禅のパスポート 無門関NO32
*泣く赤子 その口に あやす手拍子・・ア・ワ・ワのワ!
第三十二則 外道問佛 (げどう もんぶつ)
【本則】世尊、たなみに外道 問う、
有言(うごん)を問わず、無言を問わず。
世尊 據座(きょざ)す。
外道 讃嘆(さんたん)して云く、世尊 大慈大悲(だいじだいひ)
我が迷雲をひらいて、我をして得入せしむ。
すなわち禮を具して去る。
阿難ついで佛に問う
「外道 なんの所證(しょしょう)あってか讃嘆して去る。
世尊云く「世の良馬(りょうめ)の鞭影を見て行くが如し」
【本則】素玄提唱 言葉をもって答えることを問わない。無言で答えることも問わない。
いったいこの外道は何を問うのかナ。
どうして答えることを求むるのかナ。
こうゆう質問を作り出したのは誰か知らないが、随分ヒマな男もあったもんじゃが、また、こんなことを考えるというのもコメの値段も知らぬ奴のことじゃテ。理知の世界の思想と大分かけ離れている、別の調子じゃ。
また別調の風に吹かるじゃ。
世界、恁麼(いんも)に廣闊(こうかつ)なりか、ここらが禅の面白みじゃ。この外道というのは、仏教信者外の者を指し、それが釈迦当時、すでにこの禅を入手していたのだ。禅は釈迦以前、釈迦以外にありしことを知るべく、禅を禅宗の独占のようにいうのは大きな誤りじゃ。
この則は史実でないとしても、禅に宗教的なことはないのじゃ。
世尊、ただ據座(きょざ)。世尊も律義なもんじゃから、外道の云うた通り、有言でも無言でもない處を見せたわけじゃろうが、ここは據座も良久(りょうきゅう)も黙(もく)も、そんなことに拘わりはないのじゃ。
ポンと1本 棒でどやしてもよいし、喝でも逆立ちでも喋っても、どんな芸当をして見せてもかまわぬのじゃ。禅者の一挙手一投足、一言でも多言でも、すべて禅ならざるなしじゃ。
據座にシガミついたら了期なしじゃ。外道も據座で悟ったかどうか、こやつも禅者で世尊を検(ため)しに来たのかもしれず、あるいは本当にここで悟ったかも知れん。
優れた禅者だと、その前に行くと自然に打発することもあるのじゃ。趙州の洗鉢や喫茶去の一語で了悟した奴もあるのだから、世尊は、良馬が鞭の動く影を見て走り出すようなもんじゃと云うたが、修行が積むとどんなことが機縁となるか、解からんもんじゃ。
◆素玄曰く・・窓の外 苗売りの声、室内 一碗の茶。
【無門曰く】阿難は すなわち仏弟子、あたかも外道の見解(けんげ)に如かず。
しばらく道え、
外道と仏弟子と相去(あいさ)ること多少(たしょう)ぞ。
【素玄 註】相去る多少(雲煙万里)問佛は問禅の意。
【無門曰く】アーナンダは、釈尊の従兄弟にあたる、多聞第一の人である。だが、そこらで禅による生活の、庶民の見識と随分の格差、違いが出てしまったな。
【頌に曰く】剣刃上(けんにんじょう)に行き、
氷稜上(ひょうりょうじょう)に走る。
階梯(かいてい)に渉(わた)らず、
懸崖(けんがい)に手を撒(さっ)す。
【素玄 註】階梯云々(梯子段をノソノソ行くのと違う)撒手(修禅は崖にかけた手を離す様な絶妙の處に打発する)
【頌に曰く】禅者は、するどい刃(ヤイバ)の上を行くように、ツルツルの氷の上を走るように・・のんびり階段を上り下りするのでなく、高い崖にかけた手をツイと放すような・・絶妙な瞬間に打発(見性)するのだ。