禅のパスポート

禅語録 無門関no解釈to意訳

提唱/無門関(素玄居士)復刻意訳・・宇宙で唯一人の者が、何で授業のベルで勉強するのか?

禅のパスポートNO16   

さあ・・この広大な宇宙で、誰もコピペ出来ない・・ただ独りの遺伝子(唯我独尊)をもつ人間が、合図のベルで仕事や勉強に精出すのは、どうしてなのだろうか?

       無門関 第十六則 鐘聲七條(しょうせい しちじょう)

           【本則】雲門曰く、世界 恁麼(いんも)に廣闊(こうかつ)たり。

            何によってか鐘聲裏(しょうせいり)にむかって七條を披(き)る。

【本則】素玄提唱 鐘がなると七條の袈裟を着て勤行(ごんぎょう・経を挙げたりすること)に出てくる・・学校ならば教室に入る。この広い世界にサテモ サテモ窮屈な真似をしておる。

それを何故かと聞くのもおかしいが、また こんな広い世界に、そんなことに縛られるというのもおかしくないでもない。禅は心意を絶し無碍自在(むげじざい)。

縛られてはたまらぬ。それじゃから七條も着て見せる。出ても見せる。なんと広々としているではないか。

だが、こんな具合に理解しては禅とならぬ。ここが飛躍じゃ。

理解を超越し、この自在の境(地)にならなくては禅でない。

口頭で何んと云うても埒(らち)があかぬ。禅は自得だと云うのは、イチイチ脳裏に理解の筋道を組み立てて納得するのでなくて、理解の筋道を絶して自得するのじゃ。

直にそれが行動に飛ぶのじゃ。

鐘聲裏(きょうせいり)に七條を披(き)るじゃ。

禅は直に行動というのではない。行動に理解が入らぬのじゃ。

縛られるも縛られんもあるもんか。

素玄居士曰く「一本足の弥次郎兵衛、アッチにふらふら、コッチにふらふら、落ちそうで、落っこちない・・と思っている間に、そうら落っこちた」

   【無門曰く】おおよそ参禅学道は、切に、声にしたがい、色を逐うことを忌む。

    たとえ声を聞いて道を悟り、色を見て心明らむるも、またこれ世の常なり。

    ことに知らず、衲僧家(のうそうけ) 聲に騎(の)り 色を蓋(おお)い、

    頭頭上(ずずじょう)に明に 著々上(じゃくじゃくじょう)に妙なることを。

    しかも かくの如くなりと言えども、しばらく道え

    聲、耳畔(じはん)に来るか。耳 声邊(せいへん)に往(い)くか。

    たとい、響寂ならび忘ずるも、ここにいたって如何が話會(わえ)せん。

    もし耳をもって聴かば、まさに會し難たかるべし。

    眼處(げんしょ)に声を聞いて、まさに始めて親(した)し。

【素玄 註】参禅は即してはいけない。

碧巌集の雨滴声(第四十六則)にも衆生は顛倒(てんどう)して物を逐(お)うと書いてある。 爆竹の音や桃の花を見て、悟入することはあるが、すでに禅悟を得れば聲色(せいしょく)を駆使するの妙用がなくてはいかん。

聲が耳にくるか、耳が聲の處へ行くか、即不(そくふ)の妙、さらに眼で聴き、全身で見るのでなければ1人前じゃない。

それはお化けじゃ。それもよしじゃ。

世界恁麼(いんも)に広し。

さあどこからでも聞け・・聞け。

  【頌に曰く】會すれば、すなわち事(じ)、同一家。會せざれば萬別千差。

        會せざれば事、同一家、會すれば萬別千差。

【素玄 註】この頌は同じことを繰り返し、あまり知恵がない。

 禅が手に入れば 万象も我が家に同じ。

 未悟は森羅万象(しんらばんしょう)千差萬別。

 また未悟は未悟そのものも、万象の一員で一家の内・・

 悟れば即ち花紅柳緑(はなはくれない、やなぎはみどり)

 會も不會(ふえ)も同じじゃ。

 世界 恁麼に広濶(こうかつ)なりじゃ。