禅のパスポート

禅語録 無門関no解釈to意訳

禅のパスポート 無門関NO6 

★春過ぎて夏きにけらし白妙の衣ほすてふ天のかぐ山★ 古歌(素玄居士 頌)

 釈尊が、求道者との話の場で、仏教=覚者(悟りたる者)の教え・・の素(宗)になる「禅」を、一輪の花を拈じて披露したが、誰も、その手品の種が解明できなかった。ただ、この内の独り・・迦葉だけが見抜いて笑ったそうだが、迦葉がいなかったら、釈尊は、そんな手品はしていない。

「禅」は仏教の素ではあるが「仏教」ではない。

この公案でも、教外別伝(仏陀の教え以外の別の傳えること)とはいっているが、付嘱(ふしょく)す・・と、迦葉一人に、預け頼んでいる。

文字表現、口伝できない「禅」を、この二千五百年間・・達磨は中国に・・中国から、日本に・・まるでオリンピックの象徴・・太陽のトーチのように、1箇半箇の大覚、見性の寺僧が伝灯してきた。(けれども、寺僧の集団、印可教導の仕組み、デジタル(バーチャル)社会に適応性を失って、禅宗の形骸は駆逐されつつある・・このことは、提唱無門関  素玄居士(昭和12年発行)の著作で、明らかにされている)

 また、このことは、第9則 大通智勝や 碧巌録 第67則 傅大士講経(ふたいしこうきょう)などで随時、講話意訳に含めて書きます。

いずれにしても、この第6則で釈尊は拈花に「禅」の端的を示し、迦葉はこの端的を領得したのです。迦葉の笑いは、釈尊以前から「禅」は存在していること・・宇宙時代の今日も「禅」は、露裸々に満ちている・・おのずから笑うこと一声、天地驚く(臨済の一語)として以下、意訳します。

 

無門関 【世尊 拈花】(せそんねんげ) 第六則

釈尊が霊山で求道の人を集めて説法されていた。

そのおり、蓮華の花を手にしてクルクルとまわさられた・・のだが、参加した人々は、何事が起ったのか理解できず、キョトンと見守るばかりだった。ただ傍らの迦葉尊者だけが、顔をほころばせニッコリ笑われたのである。

釈尊は「吾に・・根本の道、安心の妙境、如去如来、微妙の法門。筆舌できず、今までの(仏陀の)教えとは別にして伝えるべきこと(禅)・・を、大迦葉尊者に付嘱(預け頼みました)よ」といわれた。

【本則】世尊(せそん)、昔 霊山會上(りょうせんえじょう)にあって、

花を拈(ねん)じて衆(しゅ)に示す。

この時、衆みな黙然(もくねん)たり。

ただ迦葉尊者(かしょうそんじゃ)のみ破顔微笑(はがんみしょう)す。

世尊云く、吾に正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)、

涅槃妙心(ねはんみょうしん)、實相無相(じっそうむそう)、

微妙(みみょう)の法門あり。

不立文字(ふりゅうもんじ)、教外別伝(べきょうげべつでん)、

摩訶迦葉(まかかしょう)に付嘱(ふぞく)す。

 

無門云く・・この破れ黄衣の瞿曇よ(ぐーどん=釈尊のこと)独り、言い放題に言いますね。

良いも悪いもなしとばかり、安心の正道、禅の妙法を仰々しく、宣伝文句を並べて売りたてますな。まるで羊といって犬肉を売るのと変わらないアクドイ商売に見えますぞ(マア、ホンの少しだが、関わり合いもあるが・・)

村の賑やかに人の集う市場で、笑ったとか、笑うべしとか、正法伝授するとか、求道者を説得する便法を、正直商売の値札にしてはなりません。 「禅」を・・独り、迦葉さんに預け頼んだだけのことだから・・。

無門云く 黄面(おうめん)の瞿曇(くどん)、傍らに人なきがごとし。

良を厭(いと)うて賤(せん)となし、

羊頭(ようとう)を懸(か)けて狗肉(くにく)を売る。

まさにおもえり、多少の奇特と。

ただそのかみ、大衆のすべて笑うがごとがごときんば、

正法眼蔵また作麼生(そもさん)か傳えん。

もし、迦葉をして笑わざらしめば、正法眼蔵また作麼生か傳えん。 

もし正法眼蔵に伝授ありといわば、

黄面(おうめん)の老子(ろうし) 閭閻(りょえん)を誑謼(こうこ)す。

もし伝授なしといわば、なんとしてか独り迦葉を許す。

 

頌に曰く 花をクルクルまわして見せた釈尊の手品・・タネ丸見え・・化けそこなった狐のしっぽが見えるようだ。迦葉は、手品の種(禅の大意)を見抜いて笑った。誰もがポカンとしていたが・・サテ・・あんたに見抜けたかな?

頌(じゅ)に曰く 花を拈起(ねんき)し来れば、

尾巴(びは)すでに露(あら)わる。

迦葉の破顔 人天措(お)くこと罔(な)し。

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