無門関 第九則 大通智勝 (だいつうちしょう)
【本則】素玄提唱 大通智勝佛と云うのは 文殊とか迦葉とかの固有名詞でなく禅境(地)を形容したものらしい。臨済録には大通は萬有に即することなき禅者。智勝は無礙(むげ)自在、佛は虚明の意味に書いてある。臨済録の解釈は別として 本則はすこぶる禅の極所を説いてある。禅者が永劫 佛道場に坐し修佛するも、仏法を把握することなく、仏道を成就することなきは如何と問うたのに対し、譲はナルホドもっともなことじゃとNO答えた。それで僧は こんな不得要領な答えではサッパリ解からぬので、更に問うて、すでに修佛道場に奉仕していながら、どうして仏道を成就することが出来ないのじゃと。譲答えて、彼が成仏せざるが為なりと。原文は譲曰為伊不成佛とある。佛を成さざるが為とも読める。どちらにしても禅者と佛とは無関係で 佛となることも出来なければ、佛となることをしないのでもある。禅者は寺院にいても 仏法が念頭に現前することもなく、仏道を領得することもなく、佛と何らの因縁も結ばれない。これは佛に限らぬ。何事にも因縁を結ぶことはないのじゃ。寺院でも在家でも環境や生業(なりわい)は種々雑多であるが、それは禅者の禅境に何の関係をもなさぬ。だから譲も もっともじゃと云うたのである。そして重ねて禅者は佛になるもならぬもないことを述べたのである。禅と仏法が無関係なことは すでに世尊拈花で詳述した。本則はさらにこの事を明にしているのである。而(しか)して、祖佛と別ならずと云うことは 不成佛と云うことと同じなのじゃ。佛を禅としても 禅は自悟で(あり)無一物で(あり)成不成のことではない。
大通智勝佛が未悟底の漢であっても 本則は成立する。未悟底が修佛供養に何年かかっても 了悟することはできない。(この仏法仏道を禅と同義とする)。禅悟は自得するものであって他から貰うものでない。自己が了悟しなければ いつまでたっても禅を得ることなし・・という意味になる。
いずれにせよ 禅は即することなく、また他から與(あた)えられるものでない。而して その禅とは如何(いかん)。
【本則】興陽(こうよう)の譲(じょう)和尚 因みに僧問う、
大通智勝佛(だいつうちしょうぶつ)十劫(じつごう)、
道場に坐し仏法現前せず。
仏道を成ずることを得ざるの時 如何。
譲曰く、その問い、はなはだ諦當(ていとう)なり。
僧曰く、すでに是れ道場に坐す。何としてか仏道を成じ得ざる。
譲曰く、伊(かれ)が成仏せざる(なさざる)が為なり。
◆【素玄曰く】楽しみは夕顔棚の下涼み 男はてゝら、
女は二布して・・古歌
【無門曰く】只 老胡(ろうこ)の知を許して 老胡の會(え)を許さず、
凡夫 もし知らば是れ聖人(しょうにん)。聖人もし會せば 即ち是れ凡夫。
【素玄 註】老胡(老外人。釈迦達磨を指すことあり、また老達人にの意にモチウルこともある)。
知を許す云々(理智をもって解するは汝に許す。軽忽(けいこつ)の悟を許さず。凡夫もし知らば これ理智の人。理智の人 もし この問いのこと了悟せば 凡夫に同じ去らん)。
禅だとか佛だとか・・なにをうるさい やぶ蚊かな。団扇バタバタ、オイ蚊やりを焚いておくれ。女房ハイハイ、
【無門曰く】釈迦や達磨、達道の禅者たち・・どいつも理知に解するは放任するが、禅(悟り)を得た・・というのは許さないぞ。
【頌に曰く】身を了(りょう)ぜんより
何ぞ心を了じて休(きゅう)せんにはしかじ。
心を了得すれば身愁(うれ)えず。
もしまた身心ともに了了(りょうりょう)ならば、
神仙 何ぞ 必ずしも更に候(こう)に封(ほう)ぜられん。
【素玄 註】了身云々(物質的なことに不足のないよりも、心に不足なく、心を労するなきにしかじ。禅を了するの意)。
了得云々(禅を了得すれば・・(心を禅の意、とす)肉体上に不安がない。この境地に立っては神仙に同じ。神仙は 必ずしも大名にすることも要らぬこと)。
この頌、なお盡(つく)さざるに似たり。
【頌に曰く】身の程のアレコレより、心を労すること、ないのが一番。
禅を領得すれば神仙に同じ。わざわざ大名に仕立てる手間はいらない。
【附記】ある時、興陽の禅院に住する清譲(せいじょう)老師に、求道者が訪ねてきて問うた。大通智勝佛=無礙自在、清浄法身の虚明(きょめい・実在しない覚者の意。臨済録)が、永劫(永遠)に坐禅したとて、禅を把握できず、禅を悟れないのは、どうしてでありますか?
(本則、的確に禅の極所をついている問答です)
譲曰く「ナルホド・・その問いは、しごく最ものことじゃ」・・と言われても、求道者にとって、サッパリわからない答え方であり、更に問う。「長い間、禅院で坐禅修行を続けているのです。どうして見性(悟り)を得ることが適わないのですか」
譲曰く「彼が禅をなさざるがためなり」
仏法佛道を「禅」と言い換えても同じこと。禅者は、例え寺院にいても、仏法が念頭に現前することもなく、仏道を領得することもなく、何事も因縁を結ぶことはない。
どちらにしても、禅者と仏とは、無関係であり、仏となることも出来なければ、仏となることをしないのでもある。寺院・在家の差別なく、環境、職業さまざまであっても、禅(悟りの)境地に何の関係もないこと。禅は無一物である。悟りを成すとか・・成らない・・とかの話でないことは、すでに世尊拈花(第6則)の公案で云われている。禅は自得自悟するもので、則に即することなく、他から与えられるものではない。
サアテ・・その「ZEN」とは何でしょうか?