禅のパスポート

禅語録 無門関no解釈to意訳

禅のパスポート NO4「ダルマさん、お顔の髭がありませんネ?」

禅のパスポートでは、各則の冒頭、禅は宗教ではないと喝破した、素玄居士の提唱・見解を復刻、解説しています。

          無門関 第四則 胡子無鬚(こし むしゅ)

     【本則】或庵(わくあん)曰く・・西天の胡子(こし)何に因ってか鬚(ひげ)なき

【本則】素玄提唱 西方の外国人、仮に和蘭(オランダ)人としておく、この多毛の外人に髭(ひげ)がない。髭があるのに それを髭なしとは是れ如何に。

本則は剩物(あまりもの)をつけずして禅機溌剌(はつらつ)じゃ。余計なものは少しもなく、しかも明瞭々(めいりょうりょう)に禅機を示している。公案の内でも これは秀逸の方じゃ。これがフフンと云うように肚(はら)の中から解から様にならなければ本物じゃない。理屈も何もつけ様がない、理智不到(ふとう)とは このことじゃ。或庵はどんな男か、または坊主か、胡子に道で逢うたのか どこで逢ったのか、すこしもわからぬがそんな剰文贅句(じょうぶんぜいく)は不用じゃ。形容も装飾も説明も不用じゃ。

禅は元来 端的(たんてき)で餘物なしである。臨済云く、我れ一箇の膠盆子(きょうぼんす・ニカワのお盆)を抛出(ほうしゅつ・投げ出す)して学人に與(あた)うと云うたが、膠ぬりの盆を何と始末したらよいか 眺めても噛(か)んでも何んともしようがない。これが学人説得の常手段(じょうしゅだん・いつもの方法)なのじゃ。

南天棒(なんてんぼう)は、えらい勢いで この則の解かるのは 支那(しな・中国)では雪賓(せっちょう)か虚堂(きょどう)か、日本では大應大燈關山(応燈関)白隠と俺ぐらいの者かと大口を叩いて、無門も駄目じゃと吐(ぬ)かし、いろいろ勿体(もったい)つけて何を云うかと思ったら「法身無相」だと。

昔から手前みそに碌なのはないと云うが なるほど、こんな薄っぺらなところに腰かけていたとは、笑止(しょうし)笑止じゃ。

法身無相は禅者でなくとも誰でもわかっている。

往来の真ん中で和蘭人に相見して「オヤ奇体ですね、貴方のお顔に髭がない。貴方は片輪ですか」というような具合でいかんと本物じゃない。口の先でペラペラと見れども見えずだとか云っても、そんな誤魔化しは 自らを詐(いつわ)り、他を欺(あざむ)くだけの事じゃ。髭は盲目でなければ見える道理じゃ。

それならどこに髭がないのかナ。

禅語に南に向かって北斗を見ると云うことがある。

本則はそれとも少し違う。こう書くと半分ぐらい解かったような気になるか知らんが 学校の試験と違う。九十点以上は優なぞと云うことなない。禅は満点か零点の二つじゃ。悟か未悟じゃ。

素玄曰く・・湯 沸(わきた)って 茶を淹(い)るるによし

   【無門曰く】参はすべからく實参(じっさん)なるべし。

    悟はすべからく實悟(じつご)なるべし。

    者箇(しゃこ)の胡子(こし)、

    直(じき)に須(すべか)らく親見(しんけん)一回して始めて得(う)べし。

    親見と説くも、早く両箇(りょうこ)となる。

素玄・註實参云々・・口の先や頭の中では駄目じゃ。

肚の底の本物を掴め。

胡子も空想でなしに 直に面と面を突き合わさなくちゃいかん。

つき合わすと云うと もう対立の、脳裏の胡子と自我とになる。

それでは無髭は得られない。

貴方は髭のない胡子、オヤ お前が俺であったのか・・と、

お前やら自分やらと云うことにならなければ本物でない。

   *坐禅して 自ら見性(大覚)しなさい・・の意。

    悟って見解(けんげ)を述べても、

    有・無の対立意見でしかないことに注意!

【頌に曰く】

 痴人面前(ちじんめんぜん) 夢を説(と)くべからず。

 胡子無髭(こしむしゅ) 惺々(せいせい)に懞(もう)を添(そ)う。

【素玄・註】

胡子無髭などと云うと、ちょうど痴人に夢を説くようなもんじゃ。本気で聞く奴はおらん。だからこんな馬鹿げたことを云うもんじゃない。

常人の常識を曇らす様なもんで 聞く人がボンヤリするばかりだとの意。本則の如きは 禅に徹したる者同士でなければ、喋ってはいけないの義。

前の評と照應し實参實悟にあらざれば、了得することなしの意味を含む。 

  *惺々(せいせい)に懞(もう)を添(そ)う・・「懞」とはカスということ。 

   清水に汚れた泥を加えること・・この公案本当に言うべきことも無く、

   説くべきこともない。

   真の惺々諾(せいせいだく)とせず、

   いかにも禅を修行したとか坐禅修行したとかいう者がいる。           

   (山本玄峰著 無門関提唱 大法輪閣発行より抜粋)

素玄居士 緒言に云く・・無門関も碧巌集にも評とか頌とか提唱する者の見解がチャント道われてある。それを提唱に附けなければ値打がわからん。この頃の提唱(禅寺、道場の師家)には無いようじゃが、それは卑怯で、つまり未悟底なのじゃ。

この素玄曰く・・は、正札をブラ下げて店先に並べたのじゃ。たいして値打がないので恥ずかしい限りじゃが、本にした以上、これが責任じゃ。高いか安いか、さらしものじゃ。頌としなかったのは取材や文体の自由を欲したからである。 

 緒言 略記。「提唱 無門関」素玄居士(高北四郎)狗子堂 昭和12年

【附記】南天棒(なんてんぼう)鄧州(とうしゅう)1839~1925 徳山宣鑑の三十棒よろしく、南天の棒をもって、全国の禅・専門道場を行脚、僧堂師家と商量問答した豪僧。山岡鉄舟乃木希典などの居士を教導したことで有名。

●余分なことですが「禅」の頂上が見えてきたら、地図・解説など眺めている閑も必要もありません。坐禅一筋・・ヒタスラ登るだけ。

おせっかいな道筋案内、地図は、かえって迷いがでて邪魔です。悟りとは・・?とか、こびり付いた禅(臭、イメージ)を捨てねばなりません。

つまり・・役立たず(無功徳)の「独りポッチ禅」に徹してください。寝る禅、トイレ禅、寝起き禅、食前・食後禅、休憩禅、仕事禅、入浴禅など、やれる範囲で寝ても覚めても、おりおりに行(おこな)ってください。

スマホで遊ぶのと違い、たったの三分間・・ですが、はじめは、いろんな想いが湧いてきて、三十分位の長い時間に思えます。

「カタツムリ・・のぼらばのぼれ 富士の山」〈山岡鉄舟ですかネ?〉

このたかが三分・・されど三分、独りポッチ・イス禅です。