無門関 第十一則 州勘庵主 (しゅうかん あんしゅ)
【本則】素玄提唱 一方では浅薄(ざんぱく)とし、一方では擒縦殺活(きんじゅうさつかつ)自在無疑(じざいむぎ)の豪物(えらもの)として、お辞儀をしたと云うのである。趙州の禪機 人の知る少なしじゃ。これを拳の上げ方とか顔付きとか態度、挙措(きょそ)に違いがあるがあるのだと思ってはいかん。ソンナことは書いてない。書いてないのは無用なからじゃ。公案には必要をもらすなく、不必要を加えるなし。共に拳を挙げたのじゃ。禅機は禅の生々なる流露で、相手がなくても独りで禅機を弄(ろう)して楽しむ。ここでは相手がある。相手があっても相手なきに同じじゃ。この庵主もしたたかもんじゃ。コンナところが禅機の妙でナントも云われぬ面白さ。遉(さすが)は趙州と手を拍(う)ちたくなるのじゃ。こうして散歩するのも面白いだろうが、今日 此の人なし
【本則】趙州 一庵主(あんじゅ)の處に到って問う。
有りや 有りや。主、拳頭(けんとう)を竪起(じゅき)す。
州云く、水浅くして これ船を泊する處にあらずと。
すなわち行く。
また一庵主の處に到って云く。有りや 有りや。
主もまた拳頭を竪起す。
州云く、能縦能奪(のうじゅうのうだつ)能殺能活(のうせつのうかつ)と。
すなわち作禮(さらい)す。
◆【素玄曰く】九谷の徳利 青磁の杯 独り小房に座して交互に忙し。趙州訪ね来るも拳を用いず壁間のグラビヤ代わって応接す
【無門曰く】一般に拳頭を竪起す。
なんとしてか一箇を肯(うけ)がい、一箇を肯がわざる。
しばらく道え、倄訛(ごうか)いずれの處にかある。
もし者裏(しゃり)に向かって一転語を下(くだ)しえば、
すなわち趙州の舌頭(ぜっとう)に骨なく、
扶起放倒(ふきほうとう)、大自在を得ることを見ん。
しかもかくの如くなりといえども、いかんせん、
趙州かえって二庵主に勘破(かんぱ)せらるることを。
もし二庵主に優劣ありと道わば、
未だ参学の眼(まなこ)を具せず。
もし優劣なしと道うも、また未だ参学の眼を具せず。
【無門曰く】素玄 註。倄訛(入り組み。言葉のなまりで趙州の働きを指す)勘破せらる(二庵主も趙州の禪機を勘破している。ここが禅機の商量じゃ。)参学の眼云々(二庵主に優劣あるが如く 無きが如く、ありとするも不可。なしとするも不可。ここの處に味があるのじゃが、有でもあり無でもあり、有無でもあり無有でもあるか。難・々・々じゃ)
【頌に曰く】眼(まなこ)は流星、機は掣電(せいでん)、殺人刀(せつにんとう)活人剣(かつにんけん)
【頌に曰く】素玄 註。殺人刀云々(無門もだんだん種切れと見えて 似たような文句ばかりにした。殺人は またこれ活人。活人またこれ殺人。此の間に思慮を容るるナカレじゃ。酌(く)めども盡(つ)きず。此の頌は上等)
【附記】意訳
【本則】百二十歳まで行脚修行した趙州。
ある日ある時、ある禅庵を訪ねて・・「有りや・・有りや」(いったい何があるのか、何を尋ねたのか・・日時や庵主名など不明なのは、無用だから書いてない)
すると庵主、スッと拳(こぶし)をあげた。
趙州云く「浚渫(しゅんせつ)してない浅い港なので・・船泊(ふなどまり)できない」といってサッサと出て行った。
また別の禅庵を訪ねて云く「有りや・・有りや」するとこの庵主もまた、スッとこぶしを立てた。趙州云く「これはナント・・自由、活殺自在な働きの方である」と丁寧に礼をした。
意訳【無門 曰く】両方の庵主、同じように拳を立てたが、一方は船底が海底につくから泊まれない・・と退散し、もう片方は、同じ仕草なのに、自由自在な働きである・・と、ほめたたえて深く礼をした・・この趙州の「入り組み」態度の違いを見て取れる・・求道者が・・いるかどうか。
もし、一人を誉め、もう一人をダメとする・・確かな意見ができれば、反対に趙州こそ、二庵主に、喝破され(見抜かれ)ていることがわかろうというものだ。
禅寺では「趙州無字」の公案一則を透過すれば、あとは口伝とか、密室の参事として伝授する・・アンチョコ方式をとる・・ソウだが「禅による生活」の本当は、こうした公案で鍛錬された「一語」徹底しているか、どうかで決まる。もし、二庵主の優劣,是非があるというも、無いというも、やっぱり温室栽培のボケ茄子なら・・食えたシロモノではない。