん)】無門慧開(むもんえかい) 選定監修

  (彌衍宗紹(やえんそうしょう)編纂(へんさん)

  無門 序・・

  紹定二年正月(1229年) 印行拈堤(いんぎょうねんてい) 要略 

仏語の心を宗となし、無門を法門となす。すでに是れ無門、且つそもさんか透らん。あに道(い)うことを見ずや・・門より入るものは是れ家珍にあらず、縁にしたがって得るものは始終成壊すと。いんもの説話、大いに風なきに浪を越し、好肉に瘡(きず)を剜(えぐ)るに似たり。何ぞ況(いわん)や言句に滞(とどこ)って解會(げえ)をもとむるおや。棒を棹(ふ)って月を打ち、靴を隔(へだ)てて庠(かゆがり)をかく、何の交渉かあらん。慧海(えかい)、紹定戌子(じょうていぼし)の夏、衆に東嘉(とうか)の龍翔(りゅうしょう)に首衆(しゅしゅう)たり、ちなみに衲子請益(のっすしんえき)す。遂に古人の公案をもって、門を敲くの瓦子となし、機に随って学者を引導す。竟爾(きょうじ)として抄録するに覚えず集をなす。初めより前後をもって叙列せず、共に四十八則となる。通じて無門関という。もし是れ、箇の漢ならば危亡をかえりみず単刀直入せん。八臂(ぴ)の那咜(なだ)他をさえぎれども住(とどま)らず、たとえ西天四七、東土の二三も、ただ風を望んで命を乞うことを得ん。もし、あるいは躊躇(ちゅうちょ)せば、また窓をへだてて馬騎を看るに似、眼を眨得(さっとく)し来らば早くすでに嗟過(しゃか)せん。

 

禅の心を根本に、門のない関所を透(とう・通)して、求道(ぐどう)の人を引導(いんどう)いたします。

では、どのように透(とお)るのか・・

『門より入る、是れ、家珍(かちん)にあらず』

人の五感を通し、理解するすべては、

真に己(おのれ)の宝とするには当たりません。

悟りは、いかようにも説明・教育できません。

まして文字や言葉で表現する事象は、棒を振って月を打ち、靴の上から足を掻く仕草(しぐさ)です。

こうした禅について、誤解をしないように

古人の公案 四十八則を厳選収録(げんせんしゅうろく)して『無門関』といたします。

●頌(じゅ)に曰く・・

  大道無門(たいどうむもん) 

   千差有路(せんしゃのみちあり) 

     透得此関(このかんをとうとくせば) 

       乾坤独歩(けんこんにどっぽせん)

独り一人に、それぞれが歩む道があります。

どうぞ躊躇(ちゅうちょ)することなく単刀直入(たんとうちょくにゅう)に、この通行手形(パスポート・公案)を手に入れて、大道を独歩(どっぽ・独り、ゆうゆうと歩んで)ください。

  *無門和尚は、天龍和尚に参じ、さらに月林禅師の鞭撻のもと『趙州 狗子  

   佛性』第一則公案を六年がかりに拈弄(ねんろう)工夫し、ある日、太鼓の音で  

   省悟。重ねて雲門話堕の則で拳をあげた。月林、この透過を見届けたという。無   

   門、平常、頭髪を剃らず、開道者と呼ばれた禅者である。

  *彌衍宗紹(やえんそうしょう)のエンの字は、太鼓の音。

  *無門関 第一則は難問中の難問(公案)なので第2則から紹介します。

  *最初の第一則は、この本の一番、最後に記述します。

  *公案(こうあん)・・中国、古代から役所の発行した調書(公府こうふの  

   案牘(あんとく)転じて・・求道者が禅で解決(透過)せねばならない問題。

  *文中、不是心佛・即心即佛・非心非佛とか多く・・「佛」の字が出てきます。

   これは、釈尊仏教の意ではなく「禅」の意ですから「禅」としました。

   師家は老師=先生の意・・「僧」は「求道者」としました。

以下、次回に・・

会(有)難うございました。