禅のパスポートNO19 提唱無門関(素玄居士)復刻・意訳
◆非常・平常(心)の区別は何処でつけるか・・
それなら「禅」・・平常(心)とは何か・・
◆【すなわち思慮分別なきところ、大空のガラッとしたもんサ。是非すべきなしだ・・】
しかし、こんな講釈禅では頼りない気がする・・素玄居士 評。
第十九則 平常 是道(びょうじょう ぜどう)
【本則】南泉 因(ちな)みに趙州問う、如何なるか是れ道。
泉云く、平常心(びょうじょうしん)これ道。
州云く、還(かえ)って諏向(しゅこう)すべきや否や。
泉云く、向わんと擬(ぎ)すれば、すなわち乖(そむ)く。
州云く、擬せずんば、いかでか 是れ道なることを知らん。
泉云く、道は知にも属(ぞく)せず、不知(ふち)にも属せず、
知はこれ妄覚(もうかく)不知は是れ無記(むき)、
もし真に不擬(ふぎ)の道に達せば、
なお太虚(たいきょ)の廓然(かくぜん)として
洞豁(どうかつ)なるがごとし。
豈(あに)、強(し)いて 是非すべけんや。
州 言下に於(おい)て頓悟(とんご)す。
【本則】素玄提唱 この道とは禅のことで 佛、コノコト、その他いろいろの文字を当てはめる。内容が漠然じゃから抽象的なものなら何でも借りてくることができる。だから誤解も出る。紀平博士が真剣に書きたてているのも道とか知を道徳や知識ということに見当違いに解しているからで、このことは『禅境』に槍玉にあげておいた。本則の趙州は なお未悟底(みごてい)時代で 後年の趙州ではない。
ここに平常心(びょうじょうしん)と云うのは禅者の平常心で未悟、常人の平常心(へいじょうしん)ではない。禅者の平常は普通の平常でない。禅者には非常も亦(また)平常である。非常も平常も差別はないのじゃ。対象なく心意を超越し即するなければ 非常平常の区別のあり様がない。非常に処すること なお平常のごとく、平常にあること なお非常のごとく、心を有せずして なお心の存するが如く、禅境にあるが如く あらざるが如く、これがつまり禅者の平常心じゃ。
この心も心とすべきなしで 仮に用いた文字である。
南泉のようになると禅境の出頭没頭(しゅっとう ぼっとう)もない。平常 多く禅境にあるから平常是道じゃ。常人の平常心が道即禅なのでないのじゃ。道はまた 道徳のことでもない。一般に禅を道徳と見ているようじゃが それは見当違いだ。共に捕捉すること 困難だからとて同類でない。何でもかんでも道徳にクッツケなければ 気の済(す)まん連中でも、電光が道徳だとか、雨の降るのが不道徳ということもあるまい。漢詩の巧拙を評するのに 化学の方程式によるというのも どうかと思います。禅者も無論 国民であり社会人であり家庭人である。一刻も道徳を無視して生活できるわけのものでもない。それをこの頃のラジオのように朝の六時から 夜の睡眠時間まで 空気を振動させるのも いい加減なモンカト思イマスネ。
不道徳に非ず また道徳に属せざる境地もある。
世界いんもに広濶(こうかつ)なり。
禅はあてくらべることも出来ない 擬(ぎ)すれば背くじゃ。
智をもって得べからず 雑念妄想が混じったら悟りは消える。不智とは枯木冷灰じゃ。死物木石には記事することなし。禅は生々溌剌(せいせいはつらつ)だ。
それなら何か、不擬(ふぎ)すなわち思慮辨別(しりょべんべつ)なきの處、大空のガラッとしたもんサ。
是とし非ともなすべきなしだ。しかし、こんな講釈禅(こうしゃくぜん)では たよりない気がする。
◆素玄曰く「カラスがカアカア鳴いている。
雀がチュンチュン鳴いている。
それで私もチュンチュン、カアカア」
【附記】平常心(びょうじょうしんと呼びます)・・金メダル獲得とか、勝った負けたのガンバリヤの平常心は【へいじょうしん】です。
最近、この有名な・・趙州(見性)一語が、東京オリンピックを控えて、スポーツや政界に、流行語のように広まっている。「平常心で頑張ります」「平常心で勝てました」・・こんな理解力で紹介されたら、昔の禅者、南泉・趙州も浮かばれません。
まして、意味を誤解して、どんなに頑張ろうと「平常心での成功」はありえないし、優勝できたからZENの悟りの一語が体得できる訳でもない。もし勝てたのなら、それは、きっと何か別の、気力・・集中力とか、努力、スポーツ指導者や、医学などの研究チーム、あるいは神仏のせいか、まぐれ当りのことだから、独りポッチの坐禅をして・・禅語の真の意味を知ることが大事でしょう。
唐代の・・唇から光を放つ・・といわれた禅者・・趙州従諗(778~897)の命懸けの修行と、その生涯120年間の一悟(語)である点・・特別にその意味に留意してほしいのです。
「平常心」へいじょうしんと呼ぶ限り・・世に出回る禅語解説の一切を、私は完全否定します。
まず公案、表題に「心」をつけないのには、深い理由があります。
次に「道」というのは、「禅」(悟り/一真実/真人/本来の面目/隻手の音声/無字/色即是空/般若)・・のことで、抽象的だから何でもあてはめられる言葉です。だから、生きるに大切な、文字・言葉を、無造作に「禅」を体験しない学者やマスコミが大間違いして伝えているのです。
例えば、心の安定、不安の解消とか、その禅風景の紹介に「座禅」と書く。
正解は「坐禅」です。座ではなく坐です。
こんな文字の読み方の基本も、区別も知らない解説がいっぱいあります。
この「平常心」は、禅者の平常心ですから、非常もまた平常心なのである。何らの対象がなく、非常と平常の区別のありようがない・・非常に処すること、平常の如く・・平常にあること、なお非常の如く(の境地です)・・あとの「心」の文字は、仮に用いただけの言葉です。
師の南泉のごときは、平常・非常の禅境(地)の出入り口すらない(窺がえない)平穏無事の人なのです。
また「道」とは「行い」そのもので、道徳でもないし、平常心が「道」そのものではない。禅は・・何かと何かを当て比べて比較分析できるものではありません。その心境に疑問が生ずれば、その人が誤解し間違っているのです。
平常・・非常・・ただし擬(問が湧けば)すれば背く(間違い)。
心は、智をもって得べからず。雑念妄想、論理、言い訳が少しでも混じったら「禅」悟り・・は消えてしまいます。
また「不知」は、死物木石のごとき様子で、好奇心がない。無関心である。スマホに夢中の依存症は、不知無記の状態です。澱んだ沼のように、心が腐ってブツブツ泡が吹いているのです。
禅は、イキイキ、ピチピチ・・生活と心がハツラツと躍動します。
それを「禅による生活」・・「平常是道」というのです。
【本則意訳】師の南泉に(何かの折に未悟・修行期の)趙州が問いかけた。
趙州「道」とは何ですか?
南泉「ありのまま・・それでよかろう」
趙州「それを思慮分別するべきでしょうか?」
南泉「文字、言葉に騙されるでない」
趙州「思慮無くして、どうして道を納得できましょうか?」
南泉「道は智でもなく、不知でもない。
智は、思惑、妄想。不知は死物木石(慮するなし)。
達道に至ればカラリとした青空になる。
曇るの・・降るの・・天気予報は無用だ」
趙州、言下において(スッと青空になって)頓悟した
【無門曰く】南泉 趙州に発問(はつもん)せられて、
直(じき)に得たり瓦解氷消(がかい ひょうしょう)
分疎不下(ぶんそふげ)なることを。
趙州 たとい悟り去るも、更に三十年を参じて始めて得ん。
【素玄 註】瓦解云々(禅の事を細かく砕いて説明したが、筆舌の説明では何が何やら解からない。持ちもならず下げもならず)
【無門曰く】南泉老師、禅のことを事きめやかに説明したが、筆舌の解釈では、何のことやらわからない。大空とやらの「青空」をもらって、あまりの無限(夢幻?)に四苦八苦。その荷を放擲(すてさる)のに、まあ・・ざっと三十年はかかるだろうな・・ご苦労さんです!
【頌に曰く】春に百花あり
秋に月あり、
夏に涼風あり
冬に雪あり。
もし閑事の心頭にかかる無くんば、
すなわち是れ人間の好時節。
【素玄 註】この頌は拙劣。
無門もだんだんと種切れらしい(・・と附言あり)