◆禅は「心」の奥から湧き出る(心と云うも既に誤まる)・・
第十八則 洞山 三斤(どうざん さんきん)
【本則】洞山和尚 因みに僧 問う、
如何なるか是れ佛、
山云く 麻三斤。
【本則】素玄提唱 ここに「佛」と云うのは「禪」のことである。「禅」とは何ぞや。「麻三斤」実に端的に露呈している。
禅は元来 餘物なしじゃ。直截(ちょくさい)簡潔、禅については本書にも乾屎橛(かんしけつ)。竪脂(じゅし)。碧巌に餬餅(こびょう)。解打皷(かいだく)などあるが、麻三斤が一番シックリしている。
禅は心の対象を払拭し、心を超越し 別にこの箇ありじゃ。
麻三斤も之を対象として、これに憑(つ)き纏(まと)ったらいけない。
麻三斤を払拭(ふっしょく)するのじゃが、払拭して又 別に境地あり。言語の及ぶところではない。こう書くと読者は自己催眠的境地を拈出(ねんしゅつ)して解かったような気持ちになろうとする。それが口にも出る。それはつまり口頭禅じゃ。そんなものは禪でない。禅は心の奥から湧き出る。
心と云うも既に誤まる。無中に湧出じゃ。
ここのところも知らずに自己免許で済ましているのは、自己欺瞞じゃ。三文の値打ちもない。その癖、到得還来無別事(いたりえ かえりきたって べつじなし)などとヌカス。道(い)うなかれ、了悟は なお未悟のごとしと。
偽禅横行し、この増長慢(ぞうちょうまん)をなさしむ。明眼の師について念々、不退転(ふたいてん)に工夫すべしじゃ。 俺がある夜、寝る時に、この麻三斤がガラリと透った。なるほど、肩の荷を下ろしたような気持であったが、別に也太奇(ヤタイキ・またハナハダ奇なり)もなければ、汗も流れず大歓喜もなかった。白隠の口頭禅とは大分違っていた。
しかし、目の前がズウと広くなって雑物の遮(さえぎ)ることなしの気持がした。これは公案が消えていったのじゃ。
◆素玄曰く 麻三斤、秤量(しょうりょう)し了(おわ)って他に渡し、無価の黄葉を受けて無底の財布に納さむ。
(黄葉とは子供のママゴト遊びに用いるお金。木の葉のこと)
【本則】語録の問答でいう「佛」とか、「一真実」とか・・これを「ZEN」と置き換えるのが、宗教でない「禅」・・現代版です。
それでは「禅」とは・・何ですか?
「麻三斤」・・無門関では、雲門の乾屎橛(カンシケツ・クソカキベら第26則)、俱胝竪指(ぐていじゅし 第3則)碧巌録に雲門餬餅(ウンモン コビョウ第77則)禾山解打皷(カザン カイダク第44則)など、意中の対象を払拭し、心を超越した一語・・無中に湧き出る、文字言語の及ぶところではない境地の公案、問答があるが・・これこそ、雑念を入れ込む余地がない・・いわゆる、憑(と)りつくスベがない禅者の一語だ・・一番シックリとしている・・と、素玄居士は褒められた。それに続けて・・こう書くと、読者は自己催眠的境地を演出(造作)して、解かったような気持ちになろうとする。それが口にも出る。それが口頭禅だ。三文の値打ちもない。そのくせ到りえ還り来れば別事なし・・とぬかす。云うなかれ。了悟はなお未悟のごとし・・と。偽禅横行し、この増長漫をなさしむ・・と言葉荒く切って捨てられた。
【無門曰く】洞山老人 些(さ)の蚌蛤(ぼうごう)の禅に参得して、
わずかに両片を開いて肝腸(かんちょう)を露出す。
しかも、かくの如くなりといえども甚(いずれ)の處に向かってか洞山を見ん。
【素玄 註】蚌蛤禅(戔薄な口先の禪。無門が洞山をケナしているが、それは同一家のことだ。蚌蛤の両片を開けて腹の内をサラケだす)麻三斤(これは洞山の肚じゃ。禅じゃ。だが その肚をシッカリとみつけたかナ)
【無門曰く】洞山老人、いささかハマグリの口を開けたような禅・・麻三斤・・腹の中をさらけ出したが、求道者よ・・その肚(ハラ)をシッカリと見届けたかな?
【頌に曰く】突出す 麻三斤 言(こと)親(した)しく 意さらに親(した)し。
来って是非を説(と)く者は、すなわち是(こ)れ是非の人。
【素玄 註】説是非(是非分別したら もう禅はない)
【頌に曰く】禅者の一語・・中でも飛び抜けてこれが一番だ。
言葉は手短じかだし、その意の親切なこと・・きわまりない。
もし、ホンの少しでも、是非を分別したら、もう禅はないぞ。