禅のパスポート

禅語録 無門関no解釈to意訳

無門関 【香厳上樹】(きょうげんじょうじゅ)第五則

★既に樹に上りたる時は「牟ムウウ、牟ムウウ」是れ口を開かずして西来意を語っている處じゃ。

★いまだ樹に上らざる時は「ワン、ワン、ワン」是れ早く口を開いて腸を見せるのじゃ。

(提唱・頌/素玄居士)

 

無門関 講話・意訳

【香厳上樹】 (きょうげんじょうじゅ)第五則

坐禅したから、悟れるものでもないし、禅寺の専門道場に、木像仏よろしく鎮座したからといって、何の取柄もない人に仕上がるだけだ。坐禅するのが禅ではない。坐禅をしよう・・と思う・・そのことが、どこともなく湧いてくる。

大事は、この点につきる。

この香厳は、潙山に参禅して18年、侍者の香厳を指導したが、禅機、熟さず、武當に庵居していた。ある日、庭掃除のとき、石コロが、かたわらの竹に当たって「カチン!」と音を立てた。そのトタン・・禅とは何か、達磨が、はるばるインドから、中国に何を伝えにやってきたのか(祖師 西来意)・・言葉にも文字にも出来ない禅の大意を、自覚というより、生きる彼、全体で、突然、認識させられた・・イヤ・・認識したのである。これは体覚した・・というほうが素直でよい。

この公案は、例えるなら・・禅の大意を、手足を縛られ、口に木の枝を銜(くわ)えさせられて吊るされる中、樹下には飢えた虎がいる・・絶対絶命の状況で・・自分なりに覚悟した意見を表現してみせよ・・との、口八丁、手八丁の禅者モドキを篩(ふるい)にかける問題だ。

*篩とは何ですか?そんな拷問のようなキワドイ話はごめんです・・という輩は相手にしていない。命がけで、自己とは何か・・安心とは何か・・禅とは何かを追及したい・・坐禅をしたい・・と思う心に問いかける者を対象にした千年前の(現代も変わらない)禅者の一語なのである。

 

この則の後ろに、次のような附則がついている。

上座あり。出でて問うて曰く「人の樹上に上る時は問わず。未だ樹に上らざるとき如何?」師、笑うのみ。

この附則、蛇足です。樹上に縛られていようと、下に猛虎、大ワニがおろうと、落ちて大ケガをしようと、また、禅とは「こんなものです」と表現すること自体、大間違い。表せば・・喪身失命(そうしんしつみょう)となる。

樹上にあろうと樹下にいようと、禅者は不昧因果(ふまいいんが)。青空のような清々しい露裸裸(ろらら)な生活であれば充分だ。それが判らなければ、手に入れるべく、工夫粘弄(くふうねんろう)するのが一番です。

 

つまり、香厳の問いに、うっかり答えてはなりません。3分間独りボッチ禅は、まず、この問いかけに、どうにもならず、目だけがギョロギョロ・・鬼の目になって坐り込むところから、ホントの坐禅が始まります。

樹下にあつては如何?・・の問に、香厳、おかしくなって笑った・・とありますが、徳山、臨済なら三十棒、雷喝一声、天地驚く・・手立てでしょう。

 

禅を、まるで お寺の木像仏のような、悟りすましたイメージで理解してはなりません。禅は、宗教ではありません。自我意識を捨て果てて、その捨て果てた心境も捨て去って、ただ独り、自知される・・のが禅です。

 

素玄居士の頌(じゅ)と意訳で、頭でっかちの禅モドキは吹き飛んだと思います。

以下、原文和訳しました。さらに屋上屋を重ねる意訳はしません。

【本則】香厳和尚云く

人の樹(じゅ)に上るが如し。

口に樹枝を啣(ふく)み、手に枝を攀(よ)じず、脚(あし)樹を踏まず、

樹下(じゅげ)に人あって西来意(せいらいい)を問わば、對(こた)えずんば即ち他の所問(しょもん)に違(そむ)く、若(も)し對えなば、また、喪身失命(そうしんしつみょう)せん。まさに恁麼(いんも)の時、作麼生(そもさん)か對えん。

無門曰く

たとい懸河(けんが)の辯(べん)あるも、惣(そう)に用不着(ようふじゃく)。一大蔵経(ぞうきょう)を説(と)きうるも、また用不着。もし者裏(しゃり)に向かって對得着(たいとくじゃく)せば、従前の死路頭(しろとう)を活却(かっきゃく)し、従前の活路頭(かつろとう)を死却(しきゃく)せん。それ或いは、未だ然(しか)らずんば、直(じき)に到来(とうらい)をまって、彌勒(みろく)に問え。

頌(じゅ)に曰く

香厳 真に杜撰(ずさん)なり。悪毒盡眼(あくどくじんげん)なし。衲僧(のうそう)の口を唖却(あきゃく)して、通身に鬼眼(きがん)を迸(ほとばし)らす。