禅のパスポート

禅語録 無門関no解釈to意訳

禅のパスポートNO13 提唱無門関(素玄居士)復刻意訳

              無門関 第十三則 徳山托鉢(とくさん たくはつ)

    【本則】徳山 一日托鉢して堂に下る。

       雪峯に、この老漢、鐘いまだ鳴らず、

       鼓(く)いまだ響かざるに托鉢して、

       いずれのところに向かって去ると問われて、

       山すなわち方丈に帰る。

       峯、巌頭に挙似(こじ)す。

       頭云く、大小の徳山いまだ末後の句を會せずと。

       山 聞いて侍者をして巌頭を喚び来たらしめて問うて云く。

       汝 老僧を肯(う)けがわざるか。

       巌頭、密(ひそ)かにその意を啓(もう)す。

       山すなわち休(きゅう)しさる。

       明日陞座(みょうにち しんぞ)。

       はたして尋常(よのつね)と同じからず。

       巌頭、僧堂の前に至って掌(たなごころ)を打って大笑して云く。

       且喜(しゃき)すらくば老漢、末期の句を會(え)することを得たり。

       他後(たご)天下の人 伊(かれ)を奈何(いかん)ともせず。

本則素玄提唱 徳山が雪峯にやりこめられて 直接 自室にかえったのも禅機じゃ。禅機は喝したり棒したりばかりではない。日常 無為の間にもある。黙して帰っても、フンフンと云うて帰っても、ここに徳山の機略がある。

雪峯もそこまでは見届かぬのじゃ。

この勝負は勝ちと思ったかどうか、仲間の巌頭(がんとう)にこのことを話したのじゃ。巌頭は一枚も二枚も上手(うわて)で この徳山、雪峯の商量(しょうりょう)に乗り込んで一句を添えたのが、大小の徳山未だ末後(まつご)の句を會せずじゃ。

大小とはありふれた、普通のという意味で、そこらの徳山も、まだドン詰まりの處を一句することが手に入っていないワイというような意味じゃ。(末後の句を禅の極所として解してはいかん。極所とすべきなしじゃ。禅機を打発して凝滯(ぎょうたい)なしでドン詰まりの時に用うる一拶じゃ)

それで徳山も巌頭を呼び寄せて、お前は俺の禅に納得していないのだナ、とやった。巌頭はチョットお耳拝借と云って何かコソコソした。徳山もエエ仕方がないワイと云って済ましたのが休し去るじゃ。サア、この末後の句とは何かナ。禅者は時折りにこんなイタズラをして興ずることがあるのじゃテ。禅者は生々溌剌(せいせいはつらつ)であって、しかも無為の閑道人(ヒマどうにん)じゃから、ワルサでもしなければ退屈で仕方がない。

公案にも、こんな芝居は大分ある。

サテ、翌日、徳山が高座に上がって喋つたが、はたして平常とは違っている。

ト、ここでは書いてあるがこの辺のことは チト怪しいテ。これも芝居の内じゃ。巌頭は僧堂の前へ出て行って大笑して、マズマズ爺さん(徳山)も末後の句が解ったらしい。あの人も今後、天下の何者もどうすることも出来んじゃろうテ・・ト、云った。

 

碧巌集の雪峯是什麼(せっぽう これいんも 第五十一則)に 巌頭の「雪峯は我と同條に生きるも、我と同條に死せず。末後の句を識らんと要すれば・・ただ この是れ」とある。

ここらで末後の句を玩味(がんみ)しなくちゃいかん。

雪賓(せつちょう)のこの則の頌は「末後の句 君が為に説く、明暗双々底の時節、同條に生きるも また共に相知る、同條に死せず 還って殊絶(しゅぜつ)なり、かえって殊絶す。黄頭碧眼すべからく甄別(けんべつ)すべし。南北東西 かえりなん いざ、夜深うして同じく看る千巌の雪」とある。

同條生不同條死、同じく看る千巌の雪か。

末後の句は禅機じゃ。禅を得れば祖佛と同じじゃが、禅の生々たる流露は、禅機で自ら風景を異(こと)にす、である。俱胝(ぐてい)のような指一本もあれば、趙州のような舌頭骨(ぜっとうほね)なきもある。巌頭のは末後の句で、これがあるのとないのとで、同條に生きるも同條に死せず、とやっている。

「ただ この是れ」のことじゃ。

こんな具合にこねくり回すのも禅機の妙で、徳山も これには平常の棒が出なかった。末後の句と徳山の棒といずれぞ。

夜深うして同じく看る千巌の雪じゃ。

巌頭はシタタカもんじゃから、甘いことを云うかな。

雪賓の文を用いる また頗(すこぶ)る巧妙じゃ。

素玄 曰く泥棒にはカギをあたえよ・・ 

【本則】ある日、徳山宣鑑・・食事時でもないのに、自分の茶碗と箸を持って、ひょっこり食堂に姿を現した。そこに居合わせた料理長、雪峯義存に「まだ、食事の案内、合図をする時間じゃないのに、何をウロウロされますか」と注意された。

徳山、うなだれて自分の部屋(方丈)にもどった。

*徳さん、雪峯にやり込められ、自室に帰ったのは禅機。

得意の三十棒が出なくても、雪峯は徳山老師の性根、極所を見届けていない。

この件を、万事仕切り役の巌頭全豁に報告したところ・・巌頭いわく「いつも腹ペコの徳山老師だ。まだまだ、禅の極所をとらえていないな」と決めつけた。

(この雪峯、徳山の商量に相乗りした巌頭、ナカナカの禅者です)

三昧(正受)が禅の極所であるとか、極所などない・・のを打発しての一句だと、ズタズタに切り刻んでも、無花の香りは発見できない。

徳山、これをまた聞きしたので、巌頭を呼んで「ワシのやった行動を否定するのか」と問うた。すると巌頭、お耳を拝借・・と、耳元で何かささやいた・・徳山 お得意の三十棒をすっかり忘れて「ナルホド、それなら致し方ない」と納得して寝てしまった。

あくる日である。求道者を集めて、徳山の禅話が始まろうとした時、巌頭、手を打って大笑いしながら言った。

「イヤア・・喜ぶべき出来事だ。あの徳山老師、末後の一句ワカラレタようだ。これからは徳山老師に、もう誰も手出し、ご意見できないよ」

【無門曰く】こりゃ、ご臨終の「末期の一句」ではなく「見性・禅機の末後の一句」と題した・・一幕物の田舎芝居だね。二人とも操り人形だ。巌頭、徳山、ともに末後の一句、わかってはいないと叱りつけた無門。さあ、しっかり坐禅して納得すればいいが・・

    【無門曰く】もし是れ末後の句ならば、

     巌頭、徳山ともに未だ夢にも見ざることあり。

     検点(けんてん)し將(も)ち来ればよし

     一棚(いっぽう)の傀儡(かいらい)に似(に)たり。

 無門曰く素玄 註夢にも云々(巌頭、徳山共に末後の句を知らず・・とドヤシつけたのは無門の見識じゃ。末後も犬のクソもあるもんかとやったのじゃ。しかし、ここは文句の通りにばかり見てもいかん。裏もあり表もありかネ)

一棚の傀儡(かいらい)同じ人形芝居の役者たち、ツマリ同じ穴の狸のこと。どうも無門の末後の句はハッキリせぬ。無門も手が届かぬらしい。圓悟はこれに言及していない。

末後の句、天下に知る人 鮮(すくな)し。

【頌に曰く】無門の見性の一句はさておき、末期の一句はどうもアヤフヤ・・はっきりしない・・末期の句を会(え)する人は、本当に少ない・・(と、素玄居士は提唱で指摘している)

無門慧開 天龍和尚に参じ、後、月林禅師のもと、狗子佛性の公案を6年間粘弄、ある日、太鼓の音で省悟。重ねて雲門話堕の則を聞かれて拳をあげた。林は、これを見届けて印可したという。無門は、平常、頭髪茫々、人々から開道者と呼ばれていたソウナ。

   【頌に曰く】最初の句を識得すれば、すなわち末後の句を會す。

         末期と最初と、これこの一句にあらず。

頌に曰く素玄 註。無門は末後の句を會せずじゃ。

【附記】禅は「今、ここに」に生活する・・中にしか発現しない。

だから・・何時、どこで、誰が・・は深く問わない。何ごとを、どのようになしたか・・これを自分の境地として、どれほど深く味わうことができるか・・

いわゆる「禅境(地)を楽しむ」のである。

ただ、心落ち着かず、不安や悩みに苦しむ・・安心を求めたい人が、ふと、坐禅でもしたい・・と、思った瞬間・・その時だけ・・ZEN=禅が姿を現したと言ってもよい。

(たいてい、禅の効用、利用価値を考えてしまうので、純禅=自分の無価値・無功徳な姿は、すぐに消え失せてしまう・・)

たったの3分間・・独りポッチ禅をする時、私は、碧巌録か、無門関に、気ままにページを開いた一則を看ることにしている。

千年前の、それこそ現代の文明文化から比較すれば・・何もない、貧しく不便な禅者たちの生活ではあるが、明らかに禅者の世界がイキイキと出現する。

達道の禅者たちは、生々溌剌に「禅ニヨル生活」を楽しんでいるのだ。