禅のパスポート

禅語録 無門関no解釈to意訳

◆無門関を提唱する以上、さらし者になって「素玄曰く(見解)」を披露する!

禅のパスポートNO21 提唱無門関(素玄居士)復刻・意訳 

たいして値打ちがないので恥ずかしい限りじゃが 提唱する以上「素玄曰く」を附けることにする。それが責任じゃ。高いか安いか・・晒しものじゃ!

 (頌としなかったのは取材や文体の自由を欲したからである)

【附言】この禅のパスポートでは、できる限りに、素玄居士の「提唱無門関」絶版本そのままに、公案の意訳を附記して紹介していきたい・・と思います。私は(若い頃)禅の本を見て「赤肉団上(しゃくにくだんじょう)の一眞人(いちしんじん)」とか・・「父母未生以前(ふぼみしょういぜん)本来の面目(ほんらいのめんもく)」とか・・難しい禅問答の漢字・漢文の意味さえ理解できたら、坐禅や悟りの道も近かろう・・と思っていました。あれから60年・・。

今、素玄居士の無門関は提唱そのままに(手助けは附記するだけ)文面上、読者には何の手がかりもなく(手助けできることはなく)まるで断崖絶壁をよじ登るような、独り坐禅をしてもらうことになりました。

素玄居士は、この本の緒言、冒頭に「禅に秘伝あることなし」として、禅は学問ではない。禅は、単に「極所」があるだけで階梯(かいてい・方法論)はない。本物の語録・公案を拈弄(ねんろう・無為に味わい噛みしめ)、自悟自得する外はない。巷の禅本には贋物の語録講釈もあるし、いい加減な寺僧の提唱・講義や、中には論理的とか・・恐ろしく誤まっている迷老師・師家の指導も横行している。だから、真禅の絶えるに忍びず、禅の極所にいたる道筋を、唯ひねくりまわすだけであるが、筆舌しうるドン詰まりまで話してやろう。そして各公案(則)ごとに、語録の禅者が、頌や偈で禅意を表情したごとく、素玄曰く・・を附けることにした・・と述べておられます。

禪(語録)の提唱者は、その公案が透っていなければ出来ないことだが、それを自ら証明、表明した「評とか頌」とか、無門関や碧巌集などには、チャンとその一語が載っている。

これからの提唱者も同じく「見解」(けんげ)をつけて見せなければいかん。でないと値打ちがわからん。贋老師などは話しても差し支えないことを密室で話すべきと秘密めかしたり、提唱で言わないようだが、それは卑怯で、つまりは未悟底なのだ・・と厳しく禅を解説する人たちに警鐘を鳴らされています。*見解(けんげ)・・師家の悟り、禅機・禅境地を述べた文句。頌や偈の意。 

     雲門屎橛(うんもんしけつ)第二十一則

【本則】素玄提唱 佛は佛様で、また それが禅でもある。佛すなわち糞かき箆(べら)である。今でも信州の山奥では、箆を使っていると云うことじゃが、紙幣暴騰の今日では今後も佛様で尻ふきが永続するじゃろうテ。

経典は尻ふきの故紙と云うた禅者もある。

素玄居士 提唱無門関が発行された1935(昭和10)年頃の庶民のトイレ事情は多分、よくて新聞紙のゴワゴワしたのを 揉みモミして使ったのだろう。

同じ意味じゃ。佛も禅も糞かき箆とは甘く云うたもんじゃ。臨済はまだまだ酷いことを云っているが そこまでゆかんことには因襲(いんしゅう)のコビリ付いているのを拭い去ることが出来んのじゃ。甚深(じんじん)の慈悲と謂うべしだ。佛様とかお経とかが腹の中に一杯詰まっていては、禅を肚のなかに入れることが出来んのじゃ。すっかり洗い流して拭き去らなくては、コノコトは手にはいらん。洗い棄てると云うても 口の先だけなら それではコタえん。モット酷く「糞かき箆」とケナシつけてやったのじゃ。これならいくらか腹の中の糞を洗うのに効力(ききめ)もあろうかというもんじゃ。佛の妄想を洗い流すのじゃ。

          【本則】雲門因みに僧問う「いかなるか是れ佛」

              門云く「乾屎橛(かんしけつ)」

    【本則】雲門山の文偃老師(852?~949)に、求道者が問うた。

        「いかなるか是れ佛=ZEN」

          門云く「糞カキべら」

素玄曰く・・世の中は寝るほど楽はなかりけり。

       浮き世の莫迦(ばか)は 起きて働く

        (著述もなかなか骨が折れるテ)

【本則】佛とは仏様のことであり、ソノママ「禅」でもある。佛すなわちクソかき箆(お経はさしずめトイレ紙)だと、雲門ズバリ断言した。

よくまあ・・ここまで味噌クソに貶(けな)しつけたものだが、そこまで言わねば・・佛とか、お経とか、腹いっぱいの便秘症状を・・洗い流し、きれいサッパリ拭き取ることができないのが、糞袋子(ふんたいす・人間)である。

口先だけの求道者には、チットハ堪(こた)えた公案だろう。

佛といい禅という・・そんな妄想に、一気に下剤をかけた公案である。

      【無門云く】雲門謂(い)いつべし 

           家、貧にして素食(そじき)辨(べん)じがたし。

           事(じ)忙しゆうして 草書するに及ばず、

           ややもすればすなわち屎橛(しけつ)をもち来って、

           門をささえ戸を拄(ささ)う。

           仏法の輿衰(こうすい)見(み)つべし。

 素玄 註素食云々(白い飯も口に入らぬ。書類も下書きのヒマがない)

       乾屎橛のような酷いことをを云うから佛法も衰えたの意味らしいが、それでは無門

       の箇事(このこと)も怪しいもんじゃ。

【無門云く】雲門の處は、貧しくて、子供らに白い飯も食べさせられず。

教えるのに下書きのヒマもなく、突然の罵詈雑言(ばりぞうごん)。尊き仏様を「クソべら」に例えるようなことだから、唐代の政治的迫害の余波を受けることになり、仏教の衰退を増長させてしまった。

この責任・・どう取るつもりか。

真実は・・雲門に責なし)

     【頌に曰く】閃電光(せんでんこう)撃石火(げきせっか)。 

           眼(まなこ)を貶得(へんとく)すれば、すでに蹉過(しゃか)す。

素玄 註貶得云々(乾屎橛と口から出まかせにやったが、それはどんな訳じゃなどと思慮分別したら、モウ駄目。禅を去るに遠しとも遠し。無門もこれだけ解っているのに 素食だとか興衰だとかいうのは、佛のことがやはり いくらか気にかかると見えるテ。

【頌に曰く】雲門、間髪をおかず、まるで雷光のごとくに「クソカキベラ」と答えたが、それは如何なる訳か・・など・・心意解釈やら分析していたら・・モウ度(ど)し難(がた)し(助けられない)