禅のパスポート

禅語録 無門関no解釈to意訳

◆人の為に説かない「ZEN」とは・・?

禅のパスポート 無門関NO27

南泉 ひどいデタラメを云うが、これこそ南泉の腕のみせどころだ(素玄居士)

     不是 心佛(ふぜ しんぶつ)第二十七則

【本則】素玄提唱

人のために説かざる・・の法は・・何のための法か。

人だとか犬だとか馬や木や、そんな相手を目当てにせぬ法もあるのじゃと、南泉も出鱈目(でたらめ)なことを吐(ぬ)かすが、これも南泉の手腕じゃ。

禪をしっかり掴んでおれば、何を言っても、それが通るのじゃ。

さすがに趙州の先生ほどあって すらすらとよくも口から出るわい。この心を不とし、この佛(禪)、この物を不とするのじゃと、萬象を抹殺し去って・・この何をか説く。

     【本則】南泉和尚 ちなみに僧 問うて云く

        「還(かえ)って人のために説かざる底(てい)の法ありや」

         泉云く「有り」

         僧云く「如何なるか是れ 人のために説かざる底の法」

         泉云く「不是心(ふぜしん)不是佛(ふぜぶつ)不是物(ふぜもつ)」

 素玄曰く 欧亜連絡、仏国ドレ機、

  高知海岸に不時着。飛行機大破。

  二鳥人は軽症、まずまず安心。

ちょうど、こうした大陸横断のフランス機が高知県に不時着する事件があったようです。飛行士2名は軽症で無事との報道に、素玄居士、一安心した様子がうかがえます。

1937=昭和12年5月26日夕方、フランスから香港経由、東京に向かう百時間懸賞飛行の中、コードローンシムーン単葉ツーリング機、搭乗マルセル・ドレー/フランソワ・ミケレッチは、四国の戸原海岸に不時着。2名は地元の人々に軽症で救助された。のちフランスに帰国。同時期、星の王子様で有名なサン・テグジュベリもサハラで不時着し、九死に一生を得ている・・)

素玄居士の提唱で「佛」と云うのは「禅」の意だと心得ておいてください。お釈迦様でもなければ、仏陀(覚者、悟道者)でもない・・ZENソノモノの意です。

僧とあるのは求道者と意訳しています。

    【無門曰く】南泉この一問を被(こうむり)りて、直に得たり 

     家私(かし)を揣盡(しじん)して 

     郎當(ろうとう)小(すく)なからざることを。

素玄 註家私云々(私財ありたけを傾け盡した)郎党(出しすぎて大切な處まで漏らした)

【無門曰く】(この・・無門曰くと、頌に曰く・・は、どの則も意訳です)あんまり説きすぎるのも良くないゾ。

隠すこと一切なし・・とはいえ、隠さなすぎるのも問題。私財のありたけを放り出してしまって、どうするつもりかな。

   【頌に曰く】叮嚀(ていねい)は君徳(くんとく)を損(そん)す。

   無言 眞(まこと)に功(こう)有り、さもあらばあれ、

   滄海(そうかい)は変ずるとも、終(つい)に君が為に通(つう)ぜず。

素玄 註損君得(ていねい過ぎると君を莫迦にす)不通(蒼海の変はあるとも解かる期なし)

【頌に曰く】説きすぎは自分の徳をそこなうばかりか、お釈迦様まで傷つけることになる。

いっそのこと黙っておればよかったろうに・・。

たとえ、地球の海水が1滴も無くなろうと、こんなことはイワナイ・・で、すませておけば、すべてが安泰だったろうに・・。

【附記】佛⇒禪の事。素玄居士は「佛」の字は、ことごとく「禅」の意であると断言しておられます。また「禅」は宗教ではない。欣求(祈り・造作)するものではない・・と、この無門関 提唱で一貫して記述されておられます。

私は、「禅」の宗教的行事を行う寺僧(宗団)は、真の禅者ではない・・との観点で、拝観料を取ったり、坐禅教導・宿泊・写経・精進料理などを営業するところは、一括して「観光禅」として純禅としません。

決して・・本や教導に頼らず、仲間を作らず、独りポッチの(イス)坐禅に撤して、仕事や勉強の合間、寝る前など、3分程度・・半眼・姿勢を正して行う・・無功徳(役立たず)の達磨禅を習慣化されるよう推奨しています。

意訳する「無門関/碧巌録」・・禅語録は、千年前の自由闊達な先達の禅者たちの・・禅機・禅境(地)を垣間見て、独り坐禅の励みにしたいと思っているのです。 2020-1-18 追記