禅のパスポート

禅語録 無門関no解釈to意訳

禅のパスポート 無門関NO18  

   無門関 洞山三斤(とうざん さんぎん)第十八則

     【本則】洞山和尚 因みに僧 問う、

              如何なるか是れ佛、山云く 麻三斤。

【本則】語録の問答でいう「佛」とか、「一真実」とか・・これを「ZEN」と置き換えるのが宗教でない「禅」の現代版です。

それでは「禅」とは・・何ですか?

「麻(ま)三斤」・・無門関では、雲門の乾屎橛(かんしけつ/クソカキベら 第26則)、俱胝竪指(ぐていじゅし 第3則)碧巌録に雲門餬餅(うんもんこびょう 第77則)禾山解打皷(かざんかいだく 第44則)など、意中の対象を払拭し、心を超越した一語・・無中に湧き出る、文字言語の及ぶところではない境地の公案、問答があるが・・これこそ、雑念を入れ込む余地がない・・いわゆる、憑(と)りつくスベがない禅者の一語だ・・一番シックリとしている・・と、素玄居士は褒め称えられた。

それに続けて・・こう書くと、読者は自己催眠的境地を演出して、解かったような気持ちになろうとする。それが口にも出る。それが口頭禅だ。三文の値打ちもない。そのくせ到りえ還り来れば別事なし・・とぬかす。云うなかれ。了悟はなお未悟のごとし・・と。偽禅横行し、この増長漫をなさしむ・・と言葉荒く切って捨てられた(そして念々、不退転に工夫すべしじゃ・・と、公案透化の心境を語られている)

俺がある夜、寝る時に、この麻三斤がガラリと透った。なるほど、肩の荷を下ろしたような気持であったが、別に也太奇(やたいき・またハナハダ奇なり)もなければ、汗も流れず大歓喜もなかった。白隠の口頭禅とは大分違っていた。

 

しかし、目の前がズウッ・・と広くなって雑物の遮(さえぎ)ることなしの気持がした。これは公案が消えていったのじゃ。

素玄曰く 麻三斤(ま さんきん)、秤量(しょうりょう)しおわって他に渡し、無價(むか)の黄葉を受けて無底の財布に納む。

     *黄葉・・児童のママゴト遊びのお金=黄色の葉っぱのこと。

この本則の解説は、ほぼ素玄居士(高北四郎先生)提唱の全文です。こんな正直な語録の提唱や頌は、私の積年の経験で初めてであり、禅について目からウロコのありさまでした。則ごとの素玄曰くは、見性の記録として貴重な一語です。

提唱 無門関=昭和12年8月、狗子堂 発行 定価1円80銭の小冊子です。戦前「禅は宗教ではない」と喝破されたのは、おそらく素玄居士ただ一人。師は、当時の禅関係者にとって、さぞかし煙たがられた禅者でしたろう。師弟密室の悟証確認を否定して、1則ごとの頌(見性・意見)を提唱されています。おそらく戦争中は、35才~小学生低学年の子供さんがおられたようで、文中に登場。召集されてか、空襲下で消息が途絶えたのでないか・・と推測しています。(奥付/東京市王子区上十條1578番地/古本ただ是れ1冊と思い大事にしています)ラジオでがなり立てる放送(電波)ですら、すこし、いい加減にしてもらいたい・・と意見されています。スマホにのめりこみ、依存症になるAI・バーチャルの現代、もし生きておられたら、どのようにZENを語られたであろうか。

【無門曰く】洞山老人、いささかハマグリの口を開けたような禅・・麻三斤・・腹の中をさらけ出したが、求道者よ・・その肚(ハラ)をシッカリと見届けたかな?

  【無門曰く】洞山老人 些(さ)の蚌蛤(ぽうごう)の禅に参得(さんとく)して、

   わずかに両片(りょうへん)を開いて肝腸(かんちょう)を露出(ろしゅつ)す。

   しかも、かくの如くなりといえども甚(いずれ)の處に向かってか洞山を見ん。

 

【頌に曰く】禅者の一語・・中でも飛び抜けてこれが一番だ。

言葉は手短じかだし、その意の親切なこと・・きわまりない。

もし、ホンの少しでも、是非を分別したら、もう禅はないぞ。

  【頌に曰く】突出す 麻三斤 言(こと)親(した)しく 意さらに親(した)し。

   来(きた)って是非(ぜひ)を説(と)く者は、すなわち是(こ)れ是非の人。