禅のパスポート

禅語録 無門関no解釈to意訳

◆どこかの国の・・誰かが・・ZENを身に着けるチャンスが生まれ・・

禅のパスポート NO22  提唱無門関(素玄居士)復刻・意訳   

  迦葉刹竿(かしょう せつかん)第二十二則

【本則】素玄提唱 禅には何か秘伝でもあるか、宝物の伝授でもあるのかしらん。この頃なら優勝杯でもあろうかと思って聞いたものと見える。それで迦葉(かしょう)は、門前の旗竿(はたざお)を逆さまにせえと答えたのじゃ。1人前の坊さんになると門前に旗を立てて遠近に知らせる風俗がある。迦葉は、そんなことも要らざることじゃ。旗竿も捨ててしまえ、何の伝授があるもんかという意味だ。印可も証明も邪魔なもんじゃ。

臨済は師の黄檗が凡案(つくえ)をやると云うので、燐寸(マッチ)を持って来い、焼いてしまうとやったが、なるほど道中(行脚、人生)に、そんなものは不便なもんじゃ。

金襴(きんらん)も余計なもんサ。

 【本則】迦葉、因(ちな)みに阿難(あなん) 問うて云く、

     世尊(せそん)、金襴(きんらん)の袈裟を伝うる外、別に何ものをか傳う。

     葉(しょう)喚(よ)んで云く「阿難」。難 応諾(おうだく)す。

     葉云く、門前の刹竿(せっかん)を倒却著(とうきゃくじゃく)せよ」

素玄曰く 足にタライをのせて、お尻に枕する者は何か?

      足芸の香具師(やし)・・何だ、つまらぬ。 

【本則】阿難が、釈尊から不立文字、教外別伝の「禅」を付嘱(頼まれた)迦葉尊者に問うた。「禅」には、何か秘伝でもありますか。悟りを得ると、スポーツの優勝トロフィのような表彰があるのでしょうか。

迦葉は、直ちに「阿難よ」と呼びかけた。阿難は「ハイ」と返事した。                  

迦葉曰く・・(講演会は終わった)「案内の門前の旗竿を仕舞いなさい」

   【無門曰く】もし、者裏(しゃり)にむかって

    一転語(いちてんご)をくだしえて親切ならば、

    すなわち霊山(りょうぜん)の一會(いちえ)、

    厳然(げんぜん)として未(いま)だ散(さん)ぜざることを見ん。

    それ未だ然(しか)らずんば、毘婆尸佛(びばしぶつ)早く心を留(と)めて、

    直(じき)に今に至るまで妙を得ず。

素玄 註霊山一會(霊山の拈花微笑も眼前 手にとるが如し)毘婆尸佛(過去 久遠劫より今に至るまで 修行していても心を離さずにいるから禅の妙が得られない)

【無門曰く】もし、旗竿をぶっ倒したなら、世尊拈花(せそんねんげ)のシーンが手に取るように見えるだろう。でないと、過去、未来永劫にわたって、心を追い求めて流離(さすら)う人となり、禅の妙は得難い。

 【頌に曰く】問處(もんじょ)は何(なん)ぞ答處(たっしょ)の親しきに如(し)かん。

  幾人(いくばくびと)かここにおいて眼(まなこ)に筋(きん)を生ず。

  兄呼(ひんよ)び弟応(ていおう)じて家醜(かしゅう)を揚(あ)ぐ。

  陰陽(いんよう)に属せず別にこれ春。

【素玄 註】生筋(なかなか わからぬので眼のとこが筋ばること)揚家醜(迦葉 阿難ともに禅を興す。醜(しゅう)とは自分たちのことを卑下するの意。阿難ものち、禅を得たり)付属云々(四季風物以外の別境地)

【頌に曰く】問が答え・・そのもの。「アーナンダよ」と呼ばれて、阿難「ハイ」と答える。

二人とも意気投合できずに、目パチクリ。肩の凝る話だ。

ヤレヤレ、迦葉も阿難も、恥ずかしいところをお見せした。

(だが、四季にこだわらない別の境涯もある。風流なものだ)

附記【素玄居士 解説】抜粋・・いくら詮索しても禅と仏教とを連結すべき因縁はないのである。だから、俗人の禅者(居士)、異教徒(外道)の禅者があり、彼らは禅宗僧侶の禅と区別すべきものがない。

もし、禅宗の仏教教義中、禅的なものを主として宗とすと称するならば、その然るものを挙示せよ。もし存するならば、ソレは禅的なものでないか、または仏教的なものでありえない偽の禅である。禅と宗教は相容れざるものである。

禅者は、すでに自己に安心をもっている「得道者」であり、信仰にたよらず関知しない。釈尊も、よく仏教と禅とを区別していたことを、この則がハッキリさせている。

(第九則 大通智勝にも明瞭にされている)

禅は宗教ではありません。禅宗として、仏教中に宗派を立てたのは百丈(清規)に始まること・・ですが、そうであるなら、中国、百丈の時代に至って、初めて「禅宗」宗派を名乗るのは、ひどく遅すぎる出来事です。

達磨が面壁禅を持ち込んできて以来、臨済録、信心銘など語録には、どの文言や禅者の振る舞いにも、一切、宗教的臭みは見当たりません。

禅は・・執着、分別、有無を両忘して、決して宗教的な欣求を許さない「悟境」を、独り・・自得「禅による生活」を実行するにあります。

当時、師弟(一箇半箇)の伝承・印可を尊重したのは、それだけ偽禅が横行し、師家の真贋が問われました。

未悟底の求道者には、卒業証書が必要と言うだけのことでした。

また、宗教をナリワイとした寺僧(僧業・生活手段)にとって、禅の一種の免許証明は、仏教的儀式や葬祭にまつわり、禅的な超越した風格を加味する必要な演出であったのでしょう。

素玄居士の無門関提唱は、ほとんど前の戦争の渦中にあって、省みられることはありませんでした。しかし、スマホ、PCなど、電磁的情報通信の時代です。どこかの国の誰かが、広くZENを垣間見るチャンスが生まれたのです。

公案・第六則「世尊拈花」迦葉に付嘱す・・の意味は、印可、伝承することは一切ないので「頼んだぞ」とすべきでしょう。

*ZENの端的は、テーブルをポンと叩いてもそこに禅を赤裸にする。碧巌録 第六十七則 傳大士講経(ふたいし こうきょうをこうず)は、このことです。