禅のパスポート

禅語録 無門関no解釈to意訳

12月1日~8日までの1週間は・・

禅のパスポート NO24 提唱無門関(素玄居士)復刻・意訳   

12月1日から8日までの1週間は、釈尊が悟りを開かれた日として、これを1日間とみなし、臨済僧堂では「雲水の命取り」といわれる、ぶっ続け坐禅と師家独参の修行「蠟八大接心」がある。

釈尊が6年苦行の後、菩提樹下で端坐、夜明けの明星を看て、正覚を成じた由来を機しての接心会だが、食事と用便を除いて、坐禅三昧。眠るのは午前3時までの、僅か3時間の坐睡のみ。雲水が、これほど激しく公案と向き合い自分と戦う姿は、まず、修行中、無いといえよう。されば、本日の鶏鳴を迎え、熱い梅干し茶をいただく心持ちは、年老いても忘れ難いと云う。

禅は宗教の元という意味で禅宗といいます。宗派のことではありません。例え僧堂で何十人の雲水が、悪戦苦闘して正覚を求めても、坐禅、独参しての結果、得られるものではありません。坐禅釈尊、達磨、先達の禅者のとおり、たった独りで行うことが大事です。

無理なく自然体で(現代人は)イス坐禅でたったの3分間ぐらいの・・悟りなどの功徳や見返りを求めることなく・・役立たずの坐禅を、おりおりに繰り返すだけです。

時に、この・・はてなブログ 禅者の一語(碧巌録・意訳)や、禅のパスポート(無門関・素玄居士提唱、復刻意訳)、あるいは 羅漢と真珠(禅の心、禅の話)、ご自分の禅境(地)を確かめられる道標になさって、あせらず、たゆまず、独り坐禅を・・のんびり・・お続けになってください。

ただ、注意は、決して仲間づくりはなさらないこと。

独りポッチ、寂寥の坐禅であることです。

座禅と書かず、坐禅と書いてください。

     離却語言(りきゃく ごごん)第二十四則

【本則】素玄提唱 語は外に向かう離のこと。黙は内に向かう微のこと。禅を語れば禅を離れ、禅を黙すれば内に微にする。禅を語黙することなく、犯すことなくして如何か禅を挙示せん。この離微は肇法師の宝蔵論に書いてあるとのことだが、こんなことは詮索する必要がない。語黙によらず禅を示せと云うことである。風穴は春の長閑(のどか)なことを喋っている。禅はそんなもんかしらん。

ツマランもんじゃ。

一体 公案とは禅か禅機かを示すもので、禅を何と云うても 同じことの一つことじゃ。言語挙措 千種萬様であっても、落つれば同じ溪川(たにがわ)の水で、どの公案でも つまる處は同じことの 一つことだから、一則しっかり手に入ると 千則萬則 みな透るのじゃ。それが透らなければ本物でない。

無門の評も頌も 結局は同じことを繰り返すにすぎないし、素玄曰くも その通りで 段々種切れになるわけだ。構造も脚本も、言い回しも落ちは同じ穴サ。落ちは同じじゃが 禅は対象もなければ心意も超越で何とでも喋られる。禅者が云えば江南三月も禅だ。大庾嶺上 風冷ややかなりも禅だ。

  【本則】風穴(ふけつ)和尚、ちなみに僧問う「語黙は離微(りび)にわたる、

      如何が不犯(ふぼん)を通ぜん」

      穴云く「長(とこしな)えに憶(おも)う江南三月の裏(うち)、

      鷓鴣(しゃこ)啼く處 百花(ひゃっか)香(かんば)し。

素玄曰く いにしえの奈良の都の八重桜 

       今日九重に匂い塗るかな(古歌)

【本則】禅を語れば語るだけ「禅」から離れてしまう。

では黙ってしまえば、今度は内にこもった、臭いオナラのようになる。

要は語黙によらず「禅」を示せ・・と、求道者は迫ってきたわけだが、風穴は、春ののどかさを詩に託して示した。はたして、それで百点満点かどうか・・

ここで素玄居士の一言。

公案は禅か禅機かをしめすもの。何と言っても同じことの一つ事だから、一則しっかり手に入ると、千則万則みな透る。

それがギクシャクして透らなければ本物じゃない。だから無門の評も頌も、素玄曰くもその通りで段々と種切れになる。

落語と同じで、噺の起承転結・・役柄の演技、セリフは、男は男らしく女は女らしく、落としどころが必ずあってオチは同じ。笑いが取れなきゃ落語と云えぬ。

噺の筋は違うように思えても、落つれば同じ谷川の水・・つまるところは同じなのが種明かしだ。(ところが・・その禅境(地)深きことは予測不能。甘く見るでないぞ。 意訳者附記)

   【無門云く】風穴の機 掣電(せいでん)の如く、路をえて すなわち行く。

    いかんせん前人の舌頭に坐して断ぜざることを。

    もし者裏(しゃり)に向って見得して親切ならば、自ずから出身の路あらん。

    しばらく語言三昧(ごごんざんまい)を離却して一句を道(い)いもち来れ。

素玄 註】道を得て云々(風穴はとこしえに憶うとスパリとやった。それは禅の道に背かぬのじゃが、すでに語じゃ。問話底に背く。口の先に乗ったのじゃ。)見得(しかし必ずしもそうだとも限らない。見解(けんげ)徹底すれば語黙も離れた處があるのじゃ。黙も及ばざるあり)

【無門云く】(この・・無門曰くと、頌に曰く・・は、どの則も意訳です)風穴は、春の感想詩をうまく、スパリと表現して見せた。それは、禅に背いていないが、すでに「詩であり語であり」問答の口先に乗っている。・・だけれども、今回は・・必ずしも語に堕している訳でもない・・禅者らしい境地が偲ばれる・・語黙をすり抜けた・・風流な処を見届けてほしいものだ。

   【頌に曰く】風骨(ふうこつ)の句を露(あらわ)さず、

         いまだ語らざるに先(ま)ず分布す。

         歩を進めて口喃々(くちなんなん)たれば、

         君が大いに措(お)くことなきを知りんぬ。

素玄 註】風骨(風の骨とは甘いことを云う)罔措(おくことなき・・未悟底で持ちも下げもならぬ行き詰まり)無門も語黙を離れるのは不得手と見える。

【頌に曰く】この春を歌う詩は、風骨を表さず・・変わったところは何もない、求道者が問うたから作詞したものではない・・初めから自然そのものが謳たう、コノコトがあらわれている。臨済の棒喝を利用せず、風穴禅者の禅境丸出しである。この詩の意味は、ああだ・・こうだ・・と理屈道理をこねるほど間違うものとなる。素直に、百花とまではいかなくても、春の花咲き乱れる温泉にでも入って、ウグイスの啼く声に聞きほれてごらん・・と言いたい。

【附記】いにしへの 奈良の都の 八重桜

    けふ九重に にほひぬるかな(伊勢大輔(61番) 

現代語訳・・昔の、奈良の都の八重桜が、今日は九重の宮中で、 ひときわ咲き誇っております。

*江南・・中国、揚子江から南を江南という。北は江北。

*風穴延沼(ふけつ えんしょう896~973)臨済樹下の禅者。