禅のパスポート

禅語録 無門関no解釈to意訳

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無門関 【胡子無鬚】(こし むしゅ)第四則

【本則】或庵(わくあん)曰く・・

西天の胡子(こし)何に因ってか鬚(ひげ)なき

蘆葉(ろよう)の達磨(ひげむじゃらの達磨さん)・・この多毛の外人に鬚(ひげ)がない。ひげがあるのにそれを鬚なし・・という。これはどうしたことか。

 

南半球の夜空で北斗七星を探す・・そんな論理や知性から矛盾したことを『解く』のが禅であり、それを体観することを『悟り・大覚』というのなら『禅は訳の分からぬ問答をこねくり回して人を騙しているのではないか』となります。また、思考分別の範疇外(はんちゅうがい)のものを表現せよといわれて(公案にはそんな難題が沢山あります)あえて表現しようとすれば、まるで気が狂ったような言い方にならざるえません。

かえって禅は【父母未生以前(ふぼみしょういぜん) 本来面目(ほんらいのめんもく)】・・父母の生まれぬ以前の「自分とは何か」・・とか、私の座右銘とする【何似生】(カジセイ・比較コピペすべきもない自分とは】とか・・

言詮(げんせん)できない「矛盾そのもの」を、論理的思考(脳)に刺激を与えて、解決することを要求するのです。

 

『無門関』や『碧巌録』は、禅を会得して生活をするためのいわば問題集。その中身は単純明快。因果由来を無視してズバリ矛盾の問題をつきつけます。そして先達の見解(偈げ)・頌(じゅ)・評語(ひょうご)は、数行、末尾に附記されています。

禅のパスポートでは、各則の冒頭、禅は宗教ではないと喝破した、素玄居士の見解を最初のタイトルにしています。

●無門関も碧巌集にも評とか頌とか提唱する者の見解がチャント道われてある。

それを提唱に附けなければ値打がわからん。この頃の提唱には無いようじゃが、それは卑怯で、つまり未悟底なのじゃ。

この素玄曰く・・は、正札をブラ下げて店先に並べたのじゃ。たいして値打がないので恥ずかしい限りじゃが、本にした以上、これが責任じゃ。

高いか安いか、さらしものじゃ。頌としなかったのは取材や文体の自由を欲したからである。

緒言 略記。「提唱 無門関」素玄居士(高北四郎)狗子堂 昭和12年刊

 

無門曰く、参はすべからく實参(じっさん)なるべし。

     悟はすべからく實悟(じつご)なるべし。

者箇(しゃこ)の胡子(こし)、

直(じき)に須(すべか)らく親見(*しんけん)一回して始めて得(う)べし。

親見と説くも、早く両箇(りょうこ)となる。

坐禅して見性(大覚)しなさい・・の意。

*悟って見解(けんげ)を述べても、有・無の対立意見でしかないことに注意!

 

口先の観念論では透らない。

第四則は、公案のなかでも特に禅機はつらつ・・ピチピチ躍動している問いです。万巻の禅の解説本をひも解いても、この公案一則の透過、見性にかないません。まして「役立たずの独りポッチ禅」でなければ、自覚出来ないのです。

 

頌(じゅ)に曰(いわ)く 

痴人面前(ちじんめんぜん) 夢を説(と)くべからず。

胡子無髭(こしむしゅ)

惺々(せいせい)に懞(もう)を添(そ)う。

余分なことですが、鬚の有る・無しに拘泥(こうでい)したり、南半球の夜空に、北斗七星を探すなどの言葉に釣り上げられてはなりません。

どの公案でも、その公案の事象について回る答えであれば正解ではありません。

*蘆葉(ろよう)の達磨・・インドから蘆の葉で作った粗末な船で中国に海路をやってきた達磨さん・・の意。

*惺々(せいせい)に懞(もう)を添(そ)う・・「懞」とはカスということ。、清水に汚れた泥を加えること・・この公案、本当に言うべきことも無く、説くべきこともない。真の惺々諾(せいせいだく)とせず、いかにも禅を修行したとか、坐禅を修行したとかいう者がいる。(山本玄峰著 無門関提唱 大法輪閣発行)

禅は、三分間の独りイス禅(ポッチ禅)から始めるにしても、無門曰く【實参・實悟なるべし】と・・玄峰老師や無門老師の言葉・・忠告しておきます。

 

「禅」の頂上が見えてきたら、地図・解説など眺めている閑も必要もありません。ヒタスラ登るだけ。おせっかいな道筋案内、地図は、かえって迷いがでて邪魔です。捨てねばなりません。

つまり独りポッチ禅は、寝る禅、トイレ禅、寝起き禅、食前・食後禅、休憩禅、仕事禅、入浴禅など、やれる範囲で寝ても覚めても、おりおりに行(おこな)ってください。スマホで遊ぶのと違い、たったの三分間・・ですが、はじめは三十分位の長い時間に思えます。たかが三分・・されど三分、独りポッチ禅です。

会(有)難うございました。折あれば「はてなブログ 禅者の一語」ご覧ください。