禅のパスポート

禅語録 無門関no解釈to意訳

般若心経と禅(行者への教え)について・・

武田邦彦先生のアコースティック哲学「オスとメス」≒「般若心経」

武田 邦彦先生のブログ「アコースティック哲学・・オスとメス」を拝見した。http://takedanet.com/

人間の寿命とは、約12憶年前、生物が「雌雄」同体から別体に分かれて、進化する集団生活の過程で遺伝子として設定されたもの。約15万年前、ネアンデルタール人の頃から、家族の死や別離の悲しみなど、集団生活の中で寿命=死者の概念が誕生した(雌雄同体は自分のコピペばかり。次世代も自分を継続するので多様化できず、また生死や宗教問題はない)

・・ナルホド・・優れた物理学者の手にかかると、大乗(慈悲)仏教の発生した由来や、キリストの愛についてなど、説明を受けずとも・・独り合点がゆくことが多いので驚きます。

私は、ZENは宗教ではないし、坐禅による「悟り」は、脳(神経回路)の新ルート創造の結果であろう・・と推測しています・・ので、坐禅は、酒を造るような・・長い年月の思考・感性の醸成、発酵期間が必要だ・・と思っています。

そして、坐禅の結果、突然、思考の断絶が訪れて発生する、発明・発見の悟り=見性は、まるで、物理学の「量子」のような働きと振る舞いが脳内であるようです(量子論など、よく知らないのにしゃべっています)

もっと、科学者(物理・量子論などの学者も含めて)による脳(量子AI)の研究が進んでほしい・・と願います。

さて、ZENには「般若心経」が昔から引っ付いていますが、私のいう・・役立たずの「独りポッチ禅」では、この般若心経の読経や写経、坐禅での思惑、造作すること・・一切が要らないのです。

ZENを「自分の生活(日常の行い)とする時」・・確かに、禅の「神髄」に般若心経がある・・のですが、それを確信しながら、般若の門(玄関)を入ったと自覚した瞬間、もう、戸口(玄関)の外に立っているのです。心経の中に、永続して留まれません。このことは2行目・・「般若波羅蜜多(ZEN)を、深く行(おこなう=ぎょう)ずる時」・・と、坐禅の前提条件として銘記されているのに、今まで誰も深く指摘しませんでした。

つまり、禅を深く実行できない・・初心の求道者には、次の行・・一切の苦しみと厄災から度される・・(救われる)ことはない・・のです。

併せて附記しておきますが、臨済の「喝」や徳山の「棒」は、般若(ZEN)の働き=瞬間の禅機を捉えた表示(表情)ですから、絶対に恐喝・暴力的行為ではありません。

般若(ZEN)が見せる、雷光・雷嚇(イナビカリと雷鳴)一声のような、思いがけない・・天地自然の表情なのです。*表情は表現と違い、造作のない、自然な心の働きをいいます。

これを悟りもしない寺僧・師家が葬式や僧堂で、荘厳な袈裟を纏ってシタリ顔でやるものですから、さぞかし臨済もあきれていることでしょう。

ですから・・以下、この般若心経は、達道の禅(行)者への・・悟りの完成・・についての教えである・・と思います。

くどいですが、写経や禅寺拝観の手間があれば、坐禅でもしたい・・の心を大事に、どうぞ役立たずな「独りポッチ」3分間イス禅を推奨いたします。

 

摩訶般若波羅蜜多心経 (まかはんにゃはらみった しんぎょう)

(大いなる智慧の完成=禅による正覚の教え)悟りの完成の教え

 

観自在(かんじざい)菩薩(ぼさつ)    禅者よ

行(ぎょう)深(じん)般若(はんにゃ)波(は)羅(ら)蜜(みつ)多時(たじ)  

                      禅による生活を深く行う時

照見五薀(しょうけんごうん)皆(かい)空(くう)  形あるもの、すべて空無なりと照らし看るので

度(ど)一切(いっさい)苦(く)厄(やく)      一切の苦しみと不安から解放される

舎(しゃ)利子(りし)          禅者よ

色(しき)不異(ふい)空(くう)         「在る」は空(無)にことならず

空(くう)不異色(ふいしき)           空(無)は自在にことならない

色即是空(しきそくぜくう)    すなわち「ある」は、そのままに「ない」のであり

空即是色(くうそくぜしき)    空(無)は そのままに自在である

受想(じゅそう)行(ぎょう)識(しき)亦復如(やくぶにょ)是(ぜ) 

                人の感覚や思いや知識も またこのとおりだ 

舎(しゃ)利子(りし)        禅者よ

是(ぜ)諸法(しょほう)空相(くうそう)     すべてが「ない」のだから

不生(ふしょう)不滅(ふめつ)         生じてもいないし 亡びてもいない

不垢(ふく)不浄(ふじょう)          汚れてもいないし 浄(き)よくも無い

不増不減(ふぞうふげん)           増えてもいなければ 減ってもいない

是(ぜ)故空中(こくうちゅう)無色(むしき)    だから「無」の中に「ある」はなく

無受想(むじゅそう)行(ぎょう)識(しき)     思いや行いや知識も「無い」

無眼(むげん)耳鼻(にび)舌(ぜつ)身(しん)意(に)  眼や耳など五体や思いも無く

無色声香味蝕法(むしきしょうこうみしょくほう) 五感や執着する欲望も無い

無眼界(むげんかい)乃至(ないし)無意識界(むいしきかい) 

                   目に映る意識 無意識、本能のすべて無く

無無明(むむみょう)亦(やく)無無明尽(むむみょうじん)             

                   原因と結果や苦悩の報いなど すべて無い 

乃至(ないし)無老死(むろうし)      さらに老いて死ぬことも無いし

亦無老死尽(やくむろうしじん)      また老いて死なないということも無い 

無苦集滅(むくじゅうめつ)道(どう)     死苦八苦する、輪廻の業や愛執も無い

無智(むち)亦(やく)無得(むとく)      智も無く また得るもの無く

以(い)無所得(むしょとく)故(こ)      その得るところ無きゆえをもって

菩提薩埵依(ぼだいさったえ)般若波(はんにゃは)羅(ら)蜜(み)多(た)故(こ)    

                    「禅」による・・悟りを体得するから・・

心無罣礙(しんむけいげ)無罣礙(むけいげこ)故(こ)  

                     心にこだわりがなく 疑いなきゆえに                   

無有(むう)恐怖(くふ)            恐れおののくことが無いし

遠離(おんり)一切(いっさい)顛倒(てんどう)夢想(むそう) 

                     一切の妄想と執着がなく離れ消えて

究竟(くきょう)涅槃(ねはん)         ついには安心、自在となる

三世(さんぜ)諸仏(しょぶつ)         過去現在未来、時間なき禅者は

依(え)般若波(はんにゃは)羅(ら)蜜(み)多故(たこ)  

              禅(さとり)の行(かんせい)・・禅による生活のゆえに              

得阿耨多羅(とくあのくたら)三藐三(さんみゃくさん)菩提(ぼだい)  

               ピチピチと躍動するいのち・・そのものとなる

故知(こち)般若波(はんにゃは)羅(ら)蜜(み)多(た)  禅(行)による生活を知るゆえに         

是(ぜ)大神(だいしん)呪(じゅ) 是(ぜ)大明(だいみょう)呪(じゅ)  

                       この霊妙で光り輝く真言をのべ 

是(ぜ)無上(むじょう)呪(じゅ) 是(ぜ)無(む)等(とう)等(とう)呪(しゅ)      

                       比較できない心の不思議をのべ 

能除(のうじょ)一切(いっさい)苦(く)       よく一切の苦しみを除き、

真実(しんじつ)不虚(ふこ)            真実にして虚なしからざる 

故説(こせつ)般若波(はんにゃは)羅(ら)蜜(み)多呪(たしゅ)  

                   ゆえに 禅(行)による生活の真言を説く

即説呪曰(そくせつしゅわつ)       すなわち呪(マントラ)に説いていわく

羯諦羯諦(ぎゃていぎゃてい)     来たぞ 着いたぞ

波羅羯諦(はらぎゃてい)       まったき青空のただ中についた

波羅僧羯諦(はらそうぎゃてい)    よくぞまあ すがすがしいこと

菩提娑婆訶(ぼじそわか)       さあ禅者よ 自然(ありのまま)なり

般若心経(はんにゃしんぎょう)                         

【咄=トッ!・・意訳の終わりに・・すべてを吹き飛ばす掛け声をかけておきます】