提唱無門関(素玄居士)復刻・意訳
◆アンタさん・・呼ばれたつもりで応酬してみよ!
無門関 第十七則 国師三喚(こくし さんかん)
【本則】国師、三たび侍者を喚ぶ、侍者三度応ず。
国師云く、まさに謂(おも)えり、吾れ汝を辜負(こぶ)すと、
元来、かえって是れ汝、吾れに辜負す。
【本則】素玄提唱 サア、どこに勝敗がある。禅者は何を吐(ぬ)かすか解ったもんじゃない。元来、心に一物がないから出放題なことをやる。喚(よ)べば応える。それでお前が敗けとは何のことかナ。手がかりがない、手がかりがあるとそれについて回る。そんなのは公案じゃない。手がかりのないのが禅じゃ。喚んだり応えたり、また敗けとか勝ちとか、そんなことに獅噛(しが)みついていては見当違いじゃ。しかし、そこにまた味があるのじゃ。禅機を弄(ろう)し、学人を接得(せっとく)しているので諸君も侍者となってこの国師(これは忠国師のこと)に一本 応酬してみせよ。
【本則】意訳・・サア、どこに勝敗がある?禅者は何をぬかすか・・解かったもんじゃない・・と素玄居士。(いささか言葉遣いが荒いので、意訳して紹介します)禅者はもともと心に一物なし。サッと出放題なことをやる。
「オイ」と呼べば「ハイ」と答える。三回も呼ばれて、三回も返事した。そしたら「お前さんの敗けだな・・」とは、いったい何のことかな?
まるで手がかりがない。チョットでも手がかりがあると、ソレについて回って、這い上ってくるから始末にわるい。手がかり足掛かり少しもないのが公案だ。ツルツルと滑る鉄壁に、手掛かりなしでとりついて、千尋の谷へマッサカサマ。見事に墜落死するのが禅というもの。名前を呼ばれて返事した・・そうしたら・・お前の敗け、それともあんたの勝ちカナ?
・・など、ワラにもすがるような考え事をしたらアカン(ただ、そこに禅の味もチョッピリあるが・・)
ナントか禅の跡取りをつくりたくて、禅機(TPO)を弄する師に、お前さん、呼ばれたつもりで一本、応酬して見せなさい。
◆素玄曰く 銅像の馬が駆け出した。アレよ アレよ・・と云っている間に、また元の台座に帰ってきた。どこに風が吹くか・・という面付(ツラツ)き。
【無門曰く】国師三喚、舌頭地(ぜっとうち)に堕(お)つ。
侍者、三たび應ず。光に和して吐出す。
国師 年老いこころ孤(こ)にして牛頭(ごず)を按(あん)じて草を喫せしむ。
侍者いまだ肯(あ)えて承當(じょうとう)せず、
美食飽人(ぶしょくぽうにん)の飡(さん)に中(あた)らず。
且(しばら)く道(い)え、那裏(なり)か是れ他の辜負の處、
国清(くにきよ)うして才子貴(さいしたっと)く
家富(いえと)んで小児嬌(しょうにおご)る。
【素玄 註】堕地(三喚までしたら落第じゃ)和光(和光同塵どうじん)牛頭を按ず(国師も年老い禅者の仕立てに心を急ぐので、牛の頭を押さえてサア喰え、サア喰えとやる)美食云々(美食も腹の中に雑念妄想が詰まっているから喰われない)辜負とは何かナ。国清うして才子貴からずだ。小児驕(おご)るは甘くやるワイ。
【無門曰く】老師さん・・三回も呼ぶのは的外れ。金石麗生なる禅を、全部、さらけ出して賭博するとは・・無鉄砲です。
年取って身寄りがないからといって、放蕩息子に飯食え!飯食え・・何不自由なくさせたら後の面倒をみてくれる・・などと思ったら大間違いだ。
(腹に雑念妄想、いっぱいに詰まっているから「禅」を食うに食えない有り様だ)
さても、この勝負、丁半揃って、目はナント出たかな?
跡取り息子は苦労させるに限ります。
【頌に曰く】鐡枷無孔(てっかむく)、人の儋(にな)わんことを要す、
累児孫(わざわい じそん)に及んで等閑(なおざり)ならず。
門をささえ、並びに戸をささうることを得んと欲せば、
さらに須(すべか)らく赤脚(せっきゃく)にして
刀山(とうざん)に上(のぼ)るべし。
【素玄 註】要人擔(穴のない鐵枷、つけられたらぬけそうもない。この公案を学人に担わしたのじゃ。子孫も迷惑)上刀山(禅門を扶起(ふき)せんとせば、刀山に上る苦心が必要)
【頌に曰く】この抜けようのない手錠足かせ・・丁半賭博の失敗を放蕩息子に責任を取らせるとは、ひどい話。家・財産そっくり無くして、負債ばかりの家を継がせたいなら、さらに素っ裸にして、地獄の剣の山か、針の山に追い上げるのが一番でしょう。
あると思うな親と金・・ないと思うな運と災難。
昔の人は、よくいったもんだ。
【附記】禅寺の跡継ぎをつなぎとめる資格養成所・・僧堂で読誦する「四弘誓願」がある。出家僧の誓願である。この句のたった一行の造作が、禅を日本から絶滅させてしまったのではないか・・と思います。
「煩悩無尽誓願断」ぼんのう むじん せいがんだん・・煩悩は尽きることなく(雲の如く湧いてくるけれども)これを断ずることを誓願いたします。いかにも、モットモラシイ誓いであるけれど、禅は「煩悩即菩提」=色即是空(般若大智)を道う・・背骨にしているので、煩悩を断ずれば、菩提(悟り)も生まれない無明(死に体)となる・・そんな、ピチピチと躍動するイノチがない「死禅」となる誓願です。
では、初心の求道者が「誓願」するならどういうか・・「煩悩悟性誓願忘」・・悩みも悟りも雙忘(そうぼう)=両方とも忘れはてることを誓願する・・とか。「煩悩即菩提誓願覚」・・煩悩ソノママが悟りとなる覚智に至りたい・・とか。
まあ、しかし、禅は欣求宗教ではありませんから、仏教・寺僧に衒(てら)ったような造作、計らいはしないに限ります。蘆葉(ろよう)の達磨以来、禅は、集団で伝燈継承される宗教、学問(論理)倫理道徳などに一切関わらず、ただ「一箇・半箇」の師弟の間にしか預托できない、扱いづらい盆栽なのである。しかも、師がいかに心砕いて禅を教導しても、その弟子が独り、自分で自覚できないと、禅は、そこで腐った「煩悩」のタネのまま絶滅する・・そんな可憐な花を咲かせる一輪(拈花微笑)なのだ
禅の・・断絶する出来事は、インド・中國・日本で数えきれないほどあった。2500年前、釈尊から迦葉、中國へ達磨禅、そして日本へ・・ホソボソと生き延びてきた寺僧禅は、この第2次世界大戦の後、絶滅危惧種から絶滅種のステージに昇りつめた。
この由来、因縁は、羅漢と真珠に順次、書きます。
無門関十七則は、中國河南省、白崖山で40年間、隠れ住んで「禅による生活」を満喫していた南陽慧忠(なんよう えちゅう)国師(?~775)・・唐、粛宗(しゅくそう)皇帝?(代宗皇帝)に請ぜられて759年、禅を講じた・・が、その弟子、耽源(たんげん)という侍者の、1箇半箇を伝える禅・伝燈の話だ。
*南陽慧忠と耽源の禅語・公案は、碧巌録 忠国師無縫塔(ちゅうこくし むほうとう) 第18則にあり、禅者の一語(碧巌の歩記)で詳細を紹介する。ここでは素玄居士の提唱を意訳する。一箇半箇とは禅を伝えるにあたり、師は、ほぼ印可するに足る弟子ひとりと、その弟子が万一に先立たれると、その後を伝える半人前を・・かけがえのない者として鞭撻することをいう。