禅のパスポート

禅語録 無門関no解釈to意訳

禅のパスポートNO10 提唱無門関(素玄居士)復刻・意訳

     無門関 第十則 清税 孤貧 (せいぜい こひん)

【本則】素玄提唱 清税 孤窮、貧乏じゃと云うのに、曹山(そうざん)は、酒を喰らいよって唇も潤おさずとぬかす・・けしからんと云う。孤貧とは心裏一事なく脱白餘物(だっぱくよぶつ)を残さぬところの、悟りきって心にかかる雲もなき境涯を こんな具合に修飾したので、禅の文章の特異な例じゃ。これに対し駘蕩(たいとう)たる禅境涯を 酒中の興趣(こうしゅ)に形容して 曹山が応酬したのじゃ。両々あいまって禅境を彷彿(ほうふつ)させている。(闍梨 じゃりは僧の別語。青原は土地名ならん。白家は平民の家のことか)

   【本則】曹山和尚 因みに僧 問うて云く 

       清税は孤貧なり 乞う 師 賑済(しんさい)したまえ、 

       山云く「税 闍梨」 

       税 応諾す(ハイ・・と素直に答えた)

       山云く「清原(せいげん)白家(はっけ)の酒 三盞 喫しおわって

       猶(なお)いう未(いま)だ唇を沾(うるお)さずと」

       (いったい何杯飲めば、少し酔いましたと云うんだい)

【本則】清税という求道者・・あるいは師の禅境地を試すかのように、問いかけたのであろう。弧貧とは、独り窮困して貧乏、腹ペコ。どうぞご飯をお恵みください・・だが・・飯もらいが真意ではない。

「私は、ただ独りにして無一物、心裏にかかる迷い雲なし」・・師よ、このような禅(境地)者に、与える「一語」ありましょうか?・・との公案=検主問・・としておきます。

これに対して、曹山(曹洞宗 始祖)は、駘蕩(たいとう)とした境涯を酒中の趣きに形容して、見事に応酬した一語である。

*俗に「禍いと炊飯ほど出来やすいものはない・・」どうか 弧貧(白紙)になって坐禅して、自己をかえりみ照らして、自己の主人公(性根玉)をハッキリしてもらいたい」 山本玄峰著 抜粋「無門関提唱」大法輪閣

【素玄曰く】ビールの貴きを恐れざれ 水道の麦酒に化せざるを歎く

   【無門曰く】清税 機を輸(ま)く 是れ何の心行ぞ。

   曹山は具眼(ぐがん)にして、深く来機(らいき)を辨(べん)ず、

   しかも是(かく)の如くなりといえども、しばらく道(い)え。

   那裏(なり)か是れ 税闍梨(ぜいじゃり)酒を喫する処。

【無門曰く】素玄 註。機をまく(清税が一問を呈して曹山を試みたのじゃ。禅はよく他を試みなければ 本物か嘘モノかわからん。検主問は禅家一般のことじゃ)

喫酒(禅の境涯を譬えて云う)

【無門曰く】禅は、生活に根差した行いが総てですから、その時々の「禅境地」を試みなければ、進歩したか、退歩したか・・本物か贋物か、よくわかりません。とりわけ骨董、茶器、陶器の類は、割って中の焼き具合を看なければ、真贋つきにくいといわれます。

さあて・・清税の貧するところ全く鈍した心根か・・またまた酒を飲んだところ・・銘酒か焼酎かワインかビールか・・何だろうか。

【頌に曰く】貧は范丹(はんたん)に似、気は項羽(こうう)のごとし。  

 活計無(かっけいな)しといえども、あえて興(こう)に富を闘(たたか)わしむ。

【頌に曰く】素玄 註。范丹(人名 貧にしょして自若たり。釜中に魚を生ずと唄わる)闘富(清税は無物だから何物も出入自在じゃ。欲がないから巨万の富が転がっていても同じじゃ。無一物中無尽蔵だ。だから図太くて強い。気は項羽の如しだ。酒を飲んでも唇を潤おさずじゃ。貧乏で暮らしがたたなくても、巨万の富だから金持ちと較べてやる・・ということ) 

坐禅(瞑想)して三昧の境地になったとか・・写経をして大覚=悟りに至ったとか・・禅を誤解してはならない。それは単に集中した時の心理作用です。「貧」の極致は范丹(はんたん)に似たり・・(中国の古歌に・・范丹という人は貧しくとも泰然自若。釜の中に魚を生ず・・と唄われたそうだ)

無一物中無尽蔵の清税は、貧の極致にあるから、気持ちは項羽のごとし。酒を飲んでも、くちびるを潤おさず・・その日暮らしでも、常に満ち足りてある。(あえて言えば・・御心のまま・・自然法爾に続くのか・・)

【附記】かって、私が円覚寺に寄宿していた学生の頃、父の(用事)で、兄,故・五郎が山向う東慶寺、松が丘文庫の鈴木大拙先生を訪ねたおり、「貧」の一字の扇子を頂き、家宝のように大事にしていたのを思い出します。あの頃は「貧」とか、「無一物」とか、よく納得していなかったです。坐禅は「悟り」の手段ではなく、ただの毎日の心の洗濯、掃除ですね。日頃の暮らしの中に、弧貧の境地が、少しずつ醸成されていってこそ、うまき酒になるのでしょう。現在、提唱する「3分間独りポッチ禅」は、この則、清税「弧貧」の禅といってもいい・・と思います。