禅のパスポート

禅語録 無門関no解釈to意訳

●百丈山 堕脱の老人、東京街頭 脱堕の野狐(素玄居士)

  • さあ・・それでは、これから無門関四十八則・・

(第一則は、ラストにして)第二則から紹介いたします

 野狐(ヤコ)禪についてお話します。

無門関 第二則『百丈野狐』にある禪の達道者は、はたして因果(いんが)応報(おうほう)の世界に堕(お)ちるか・・どうか・・の有名な公案(問題)です。

「人生、原因あれば結果あり。罪をつくれば報いあり」と、解かりやすい話だけに、チョット物知り顔で禅の解説をしようものなら「アンタ、ヤコゼンネ」と、たこ焼きでも食べたように批判されます、坐禅をすると、言葉や考えの元「文字」のアヤフヤサに否応なく気付きます。

当てにならないのです。例えば「熱い」といっても、物質(の電子運動量による)が、どの程度、熱いのかは、時々刻々と変化していて、比較のしようがありません)正確には解からないものを、一応、相対的な基準値を設定して、わかったことにしておく・・のが言葉、文字、法律、物理などの世界です。

だから、言葉(文字)、哲学、理論で、禪の何たるかを理解しようとしても、無理だというのが、この百丈野狐、禪の核心にふれる面白いところです。

不昧因果の師・百丈と弟子・黄檗のやり取りが劇的です。

ここではキツネから出戻りした「禪による生活」のサワリを現代風に紹介します。

 無門関 百丈野狐(ひゃくじょう やこ)第二則

【本則】昔、百丈和尚の禪講座をたびたび聴きに来る老人が言いました。私は、五百生(代)の以前、当山で修行していた者ですが、ある時『大修行底の人は、因果応報(いんがおうほう)の苦厄(くやく)に堕ちるか?』と問われて『不落(ふらく)因果(因果関係に落ちない)』と答えました。トタンに、虚言を吐く口頭禪(こうとうぜん)の輩(やから)とばかり五百年間、野狐に変身させられております。

・・どうぞ助けてください。

百丈『では、問いなさい』

老人(野狐)『物事の事理に明るく、我利に執着せず、精進(しょうじん)修行(しゅぎょう)する人は、因果律(いんがりつ)に拘束(こうそく)されない・・不落(ふらく)因果(いんが)ですか?』

師 曰く『不昧(ふまい)因果』

因果を昧(くら)まさず、因果に昧(くら)からず。

因果応報の世にあつて、因果と戯(たわ)ぶれ、応報に遊ぶ・・

この一転語(いってんご)で、老人は、野狐身から脱(ぬ)けられた・・という。

後に山の岩穴に、狐の死骸をみつけて、丁寧に弔ったが・・ここから第二則の本題・・ 

大事です。

その夜、百丈は弟子の黄檗(おうばく 後の黄檗宗開山)に、野狐になった求道者の話をした。

黄檗、鋭く師を問い詰めます『もし、その老人が、誤りなく〔不昧(ふまい)因果(いんが)〕と答えたら、どうなりましょうや?』

師『近前来(きんぜんらい・もっと近くにおいで・・お前だけにそっと教えよう)』

(ここは探竿影草(たんかんえいそう=水中の藻を竿で探る・・相手の出方・力量をさぐる言葉・・用心!)

もし百丈・・【その求道者 不昧因果と正解を答えても『やはり野狐身だ』などと言おうものなら、この芝居ぶちこわしです。お前だけにそっと教える真実・・どんなことか。

近くに来いと言われた黄檗は、師の前に来て、いきなり師の頬を平手打ちした。

(ピシリと打つか・・むしろ、ここは・・ご老師よ、化かされずに目を醒ましなさいと、ポンポンと軽く頬を叩く風にした)これに百丈 手を打って大笑い。

弟子=黄檗の対応、その仕草を高く評価したのです。

そして・・『胡人(こじん)の鬚(ヒゲ)は赤い。さらに赤ひげの胡人がいる』と芝居のくくりこみをした。

つまりは大見得の見解(けんげ)をご披露したのです。この名優同士の仕草は見ほれるばかり。だるまさんの髭は赤い。さらに赤髭の達磨がいる・・。

  【本則】百丈和尚、凡(およ)そ参(さん)の次(つい)で、一老人あって常に衆に從っ   

  て法を聴く。衆人退(しり)ぞけば老人もまた退く。

  忽ち一日退かず、師遂に問う。「面前に立つ者はまた是なんぞ」

  老人云く「諾(だく=ハイ)、某甲(それがし)は非人なり。

  過去、迦葉佛(かしょうぶつ)の時においてかってこの山に住す。

  因(ちな)みに学人問う

     「大修行底(たいしゅぎょうてい)の人、因果に落つるや、また なきや」

  某甲對(こた)えて云く「因果に落ちず」と。

       五百生野狐身(ごひゃくしょうやこしん)に堕(お)つ。

  今請(こ)う、和尚代(かわ)って一轉語(いってんご)せば

       貴(たっとぶ)らくは野狐を脱せしめよ。

  遂に問う「大修行底の人、還(かえ)って因果に落つるや也(また)なきや」

  師云く「因果を昧(くら)まさず」と。老人言下に大悟し禮をなして云く。

 「某甲、すでに野狐身を脱す。山後に住在せん。あえて和尚に告(もう)す。

  乞う、亡僧(もうそう)の事例(じれい)に依(よ)られんことを」と。

  師、維那(いのう・庶務担当)をして白鎚(びゃくつい・板を叩いて)

      衆に告(つ)げしむ。食後(じきご)に亡僧を送らんと。

      大衆言議(ごんぎ)す。一衆(いっしゅ)皆安(みなやす)し、

       涅槃堂(ねはんどう)にまた人の病(や)むなし。何が故ぞかくのごとくなる。

       食後にただ師の衆を領(りょう)じて、山後の巌下(がんか)に至(いた)り

       杖をもって一死(いっし)野狐(やこ)を挑出(ちょうしゅつ)して

       即ち火葬に依(よ)るを見る。

  師、暮れにいたって上堂、前の因縁を擧す。

  黄檗すなわち問う

 「古人、錯(あや)まって一轉語を祇對(したい)して五百生野狐身に堕す。

  轉々錯(てんてんあやま)らずんば、この甚麼(なに)とか作(な)る」

  師云く「近前來(きんぜんらい・まえに来なさい)

  かれがために道(い)わん(言って聞かせよう)」

  黄檗、ついに近前して、師に一(いつ)掌(しょう)をあたう。

  師、手を打って笑って云く「将(まさ)におもえり、胡髭赤(こしゅしゃく)と。

  さらに赤髭胡(しゃくしゅこ)あることを」

無門云く、不落因果、なんとしてか野狐に堕す。

不昧因果、なんとしてか野狐を脱す。

もし者裏(しゃり)にむかって一隻眼(いっせきがん)を著得(じゃくとく)せば、すなわち前百丈をかちえて、風流五百生を知得(ちとく)せん。

 

頌(じゅ)に云く「不落不昧(ふらくふまい) 両采一賽(りょうさいいっさい)・・(二つのサイコロが、おなじ目を出す)

不昧(ふまい)不落(ふらく) 千錯萬錯(せんじゃくまんじゃく)」・・(どちらの場合も、間違い、大間違いだ)

 

無門云く どうして不落因果で野狐(やこ)に堕(だ)し、不昧因果で野狐を脱却(だっきゃく)できるのか。

得道の者なら、五百年野狐たりしことも也風流(やふうりゅう)・・(因果の世界も悪くはないぞ)

(注)これで禪の何たるかが解かった・・というのなら再び『野狐』へ逆戻りです。

 

頌に云く 禪は、大学や入社試験の口頭面接じゃあるまいし、言い訳など一切不要。誰にも教わらない、自分とは・・の大発見。大発明の「一語」が身に着いているかどうか・・身に着いておれば、二つも三つも、四つも五つものサイコロの目を、何度でも、ゾロ目にすることはたやすいことだ。

【附記】道元の語に「心身脱落・・脱落心身」とある。先の、「胡人の髭赤、赤髭の胡人」の読み取りよう・・誤解すれば、迷いに迷うことになる。

禅は学問ではない。解説は不要ですが、禅の極所にいたる道筋はいくらでも話すことができます。無門関を解説する者は、公案に透っていることを見せねばなりません。無門関、碧巌集には必ず「評」とか「頌」とかチャント載っているのに、残念ながら、現代の師家、提唱者は見解(けんげ)を披露しません。これは密室の参事・・師と弟子の二人でコッソリと・・言い訳していますが、要は未悟、透過のしていない証拠。

山本玄峰老師の無門関提唱(大法輪閣昭和35年)を読むと・・「この則は難透の公案の一つだが、自分ほど徹底した者はないと思う。この則でずいぶん骨折ったが、徹底した自信がある。何としてか野狐を脱す・・一隻眼というても片目じゃないのだぜ。右にも左にもつかんところの心眼、摩醯首羅(まけいしゅら)の一目といって、真ん中にタテに切れてひとつ・・」と、土壇場ギリギリの提唱。あとは、チョット線香臭いが。良寛の「裏を見せ表を見せて散る紅葉」それに・・戦前、禅は宗教じゃないと喝破した素玄居士(高北四郎)の提唱位しか、ズシンとくる見解(けんげ)は見当たらない。

●百丈は奇特な事として「独坐大雄峰」の一語を発した禅者だが、胡人の鬚赤にして赤ひげの胡あり・・と、自分で自分が可笑しくなって、手を打って大笑い・・したそうな。