禅のパスポート

禅語録 無門関no解釈to意訳

禅のパスポート  無門関 NO37 

禅のパスポート 無門関NO37 7/19 追補記 

 

無門関 庭前柏樹(ていぜん はくじゅ)第三十七則

 

【本則】趙州 ちなみに僧問う

      如何なるか是れ 祖師西来の意

      州云く 庭前の柏樹子(はくじゅし)

 

【本則】素玄居士提唱  (趙州は・・禅院の)庭の柏の樹・・これが「禅」じゃというのだが、「麻三斤」にくらべてハナハダ見劣りがする。

趙州門下の覚鐵觜(かくてつし)が、先師にこの語なし。先師を謗(ぼう・・あざむく)するなくんばよし、と云っているが、それが本当であろう。

趙州ともあろう者が、こんな下手くそなことを云うはずがない。乾屎橛(かんしけつ・・くそカキベラ)などの方がはるかによい。

本則に賊機ありと云うが、それは胡魔化しがあるというのでなくて、学人を錯(あやま)り、未徹底なとこがあるのじゃ。

(この事は書かれぬ)

これは各人修行して自得しなくては禅に力が出て来ぬ。

無門が本則を加えたのはチトおかしいテ。

素玄云く 柏樹 古家に榜(そばた)つ。

 

【無門曰く】もし趙州の答所に向かって 見得して親切ならば

      前に釈迦なく 後ろに彌勒(みろく)なけん。

【無門曰く】(素玄 註)

本則が透ったら違った見当へ行く。迷禅じゃ。

釈迦も彌勒も遁(に)げて行く。

本則の賊機がわかれば釈迦彌勒。

 

【頌に曰く】言、事を展(の)ぶることなく、語、機に投(とう)ぜず、

       言(こと)を承(う)くる者は喪(そう)し、

                          句に滞(とどこお)る者は迷う。

 

【頌に曰く】禅には説明はない。

禅には相手に調子を合わせることもない。

説明についてまわると、禅を失う。

言葉にヒッカカルト迷うだけだ。

 

【附記】7/19 追補記

どうして・・菩提達磨が何年もかけて海路、中国までやってきたのか・・祖師西来意は、坐禅のはじめの覚悟です。天上天下唯我独尊(独りポッチ)になれば、何とでもいえる舌先と口先(言葉)に迷うことはない。

坐禅は修行することではありません・・努力し苦心し、修行すれば、悟りの境地にたどり着く・・そんな想いが、この公案「庭先の柏の木」にあります。

釈尊は、菩提樹下、明星(明け方の金星の輝き)をご覧になって、突然、大覚(悟り)されましたが、それ以前の(6年におよぶ)断食、難行苦行(修行)は、何の役にも立ちませんでした。

何度も書きますが、禅は、宗教(欣求、祈り、信心、修行、自己犠牲など)ではありませんし、頭脳による論理的、科学的、分析・比較的、哲学的な検証作用でもありません。

(この点が、昔から、対象を比較分類して哲学、思考、行動する欧米人/現代日本人=0・1計算のPC型、バーチャル中毒系の人に、悟りの体験がありえない事由です)

あえて言うなら、ZENを世界に紹介した仏教学者(禅者)故・鈴木大拙博士がいう・・神が光あれと言われる以前・・の自分(おのずと分けるもの)とは何か・・ということです。

素玄居士の言われるように、手取り足取りで解説しても、坐禅する・・その人の力にはなりません。修行とか、悟りとか、何か祈るとかしないで、どうぞ、なんの役にも立たない(価値/無価値 損/得 有/無 功徳/無功徳・・ゴリヤクなし)独りポッチ(3分間)坐禅をなされることをお奨めします。