禅のパスポート

禅語録 無門関no解釈to意訳

◆ある奴にやり ない奴から取る・・そうすると・・

禅のパスポート 無門関NO44 

有る奴にやり無い奴から取る・・そうすると禅が湧く 素玄居士

この則は・・初めから終わりまで素玄居士の文字通り丸写し。

読者の皆さん・・

今回は独り坐禅で素玄居士と真っ向・・相見してください。

           芭蕉 拄杖(ばしょう しゅじょう)第四十四則

           【本則】芭蕉和尚 衆に示して云く 

            汝に拄杖子(しゅじょうす)有(あ)らば、我 汝に拄杖子を与えん。

            汝に拄杖子無(な)くんば、我 汝が拄杖子を奪わん

【本則】素玄居士 提唱

禅坊主は なかなかキイタ風なことをぬかす。

有る奴にはやる。

無い奴から取る。この拄杖子とは禅坊主の持っている棒のことで、禅のシンボルに用いられる。碧巌集にもよく出てくる。

本則は禅のある奴には、禅で応対してやろう。

禅のない奴なら禅を奪い取ってやる。

この禅は一物のなきことを指すのじゃ。

雑念妄想があると禅はない。

禅のないとは、この雑念妄想があることで、禅を奪うのは雑念妄想を奪うのじゃ。

そうすると、そ奴に禅が湧いてくる。

修禅の学人を接し これを自分と同じようにする、ツマリ禅の修行をさせるには、雑念妄想を抜きとるのじゃ。その手段はいろんな公案を捏ねくりまわし、棒し喝し あるいは、速やかに道え、速やかに道え・・とか、種々にしてまるでネズミが銭筒に追い込められた様にしてやる。

赤裸々にすじゃ。

慧可の不可得(ふかとく)じゃ。

こうなると雑念も妄想も居どころがなくなる。

廓然無聖(かくねんむしょう)じゃ。

すなわち雑念妄想を奪い取るのじゃ。

そうすると禅が湧く。

無一物中 無尽蔵(むじんぞう)カナ。

こんな説得法が古来のやり方らしい。

説得は師家の手腕で境に従って景ありじゃ。

本則は この逆にも見られる。禅を持っているぞ・・などと云う奴に拄杖子で一本ポンと喰(くら)らわしてやる。

悟臭の吩(ふん)たる奴にはこの手でやる。

禅も何もないと云う飛び切りな奴なら、そ奴から禅を引き抜いてやる。

即ち禅機を弄(ろう)し他の禅機を見るのじゃ。

本則は二様に見られるが、こんなのは講釈禅で公案の真意とは違う。

本則は有る奴にやり、無い奴からとる。

サアどうじゃと云うので、拄杖子はつけたのに過ぎぬ。重きに便にし、軽るきに便にせずじゃ。

これが活作略(かつさりゃく)じゃ。 

素玄云く 首吊りの足に噛みつく野犬かな

      【無門曰く】扶(たすか)っては 断橋(だんきょう)の水を過ぎ、

            伴(ともな)っては 無月の村に帰る。

            もし喚(よ)んで 拄杖となさば、

            地獄にはいること箭(や)の如し。

【無門曰く】素玄居士の註・・ソノママに意訳とします。

素玄 註・・断橋の水を過ぎ云々(橋の落ちた川をわたり、暗夜の村を行く時の杖、この杖を拄杖子と云わば堕地獄じゃ。拄杖子は杖でない)

             【頌に曰く】諸方の深(しん)と浅(せん)と、

                  すべて掌握(しょうあく)の中(うち)にあり。

                  天を撐(ささ)え ならびに地を拄(ささ)う、

                  處にしたがって宗風をふるう。

【頌に曰く】素玄居士の註・・ソノママに意訳とします。

素玄 註・・拄杖子じゃから掌中(しょうちゅう)にある。何にでも使える。天を撐え地を拄うと云うのも誇大にすぎて狂気じみている。こんな文句のある文章は 値打ちがない。     

【附記】 この則は・・初めから終わりまで、素玄居士の文字通り、丸写し。

読者の皆さん・・この則は、独り坐禅で素玄居士と相見なさることです。

こうした解訳は、この第2稿まで。第3稿は全くの内容を改め出版するため、この奉魯愚に掲載しません。

僧堂師家、先生方・・ある奴にやり、ない奴から取る。

餓鬼の如く、目を吊り上げて縋(すが)ってくる輩は・・始末が悪いが見込みアリ。

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◆辞めるな首相・・やっぱりか!

特別編  

  ◆辞めるな! 安倍首相!・・やっぱりか編

辞める決断なら、いつでも出来る。医者を国会に侍らせてでも、再度、宰相の座にあるのだから、誠実に・・マコトの字は「言ったことを成しとげる」の意・・憲法改正ぐらい、国会で眼鼻をつけて辞めれば・・と意見したのですが・・ボクシングのタイトルホルダーなみの、ただの人でした。

政治と言う魑魅魍魎(ちみもうりょう)の迷界には関与すまい。

次か また次の選挙でこれは!!と思える人に投票します。

確か、円覚寺の釈宗演老師の座右銘に

「ミダリニ過去を思わず、遠く将来を慮(おもんばか)れ」

妄不想過去・而遠慮将来・・とあります。

以上・・次回は素玄居士の無門関 意訳を続けます。

有(会)難とうございました。

 

辞めるな!安倍首相!

元服の書 NO49 特別編  2020-8-29

              ◆辞めるな! 安倍首相!

本日、心臓のカテーテル、ステント入れの手術から、無事生還してみると、安倍首相の辞任表明で、マスコミは大賑わい。

去る2月頃、コロナ騒ぎ勃発に、ゼネストの如き自宅自粛を打ち出した安倍首相を批判した奉魯愚を書きました。

政治と云うのは魔物(利権)の跋扈(ばっこ)徘徊するTPOだと言うしかないようです。

ボクシングの世界タイトル・・7年有余のチャンピオンなら、褒め称えられもしましょうが・・

いっぱしの評論家やTVマスコミ(新聞までも)公約の、何一つ実績を作らなかった首相を、ご苦労さんと送り出すのは、国政・国民の恥であろうと考えます。

安倍総理には、総理官邸あて・・本日、速達で、こうした旨の手紙を出しました。

辞職の政局が動くまでに、30日(日曜日)31日(月曜日)の2日間しかありません。

私は、この奉魯愚でしかアピールする方法をしりません。スマホもありません。

どうぞ・・この奉魯愚を読まれた方がた・・拝啓・安倍首相さま・・を知人友人の方々に広げて、ナンとか、こうした思い・・憲法改正を国会で決議するまで、辞めないで、責任を全うしてもらいたいこと・・伝えてもらいたい・・とお願いする次第です。

      拝啓・・安倍首相さま・・

総理を辞めさえすれば、それで済むような無責任なことでは、何のために再度の首相になられたのか・・せめて公約の憲法改正の眼鼻をつけてから、病気辞任を表明してほしいと思います。

    後は「ナルヨウニナル・・シンパイスルナ」一休宗純 遺言の通りでしょう。とりわけ、自衛隊のあり方や地方自治(コロナ対応)など、非常時(予想時も)の国内問題に、責任が持てる国内・自治の仕組みに、ザックリと憲法及び地方自治法の改正を、国会で採決してから辞めていただきたいのです。

憲法改正など大方の審議がすみ、後は国会の多数決(それが強行採決であろうと)で国民審判を仰げる千歳一隅のチャンスです。

中国やロシアや北朝鮮が、ほくそ笑むような総理の病気退陣にしてはなりません。どうせ北方4島や、尖閣竹島など、領土問題と拉致は、望みたくない戦争でもしなければ・・その受けて立つ戦争で勝たなければ、戻ってくることがない・・永久課題です。

安倍首相にだけ責任を押し付けてはならない問題なのです。

憲法改正が仮に国民投票で3分の2を取れずに否決されても・・私には可決されこそすれ、否決の理由がワカリマセンが・・国際社会に住む一員として義務と責任を持とうとしない愚かな日本になったな・・と思う話でしょう。

また、是を国際社会に常時、アピールするために、放送法を改正して、NHKを国営(税)放送に改め、約6千億円の国民負担を軽減してもらいたいと思います。NHKなど見もしないTVをおいている家庭で年間1万2千円・・支払う莫迦らしさ・・まして2万人ほどの職員給与の平均が、国会議員と同列・それ以上とか・・庶民からすれば、いい加減にせよ・・ですよ。

それにリーマンショック以上の、国際的な不況です。

首相が昨暮、予告したように、消費税をゼロにリセツトして辞職してもらいたい・・のです。

(どうやら政界、財界、マスコミなど、こぞって黙秘です)放送法の改正を反対するのは(利権をめぐる)議員やNHK職員だけ。

 

更に、地方行政・自治の確立は、法改正なくしてはコロナ対策ひとつマトモニ対応予算化できない位、私でも理解できます。

元、大阪市長の橋下さんや、武田邦彦(中部大学)教授を相談役にして、主義や利権に関係のない、はたまた名誉・権勢欲に関与しない・・数少ない日本のバランスの取れた識者の意見を聞かれることを推奨します。

オリンピックは、パリのオリンピックの年・・4年遅れの順に、譲ってもらいたいと思います。世界的なコロナ騒ぎが収まって、東京そしてパリへと、順送りにしてやればいいではありませんか。

禅語「機(チャンス)を看て譲るなく・事に当たって再思せよ」

安倍総理には、総理官邸あて・・本日、速達で、言葉はきついカモ知れませんが、国会議事堂の首相席で、病に倒れて死んでください・・とお願いする旨の手紙を出しました。

しかし辞職の政局が動くまでに、30日(日曜日)31日(月曜日)の2日間しかありません。

私は、この奉魯愚でしかアピールする方法をしりません。スマホもありません。

どうぞ・・この奉魯愚を読まれた方がた・・拝啓・安倍首相さま・・を知人友人の方々に広げて、憲法改正を国会で決議するまで、辞めないで、責任を全うしてもらいたいと・・伝文する、ご協力をお願いする次第です。この文章は、下記・・3奉魯愚に掲載いたしました。

                         有(会)難とうございました。

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元服の書 NO49 特別編  2020-8-29

       ◆辞めるな! 安倍首相!

本日、心臓のカテーテル、ステント入れの手術から、無事生還してみると、安倍首相の辞任表明で、マスコミは大賑わい。

去る2月頃、コロナ騒ぎ勃発に、ゼネストの如き自宅自粛を打ち出した安倍首相を批判した奉魯愚を書きました。

政治と云うのは魔物(利権)の跋扈(ばっこ)徘徊するTPOだと言うしかないようです。

ボクシングの世界タイトル・・7年有余のチャンピオンなら、褒め称えられもしましょうが・・いっぱしの評論家やTVマスコミ(新聞までも)公約の、何一つ実績を作らなかった首相を、ご苦労さんと送り出すのは、国政・国民の恥であろうと考えます。

  • 安倍総理には、総理官邸あて・・本日、速達で、こうした旨の手紙を出しました。辞職の政局が動くまでに、30日(日曜日)31日(月曜日)の2日間しかありません。私は、この奉魯愚でしかアピールする方法をしりません。スマホもありません。どうぞ・・この奉魯愚を読まれた方がた・・拝啓・安倍首相さま・・を知人友人の方々に広げて、ナンとか、こうした思い・・憲法改正を国会で決議するまで、辞めないで、責任を全うしてもらいたいこと・・伝えてもらいたい・・とお願いする次第です。

今回・・拝啓・安倍総理サマ・・宛て、以下の緊急、意見を書きました。

 

拝啓・・安倍首相さま・・

総理を辞めさえすれば、それで済むような無責任なことでは、何のために再度の首相になられたのか・・せめて公約の憲法改正の眼鼻をつけてから、病気辞任を表明してほしいと思います。

後は「ナルヨウニナル・・シンパイスルナ」一休宗純 遺言の通りでしょう。

  • とりわけ、自衛隊のあり方や地方自治(コロナ対応)など、非常時(予想時も)の国内問題に、責任が持てる国内・自治の仕組みに、ザックリと憲法及び地方自治法の改正を、国会で採決してから辞めていただきたいのです。
  • 憲法改正など、大方の審議がすみ、後は国会の多数決(それが強行採決であろうと)で、国民審判を仰げる千歳一隅のチャンスです。

中国やロシアや北朝鮮が、ほくそ笑むような総理の病気退陣にしてはなりません。どうせ北方4島や、尖閣竹島など、領土問題と拉致は、望みたくない戦争でもしなければ・・その受けて立つ戦争で勝たなければ、戻ってくることがない・・永久課題です。

安倍首相にだけ責任を押し付けてはならない問題なのです。

憲法改正が・・仮に国民投票で3分の2を取れずに否決されても・・私には、可決されこそすれ、否決の理由がワカリマセンが・・国際社会に住む一員として、義務と責任を持とうとしない愚かな日本になったな・・と思う話でしょう。

  • また、是を国際社会に常時、アピールするために、放送法を改正して、NHKを国営(税)放送に改め、約6千億円の国民負担を軽減してもらいたいと思います。NHKなど見もしないTVをおいている家庭で年間1万2千円・・支払う莫迦らしさ・・まして2万人ほどの職員給与が、国会議員と同列・・それ以上とか・・庶民からすれば、いい加減にせよ・・ですよ。
  • それにリーマンショック以上の、国際的な不況です。首相が昨暮、予告したように、消費税をゼロにリセツトして辞職してもらいたい・・のです。(どうやら政界、財界、マスコミなど、こぞって黙秘です)

放送法の改正を反対するのは(利権をめぐる)議員やNHK職員だけ。

  • 更に、地方行政・自治の確立は、法改正なくしては、コロナ対策ひとつ、マトモニ対応、予算化できない位、私でも理解できます。

元、大阪市長の橋下さんや、武田邦彦(中部大学)教授を相談役にして、主義や利権に関係のない、はたまた名誉・権勢欲に関与しない・・数少ない日本のバランスの取れた識者の意見を聞かれることを推奨します。

  • オリンピックは、パリのオリンピックの年・・4年遅れの順に、譲ってもらいたいと思います。世界的なコロナ騒ぎが収まって、東京そしてパリへと、順送りにしてやればいいではありませんか。
  • 禅語に「機を看て譲ることなく・事に当たって再思せよ」とあります。
  • 安倍総理には、総理官邸あて・・本日、速達で、言葉はきついカモ知れませんが、国会議事堂の首相席で、病に倒れて死んでください・・とお願いする旨の手紙を出しました。

しかし辞職の政局が動くまでに、30日(日曜日)31日(月曜日)の2日間しかありません。私は、この奉魯愚でしかアピールする方法をしりません。スマホもありません。どうぞ・・この奉魯愚を読まれた方がた・・拝啓・安倍首相さま・・を知人友人の方々に広げて、憲法改正を国会で決議するまで、辞めないで、責任を全うしてもらいたいと・・伝文する、ご協力をお願いする次第です。

この文章は、下記・・3奉魯愚に掲載いたしました。

有(会)難とうございました。

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禅のパスポートNO43 ボンヤリ坐禅に喝!

 無門関NO43  

ボンヤリ坐禅に喝(気合を入れる)公案・・竹ベラにコダワル阿呆か・・用途について回る馬鹿か・・阿波踊りのような「禅」になるな・・

           首山 竹箆(しゅざん しっぺい)第四十三則 

           【本則】首山和尚 竹箆を粘じて衆に示して云く

              汝ら諸人 もし喚(よ)んで竹箆となさば則ち觸(ふる)る。

              喚んで竹箆となさざれば則ち背(そむ)く、

              汝諸人、しばらく道え、喚んで何んと為すや。 

【本則】素玄居士提唱 竹箆と云うたら竹箆に即し、竹箆についてまわって禅じゃない。

しかし竹箆と云わなければ嘘を云うことで竹箆に背く(そむ)く。

古人は いろいろにして即することなきを鍛錬したもんじゃ。

潙山の浄瓶と同じ類則じゃ。

竹箆を折ってもよいが チト荒々しすぎる。

潙山が浄瓶を蹴とばしたのは 知恵がなさすぎるし野狐禅的じゃ。

こんな處を工夫するのが禅機の修行じゃ。

禅は祖佛と別ならずじゃが、禅機は千様萬態(せんようまんたい)で、その間に その禅者のもち味というものが出る。

それは古くなるほど味がいい。素玄の味も まだ少し麹(こうじ)臭い處があろうテ。

すこし位でないかも知れん。

玄云く 筋斗(きんと・トンボ返り)し、去る。

           【無門曰く】喚んで竹箆となさば則ち觸(ふる)る。

                 喚んで竹箆となさざれば則ち背く、

                 有語することを得ず、無語することを得ず。

                 すみやかに道え、、すみやかに道え。

 【素玄 註】無門もとうとう品切れになったらしい。

       同じ事ばかりだから評しようもない。

【無門曰く】これを竹箆と云ってしまえば、師の「名」を云うなとの禁句に触れる。

それじゃ竹箆じゃないと否定すれば、師の問いに逆らうことになる。

云うも・・云わずも・・逡巡(モゴモゴ)するナ!

速(すみ)やかに道(い)え、速やかに道え。

        【頌に曰く】竹箆を粘起(ねんき)して、殺活(せっかつ)の令を行ず。

              背触(はいしょく)交馳(こうち)す、仏祖も命(めい)を乞う。

 【素玄 注仏祖乞命(釈迦も達磨も閉口、頓着すると云うのだが、こんな用語は当たらぬ。いったいに禅の文句は、誇張が多く形容過大じゃ。

稍々(しょうしょう)鬼面 人を嚇(おど)すの感がなる。白隠なども甚(はなはだ)だしい。こうゆうことは 禅的じゃない。

思うに かかる誇張の言は、当時の市井(しせい)の用語法ではあるまいか。所謂(いわゆる)車夫馬丁(しゃふばてい)の用語は すべて誇張が多い。

【頌に曰く】首山老師が竹箆を持ち出して、生きるか死ぬか・・の一語を迫った。

・・答えられなければ、釈迦も達磨もイノチ乞い。

【附記】*シッペ返し=禅語のシッペイから出た言葉・・人差し指と中指で、相手の手首を打つ罰ゲームのこと。

竹箆(シッペイ)禅の師家が修行者を打って指導する・・4~50CM位の竹を籐で巻いた杖。

◆モノにつけた名前をいうな。モノにつけた用途、目的を云うな・・真に「無功徳、役立たずの自分とは何か」・・それだけを・・たった3分間独りイス坐禅で集中して看よ。

ボンヤリ坐禅は害になるだけ。してはナリマセン!

昔も今も・・言った、言わないとか・・利権に絡む争いごとが社会・生活で必ず発生しますが、突き詰めれば、それは自他に分別した意識・・主義・教育や社会制度が原因しています。

言い方がまずいかもしれませんが、(私は)そうした自分本位の文明・教育・進化?に対して、自然や地球からの冷徹なシッペ返しが来ていると思います。

◆(坐)禪には、欣求宗教や学問・社会制度でいう・・天国(極楽)地獄/平和・戦争/善・悪/生・死/優秀・劣等など比較区分がありません。

ただ・・自分の心の中の探求(静慮)だけです。何もない「空=無」の発見・発明と「無心=自覚」の見性が自得されるだけなのです。

科学の発達には、自他を分ける意識、考察が大事です・・ケレドモ・・分別の自他意識は生まれた後の、生活や教育環境ニヨルところが大半です。この意識を、平和だけ・・善だけ・・喜楽だけ・・好いとこ取りをして、その上、生まれたての赤ん坊のように、純真な姿を取りもどすのは・・容易ではアリマセン。孤の心境は禪ではありません。

とりわけ西欧人は、神との契約の意識が強く、彼我の対比の中に生活が立脚していますから、「心無心」ココロにココロナク・・とか、公案を看(ミ)よ・・とかの「手」の中で「目」と共に「看る」・・その意味を体感的に知ることは難しいのです。

「見る」という字は、辞書をチョット開くだけで・・観る/診る/視る/監る/覩る/覧る/覩るなど23文字もあります。表意文字(漢字)の微妙な意味合いは、ABCでは書き尽くすことはできません。まして2千年前~インド(サンスクリット)から、幾度か仏典は中国語に翻訳、再意訳されて、それを日本語に翻訳、再意訳され、ますます理解不能になってしまいました。さらに禅を少々齧っただけの学者でもない私が、約千年前の無門関と碧巌録を現代語訳に挑戦している有り様です。

しかも、過去、万巻の解説、経本がありながら 純禅が廃れた現実を看るにつけ、寺僧から親離れ子離れできなかった禪が、一度、滅却して、新たな独り坐禅の櫱(ひこばえ)から蘇ることを期待しています。

ですから、釈尊・達磨・恵能の初心に帰って、語録の解説内容は、垂示・本則・頌の主要な項目のみとして、着語(下語)や評語は、かえって文字に迷い、言葉に執着してしまうのを嫌って、本則(公案)の坐禅に集中できるようにしました。

禅は宗教ではアリマセン。何の損得、利害のない・・一人独りに備わっている「禅」の一人独りの自覚「無功徳」体験が大事なだけです。

この附記は、禅者の一語・禅のパスポート・羅漢と真珠の各ブログ(奉魯愚)に掲載します。

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◆女人出定(無門関 NO42)・・ドッチもどっちだネ!

禅のパスポート 無門関NO42    

      女人出定(にょにん しゅつじょう)第四十二則

      【本則】世尊、昔、ちなみに文殊もんじゅ)、諸仏の集まる處にいたって、

         諸仏おのおの本處(ほんじょ)に還(か)えるにあう。

         ただ一(ひと)りの女人あって

         かの佛座に近づいて三昧(ざんまい)に入る。

         文殊すなわち佛に白(もう)して云く、

         何ぞ女人は佛座に近づくことを得て、我は得ざる。

         佛、文殊に告げたまわく、汝 ただ この女を覚(かく)して

         三昧より起(た)しめて、汝みずから これに問え。

         文殊 女人をめぐること三匝(そう)、指を鳴らすこと一下(げ)して

         すなわち托(たく)して梵天(ぼんてん)に至って

         その神力を盡(つく)せども出だすこと能(あた)わず。

         世尊云(のたまわ)く、

         たとえ百千の文殊もまた 

         この女人の定(じょう)を出(い)だすことを得じ。

         下方(げほう)一十二憶河沙(がしゃ)の国土を過(す)ぎて

         罔明菩薩(もうみょうぼさつ)あり、よくこの女人の定を出ださん。

         須臾(しゅゆ)に罔明大士、地より湧出して世尊を礼拝(らいはい)す,

         世尊、罔明に勅(ちょく)す、

         かえって女人の前に至って 指を鳴らすこと一下(いちげ)す。

         女人 ここにおいて定より出ず。

【本則】世尊、昔 ちなみに文殊、諸仏の集まる處に至って、諸仏各本所にかえるにあう。ただ一女人あって、彼の佛座に近づき三昧に入る。文殊すなわち佛に白(もう)して云く。なんぞ女人の佛座に近づくを得て、我は得ざると。佛、文殊に告げて、汝 ただ この女を覚して三昧より起(たた)しめて汝自(みずか)ら之に問え。文殊 女人をめぐること三匝(さんそう 3回り)、指を鳴らすこと一下(回)して、すなわち托(たく)して梵天(ぼんてん)に至って、その神力(じんりき)を盡(つく)せども出だすことあたわず。世尊云く、たとえ百千の文殊もまた、この女人の定(じょう)を出だすことを得じ、下方一十二億河沙(がしゃ)の国土をすぎて、罔明(もうみょう)菩薩あり、よくこの女人の定を出ださん。須臾(しゅゆ)に罔明大士、地より湧出(ゆしゅつ)して、世尊を礼拝(らいはい)す。世尊 罔明に勅(ちょく)す。

かえって女人の前に至って指を鳴らすこと一下(いちげ)す。

女人ここにおいて定より出ず。

素玄居士提唱 これは人情劇じゃ。人情と云うと金や女に限らず 総じて執着が元じゃ。執着を女人に仮想して、人情劇が持ち上がったのに対する禅者(世尊は禅者だ)の処置で、禅者は事物に拘泥せず執着がない。けれども人情劇の中に飛び込んで、それをどうするという力もない。

禅者には金もなければ就職口のストックもない。

人情劇にはカラ意気地のない傍観者以上でありえない。けれども彼は虚明(きょめい)にして、執着がないから よく高所大局をすることができる。だから自然に落處を知る。落ち着く先がわかる。適当な意見、可能な処置をつける。

それがうまく行くかどうかはわからない。

それがわかれば禅者はこの世の神様みたいなもんじゃ。

うまくゆかなければ又その時のこと。深く拘泥することなしじゃ。これが禅者の処世人情策じゃ。世尊もここで この策をとって、まず文殊の無能を示した、智慧第一の文殊の理知や道理一片では處世にも人情にも、何の役にも立たぬことを教えたのじゃ。執着妄想に凝り固まっている人情劇には、人情の奥底を喘ぎ暮らした分別男の話でなくては始末がつかぬのじゃテ。下方十二憶の河原の石コロの中に、ゴロゴロしているような平凡俗愚の人間でなくては解結がつけれれぬ。世尊はそんな人間を見つけて連れてきて、人情劇の始末をさせたのじゃ。罔明が女を連れだして口説いたか、慰めたかはわからぬが、要するに處世人情に対しては 禅者は自分では何の力もない、ただ大局を達観し落處を知り、意見を述べて他をして処置させる位のもので それがよければよし 悪ければわるいでもよしじゃ。これ以上の力はない。力があるなどと自惚れたら地獄に真っ逆さまじゃ。ここらが處世観じゃ。そこの處に禅機がある。ここの禅機をスパリと掴かむのがこの公案じゃ。それが掴めたら禅者の處世もナルホドナアと、あきれるじゃろうサ。さあ素玄曰くを見よ。

素玄云く 強に遭(お)うては 弱、

       弱に遭うては 強。

        【無門曰く】釈迦老師 この一場の雑劇(ぞうげき)をなす。

              小小(しょうしょう)に通ぜず。

              しばらく道え、文殊はこれ 七佛の師、

              何によってか 女人の定を出だすことを得ざる。

              罔明は初地(しょち)の菩薩、

              なんとしてか かえって出だし得る

              もし者裏(しゃり)に向かって見得(けんとく)し 

              親切ならば 業識(ごっしき)忙忙(ぼうぼう)たるも

              那伽(なぎゃ)大定(だいじょう)ならん。 

【素玄 註】ここでチョツト前に書き落としたことを附けておく。諸佛おのおの本處に還えるとは、善知識はみんな自分の本據(きょ)がある。厳(いか)めしい城郭のようなもんじゃろか、近づきにくい處があるのじゃ。軍人風とか学者風とか、金持ち面、道徳面など等じゃ。女人が世尊の傍(かたわ)らにヘバリついたのは、禅者にはコンナ城郭がない。廓然無聖じゃ。誰でも近寄ることが出来るのじゃ。入るを拒まず去るを追わずじゃ。しかし諸佛の方では人情が入り込むと逃げ出すものと見える。

金でも貸せと云われはせぬかと心配するのじゃろう。

諸佛もずいぶん肝っ玉の小さい奴どもじゃ。 

小小を通ぜず(少々の工夫じゃわからない)那伽の大定(那伽は大、また龍ともいう。大定は禅の即するなきの意。

世態人情の忙々(ぼうぼう)たる中にあって大定を行ずの意。

【無門曰く】釈迦に纏わりつく女人・・少しの坐禅や工夫している禅者では、座を立たせることすらできない。文殊菩薩は七佛の師(ビバシ佛、シキ佛、ビシャフ佛、クルソン佛、クナゴン牟尼佛、迦葉佛、釈迦牟尼佛)と言われるが、どうして女人の定に疎(うと)いのか。居並ぶ諸仏、それぞれの思惑、算段ありすぎて(愛だの慈悲だの・・無関心の仏頂面に愛想がつきた)女人である。釈尊(禅者)には、何の計らいもないから、警戒心がなく誰でも何でも近寄ってくる。しかも去るを追わないから未練もない。

罔明菩薩は、役立たずの禅にヒタスラ片思いする純な輩だから、女人も疑わない。

真の禅者とは・・痘痕(アバタ)も笑窪(エクボ)の、世渡り人情の喧騒の中にあって、「エクボもアバタ」の・・どっちもどっちの「禅による生活」を行ずる(風流の)人・・をいう。

          【頌に曰く】出得不出得(しゅっとく しゅつふとく)

                かれ儂(わ)し、自由を得たり。

                神頭(じんず)ならびに鬼面(きめん)

                敗闕(はいけつ)は 當(まさ)に風流。

【素玄 註】出るも出ぬも渠(かれ)は渠。儂(わし)は儂で共に自由を得た。この渠、儂を女人と罔明とするは誤まりならん。出得不出得を指すとす。

お神楽の鬼の面でも神の面でも勝手に出す、敗闕は失敗で 文殊、無能なことも笑止々々。

ただし禅では敗闕も嫌うていの法ならずじゃ。

【頌に曰く】定(禅の即するなき境地)を出るも出ないもない。彼は彼、私は私で共に自由だ。この彼を女人とし私を罔明とするは大きな誤りだ。禅者は出すときは、鬼の面でも神様の面でも自由に出す。文殊の失敗は「痘痕も笑窪」を「エクボもアバタ」と云ったことだ。だが、これも風流・・笑わば 笑え。

【附記】文殊の失敗・・笑窪(えくぼ)も痘痕(あばた)・・

     罔明菩薩・・アバタもエクボ!・・

      ドッチもどっちの菩薩サマだネ!

世尊・・仏陀・・釈迦牟尼仏の事。文殊菩薩智慧を代表し、観世音菩薩は慈悲を表現した姿。

罔明は無明(無知)の意。とにかく、沢山の悟りの段階に応じた名前付けをしていますが、例えですから知らなくて結構の・・仏教用語です。

三昧(ざんまい、地/サマージ)禅定の世界の意。

女性の坐禅・・釈尊の最初の女性の弟子は、ヤソーダラー(妻)・・尼さんのはじまりです。

(追記・・息子ヤーフラも後年、弟子となります)

 

悟りとか見性とか・・名前なんぞどうでもよい。 素玄の一語、領得できたかな?

禅のパスポート 無門関NO41  

達磨の面壁禅・・しかも、タッタの「三分間独りイス禅」を提唱する私にとって、昔・・神田の古本屋で「提唱 無門関」著者 素玄居士(高北四郎/東京市池袋2丁目/昭和12年8月発行・発行 狗子堂、絶版132頁)の小冊子を発見、手にできた喜びは、第36則「路逢達道」の公案、頌のとおりでした。

この達磨の則に、素玄居士 緒言の一節を前後を略して書いておきます。詳細は第三稿 冒頭に紹介します。

◆禅は学問ではないので講釈(解釈)すべきなしだ。ただし、ひねくりまわして見せるだけじゃけれども、極所に到る道筋は、いくらでも話すことが出来る。

今時の贋老師など話して差し支えのないことを神秘めかす。

本書は筆舌しうるドンヅマリまで書いておいた。そして 各公案ごとに「素玄曰く」を附けた。提唱(禅者が我が意のままに)する以上、その公案が透っていなければ出来ないことじゃ。

提唱者は評とか頌とかで見せなければ値打ちがワカラン。

この頃の提唱にそれは無いようじゃが、それは卑怯で つまり未悟底なのじゃ。この素玄曰くは正札をブラ下げて店先に並べたのじや。たいして値打ちがないので恥ずかしい限りじゃが、本にした以上、これが責任じゃ。

高いか安いか曝し物じゃ。

頌としなかったのは、文体の自由を欲したからである(後略)

      達磨安心(だるま あんじん)第四十一則 

     【本則】達磨 面壁(めんぺき)す。二祖雪に立つ。

         臂(ひじ)を断って云く、

         弟子 心いまだ安からず、乞う師 安心せしめよ。

         磨云く、心をもち来れ、汝がために安(あん)ぜん。

         祖曰く、心をもとむるに、ついに不可得。

         磨云く、汝が為に安心しおわんぬ。

【本則】素玄居士提唱 達磨は南インド香至国の第三王子・・

当時、釈迦より二十七代の禅者、般若多羅(はんにゃたら)尊者あり。ある時、宮中に召され無価の宝珠を授けらる。尊者、王子を試さんとして、世にこの珠に優るものありやと問う。

達磨この時七才、答えて曰く「この珠は世宝なり。最も尊きは心宝なり」と。尊者、驚嘆して請うて弟子となす。その後、修行する事四十年、法を嗣いで二十八祖となり、次いで支那に渡り、梁の武帝との問答あり。碧巌集の第一則なり。のち嵩山の少林寺に入りて面壁し、この間に本則のことがあったのじゃ。

二祖が臂(ひじ)を断ったとは、すこし酷(ひど)すぎる。ある書によると、当時、腕を斬られた盗賊が横行していたとのことで、それらと混雑したのかも知れない。

心を求むるに不可得か可得かどうか、読者自ら試みよじゃ。 

精神を精神することは出来ないのじゃから、不可得となるが、それを直に悟入としたら、二祖の安心もおかしなもんじゃ。

不可得のことが理解せられるのではいけない。

この不可得の心を領得するのが、ここに二祖のいう不可得なのじゃ。達磨は、そこのところを安心としたのじゃ。不可得なることを直接に領得するのじゃ。

公理や定理を援用する幾何学の証明では役に立たぬ。

二祖はそれを直接にした。

直接にしてみたが、それはそれまでのことじゃ。

達磨に、それが悟りだと云われたので、ハハア、これが悟りなのかと云うことになったのじゃ。悟りの名はどうでもよい。

名前をどうつけたところで、悟入のことに変わりはないし、名前によって悟入のことを彷彿(ほうふつ)することもないのじゃ。

素玄云く「空室 人を見ず、坐具凹(へこ)むこと 寸・々・々 (凹―心・凹―無・凹―心)

     【無門曰く】無門云く、缺歯(けつし)の老胡(ろうこ)

          十万里 海に航(ふなわた)りして、特々として来たる。

          謂(いつ)つべし、是れ風なきに浪を起こすと。

          末後に一箇の門人を接得(せっとく)するに、またかえって六根不具。

          咦(いい・わらうの意)、謝三郎(しゃさぶろう)四字を識(し)らず。 

 【素玄 註】訣歯云々(歯の抜けた老人、達磨を指す)風なきに云々(禅などという煩(うるさ)いことのなかったのに、禅を持ち込み)六根不具(片腕のない不具)咦(語意を強む、笑う態)謝三郎云々(謝三郎は漁師のことなりと、四字について定説なきに似たり。4個の文字となすは いたずらに疑義をうみ 文章をなさず四の字の義とすべし。漁夫 自分の名の三郎の三を知るも四を識らずの意とせば、禅機に洽當(こうとう)し通ずるに似たり。三を得て四に及ばずか)

【無門曰く】遠くインドの地から、海路、中国に、呼ばれもしないのに「禅」を持ち込んできた、歯抜けの老人・・ダルマさん。

まるで、幽霊が実在するかのような騒ぎになってしまったぞ。

たった弟子一人の引導を渡したが、そいつは両足がないのじゃなく、片腕がない奴だった。ハ・ハ・ハのHA!だな。

昔、三郎と言う名の漁師がいたが、四つまで数えられなかった。

いっそのこと「三四郎」と名付ければ良かったろうに・・

      【頌に曰く】西来(せいらい)の直指(じきし)、

           事は嘱(しょく)によって起る。

           叢林(そうりん)を撓聒(にょうかつ)するは、

           元来(がんらい)是れ儞(なんじ)

 【素玄 註】達磨 西来して支那にきたり、直指人心 見性成仏を説き、釈迦の迦葉に対するが如く、大法を二祖に附嘱(ふしょく・タノムの意)す。禅を統括するは元来 達磨。

【頌に曰く】釈尊直伝の安心の禅・・直指人心・見性成仏(禅)を引っ提げて、ハロバロ中国にやってきた達磨さん。禅の寺僧を統括するのは、達磨さんのはずなのに・・

【附記】悟りの名前なんぞ、どうでもよいのです。

大事なのは・・素玄居士の一語=坐具が凹むこと・・領得できましたか?

凸凹を「心」として、それにコダワル。理解したと錯覚するのは、鼻先にクソブラサゲテ屁元を探す阿呆のすること(澤木興道)・・思考の文字・言葉に、何度も何度も騙され、裏切られる・・執着・コダワリです。人とは「業」深き、悪臭無限のいきものですナァ・・

*たしか国宝(京都国立博物館)に雪舟「慧可断臂の図」があります。嵩山少林寺に面壁九年の坐禅三昧の当時、達磨の弟子は十人もおりません。その大事な慧可(42才)の入門に、抗生物質も、痛み止めもない、昔々、ひじを切るまでしなければ、入門を許さなかった達磨さんなら、私は「はるばる海路でインドから来た、達道の禅者」と認めません。この臂ヒジ切断の行為を「佳きかな、法の為に形を忘する」・・激しい求道心として讃辞する僧堂師家がいますが、私は否定します。

*素玄居士の云うように、当時は、世情は乱れ、強盗横行の時代です。安心を求道し、悩み苦しみ、目をギラギラ血ばらせて、雪中に平身低頭して入門を願う(ナリフリかまわぬ・・形を忘れた)求道姿は、片腕を斬られた盗賊のように見えたことでしょう。

暑いインドと違い、寒い少林寺の達磨さんは、アタマから毛布をかぶって、ひげも剃らずの画像があります。師が毛布をかぶって坐する前に、弟子が雪中に臂を切って教えを乞うなど、達磨を精神異常者に仕立て上げてはなりません。

達磨の面壁禅は、邪教として再三、仏教僧侶に毒殺されかかった伝があります。

禅者は、求道者の歩く姿や、立ち居、振る舞い(言葉入らず)で 素質・禅境を見抜きます。

ハッキリ、達磨を誤解している教導である・・としておきます。

*併せて・・無門関 第十四則 南泉斬却猫児(碧巌録 第六十三則/第六十四則 趙州頭戴草鞋)東西の僧堂の求道者が、米倉を守る大事な猫を取り合う騒動で、南泉普願(748~834)と弟子、趙州従諗(778897)の、猫斬り問答に異議ありです。

玄宗皇帝と楊貴妃の時代・・禅が、圧政を逃れて深山幽谷に潜んだ、最も「純禅」に徹した頃の・・最も優れた禅者、南泉と趙州の逸話です(他に百丈懐海や潙山霊裕、黄檗希運などの時代)

ワザワザ包丁を隠し持って大衆の前に立ち、禅機発露のチャンスとばかり、一匹の猫を掲げて、道い得れば、是を斬らず・・とは。

さすが南泉、道のために猫斬りの殺生も辞さない禅者である・・と、お偉い?提唱のご老師が云うのに、あきれ果てます。ドサマワリの三文芝居よろしく、後の僧侶の手で脚色・演出されたことは明らかです。

ただ一人、柳田聖山著「禅の山河」発行・禅文化研究所で、猫斬り事件を、南泉、冷や汗もので反省していると庇っていますが、馬祖道一に叩き上げられた南泉です。台所からワザワザ包丁を隠し持ち、殺生の立役者になるほど舞い上がった禅者ではありません。

百丈の弟子、潙山霊裕が登場する公案(碧巌録、第四十則)で、潙山が浄瓶(水差し)を蹴倒して退出する事件があります。もし、潙山がその場に居合わせたら、南泉の包丁を奪い取って、南泉、逆に命乞いをせざるを得ないことになったでしょう。少し禅を齧った者なら、煩悩即菩提。猫斬り南泉の殺生に嫌気をさして、サッサと南泉山から退散したことでしょう。こうゆう粉飾禅を誠しやかに伝えるから禪が滅ぶのです。

素玄居士の(第14則 南泉斬猫)提唱と、説が違いますが同意と覚心しています。

歴史の中には、どうも胡散臭い逸話がよく登場します。また、現代の動物愛護、虐待の観点での話でもありません。ご用心!

はてなブログ「禅者の一語」碧巌録意訳に詳細、記述しております。

妄想(分別知識)不安は迷いの素/安心・ZENは悟りの元・・ひとり独りの表裏に完備されているぞ!

禅のパスポート 無門関NO40  

迷いとは、初めからチャンとある道を見失しなうこと・・(3分間イス坐禅して)見失しなわなければ、迷い途惑(とまど)うことはない

        趯倒浄瓶(てきとう じんびん)第四十則 

【本則】素玄居士提唱 (浄瓶を)呼んで「木の株」となすべからずとは、常人の言うことじゃ。

これでは駄目じゃ。

じゃが、潙山(いさん霊裕れいゆう)が蹴とばしたのは、野狐禅でもやりかねないから、モット手許を見なくちゃいけないが、會下の者じゃから試験するまでもないのじゃ。

しかし蹴とばしは、禅機の内でも一番容易なことで、野狐禅者流がいつも誤魔化す手だから、潙山としてはもう少し気の利いた作略があって欲しいとは思うが、それもまあ、よしとして、潙山も開山当時はこんなもんでもあろうかい。

この話は司馬頭陀(しばずだ)という坊さんで、地理も探り人相も見る人がいて、百丈の處で話するのには、大潙山(だいいさん)という山は、結構な山で千五百人の善智識が住まれるという。

それでは俺(百丈)が行こうと云うと、貴僧は骨の人で肉の人でない。あれは肉山であなたなら千人も集まらぬと云う。

それなら俺の會下にいないかしらと云うので試験することになった。

百丈は侍者に首座(華林けりん和尚)を呼ばせると、頭陀は少し歩けと云う。首座が数歩行くと、之はアカンと落第した。

次に典座(てんぞ・台所役)をしていた(潙山)霊裕を見せると、一見して大潙(山)の主人なりと云う。

このことを首座が聞いて、拙者を差し置いて、典座が住持するのは怪しからんと抗議が出た。

それで百丈は、公平に一山の大衆を試験するとなって、この則が出来たのである。

浄瓶は水さしのこと。禅者は浄瓶でも死蛇でも、なんでもござれで、それをどうあしらうかは規矩(きく、法則・約束事)あることなしじゃ。

  【本則】潙山和尚、始め百丈の會中にあって典座(てんぞ)に充(み)つ。

      百丈まさに大潙(だいい)の主人を選ばんとす。

      すなわち請(しょう)じて首座(しゅそ)と同じく

      衆に対して下語(あぎょ)して出格の者、往(ゆ)くべし。

      百丈ついに浄瓶(じんびん)を拈(ねん)じて

      地上に置いて問を設(もう)けて云く、

      喚(よ)んで浄瓶となすことを得ざれ、

      汝よんで甚麼(なん)とか作(な)さん。

      首座すなわち云く、喚んで木揬(ぼくとつ)となすべからず。

      百丈、かえって山に問う、

      山すなわち浄瓶を趯倒(てきとう)して去る。

      百丈、笑って云く、第一座、山子(さんす)に輸却(しゅきゃく)せり。

      よって之(これ)に命じて開山(かいさん)となす。

素玄云く「瓶口を地にし瓶底を天にし去る」

      【無門曰く】潙山 一期(いちご)の勇、

       いかんせん百丈の圏圚(けんき)を跳(おど)り出でざることを。

       撿點(けんてん)し もちきたれば、重きにたよりして軽きにたよりせず

       何が故ぞ、ニイ(さあドウダの意)

       盤頭(ばんず)を脱得して鐵枷(てつか)を擔起(たんき)す。

【素玄 註】圏圚(分回し・・分度器の意、百丈以上の器量を示さぬ)。重きに便にす(優れた者には余計、便宜にする。それと潙山が台所の道具の盤から解放されたが、住職と言う重い仕事を押し付けられた意図を兼ぬ)

【無門曰く】百丈山で、典座役の潙山霊祐が、これぞ転身の大チャンスとばかりに、水差しをひっくり返したが、百丈の手のひら・・結界を出られないブザマなことになってしまった。優れモノには、一層の便宜だての出世コースに乗せてもらったので、包丁一本、板場の修行は卒業できた。その代わり、千五百人の求道者を仕切る管理、運営の責任者に就かされてしまったぞ。

【頌に曰く】笊籬(そうり)ならびに木彴(もくしゃく)を颺下(ようげ)して

      當陽(とうよう)の一突(いっとつ)周遮(しゅうじゃ)を絶す。

      百丈の重關(じゅうかん)さえぎれども住(とどまら)ず、

      脚尖趯出(きゃくせんてきしゅつ)して 佛麻(ほとけ ま)のごとし。

【素玄 註】當陽云々(明々たる一機略 遮えぎる事なし)。

如麻(禅者 麻の如く群出の意)

【頌に曰く】台所のザルやら、ナンやらかやら、道具一切放り出して、ただ、禅による生活一路をまい進する潙山。百丈も止めようがないようだ。さすが典座の長い経験を生かして潙山(中国、湖南、潭州)で、食イッパグレのない禅者をゾロゾロと輩出しよったぞ。

【附記】浄瓶(水差し)のこと。これを首座は「木の株」とは呼べないと答えた。首座は、何年も、どんな坐禅をしてきたのか・・禅機に疎(うと)い人である。

禅語録には、百丈(山)懐海(720~814)のもとで(潙山)霊裕(771~853)が、火鉢の灰を掘り返して小さな火種を見つけ出す・・問答で省悟する公案がある。

人間である限り、誰でも内面に大機(機縁)の火だねを持っているが、大用(生活、行い)の灯火となるには・・自ら働きだす「今・ここ」の覚知が大事である。彼は、百丈の俗弟子、司馬頭陀(しばずだ)に推挙されて、虎の住む山奥、潙山の破れ小屋に、独り8年間、坐禅に明け暮れている。のちに1500人の求道者が、入れ替わり立ち代わりして 潙山を慕って集ったという。

坐禅の「坐」は、人と人を、土の上に分けて書いてある。これを自分と他人に区分してあると解釈してはならない。あえて言えば「自我エゴ/自己セルフ」自分の感性と理性・自己の分別(ぶんべつ)比較作用・臨済の道う「造作するなかれ」の心を天地同根に融け込ませていく坐相なのだ。

すべては、顔や姿や言葉や形や型式にこだわらず中身(行動)が大事だ。

これこそ・・役立たずの坐禅をすることから芽生える禅機なのである。

潙山は、のちに弟子、仰山に対し「子の正しきを尊ぶ。子の行履(あんり・倫理)を説かず」という。禅で大事なのは見識であり、師、百丈の「一日作さざれば、一日食らわず」の見識の実行を、自らが「火種問答」から発見、大悟した人である。

(のち潙山仰山の師弟で、気品の高い潙仰宗の始祖となる)

 

はてなブログ 禅者の一語・・碧巌録 意訳中

はてなブログ 禅のパスポート・・無門関 素玄居士提唱 復刻解訳中

はてなブログ 羅漢と真珠・・独り3分間イス坐禅の仕方、禅の心禅の話

無門関NO39 「純禅」は問答の釣り針に引っかかった魚でなけりゃ解らない!

禅のパスポート               

    無門関 雲門 話堕(うんもん わだ) 第三十九則

     【本則】雲門 因(ちなみ)に僧問う、

        光明寂照遍河沙(こうみょう じゃくしょう へんがしゃ)と。

        一句いまだ絶せざるに、門、にわかに曰く

       「あに是れ張拙秀才(ちょうせつ しゅうさい)の語にあらずや」

        僧云く「是(ぜ)」

        門云く「話堕せり(語るにおちた)」

        後来死心(こうらいししん 後に黄竜死心禅師)拈(ねん)じて云く

        しばらく道(い)え、

        那裏(なり)か是れ 者僧(このそう)話堕の處。 

【本則】素玄居士提唱 他人の作ったのを云うたからとて それが話堕でない。同じ事をオーム返しにするのは、白隠老漢の常套手段じゃ。話堕は別のところにある。死心がこれを拈じたのは なかなか眼が鋭い。雲門が話堕の處を勘破(かんぱ)したのは禅機俊発(ぜんきしゅんぱつ)じゃ。他人の語を用いて、それに自分の禅機を入れ換えるのは いくらも例がある。

オーム返しじゃが、その実 自分の禅を表現するのに他人の語を徴発するのだ。

「如何なるか是れ 曹源一滴水(そうげんのイッテキ水)」眼云う「曹源の一滴水」。

あるいは、「清浄本然云う 何としてか忽(たちま)ち山河大地を生(しょう)ず」覚云う「清浄本然 云う何としてか忽ち山河大地を生ず」こんなのは話堕でない。

光明云々(うんぬん)の句は張拙が石霜(せきそう)和尚に参じた時、霜云く「功をもとむるに 尚 不可得なり。拙いずれの處よりか来たる」と問うたので、拙 忽然(こつぜん)として大悟し偈を呈した。

「光明寂照河沙に遍し、凡聖含霊(ぼんせいがんれい)共に我が家、一念生ぜざれば全体現(げん)ず、六根わずかに動けば雲に遮(さえぎ)らる。煩悩を断除すれば重ねて病を増す、眞如に趣向(しゅこう)するも また是れ邪、世縁(せえん)に堕順(だじゅん)して罣碍(けいげ)なく、涅槃生死(ねはんしょうし)空華(くうげ)に等(ひと)し」

この第一句を借りたのじゃ。

だが借り物では駄目じゃ。要は自分の肚(はら)から出なくてはならない。本則の工夫は また別の所にある。雲門話堕の用所は また格別に味がある。僧にからまったら了期(りょうき)なしじゃ。

無門が話堕の則で拳をあげて通関したと云うことだが、コイツ素敵じゃ。

この則は難透(ナカナカ悟れない)で南天棒なぞ傍(かたわ)らにも寄れぬ。

素玄云く

「ラジオをきいて念仏することなかれ、

犬の戯(たわぶ)るを見て涙を流すことなかれ」

    【無門曰く】もし この裏に向かって雲門の用處孤危(ようしょこき)、

         この僧 何によって話堕するということを見得せば、

         人天の為に師となるに堪えん。

         もし いまだ明らめずんば自救不了(じぐふりょう)

 【素玄 註】この僧云々(この僧と話堕とは一ならず二三ならずじゃ。それをこんな具合に塗り付ける處が悪辣という奴じゃ。

この僧が話堕したというたら、雲門の用處孤危なるなし。

本則はよく誤魔化される(無門は拳を竪てた)

自救不了(自分が悟ることは終に成らぬ)

【無門曰く】この雲門のオーム返しは危険がイッパイあるぞ。

この求道者の問と話堕には・・よくよく注意して、胡麻化され、騙されるなよ。体得できなければ、悟りは永久に来ないと知れ。

山本玄峰著 無門関には・・この則の雲門の宗旨が手に入らないと、高座で提唱してはならないと言われている・・ソウナ)

       【頌に曰く】急流に釣りを垂(た)る、

            餌を貧(むさぼ)るものは著(つ)く。

            口縫(くぼう)わずかに開けば 

            性命喪却(せいめいそうきゃく)せん。

 【素玄 註】食餌(即、ついてまわったら命がなくなる)處で本則の餌はどこにあるかナ。南に向かって北斗を見る。この頌もよろしいが言事を展ぶるに似たり。

【頌に曰く】雲門は急流で釣りをする奴だ。ナカナカ難しい釣りだけれども、腹のへった魚(求道者)は(釣り針を想わず)すぐにひっかかる。せっかく雲門の釣り針に引っかかり、釣り上げられたのだから、これを機に藻掻き死ぬがよい。南半球で道に迷って、北斗七星を探すようなことをするなよ・・助かる命も助からないぞ。

                           

無門関 第38則 日頃の行いが総て・・ホントに大事だぞ!

禅のパスポート 

無門関 牛過窓欞(ぎゅうか そうれい)第三十八

     【本則】五祖曰く 

         たとえば水牯牛(すいこぎゅう)の窓欐(そうれい)をすぐるが如し

         頭角四蹄(ずかくしてい)すべて過(す)ぎ了(おわ)る

         何によってか尾巴(びは)過(す)ぐることを得ざる。

【本則】素玄居士提唱 窓の外を水牛が通る、頭も脚(あし)も通ったが尻ッポだけ通らぬとは変な話じゃ。禅者は実に奇想天外なことを吐(ぬ)かす。尻尾だけが牛の体から離れたわけでもあるまいし、それが通らぬとは、白昼 人を誑(たぶら)かすというもんじゃ。

けれどもナカナカ味がある秀逸の方じゃ。

尻尾の通らぬ奴は狐に化かされているのじゃ。

尻ッポの通る奴は狐を化(ば)かしているのじゃ。五祖も嘘をついたわけではないが、狐のようなことをする。尻尾をシッカリつかんでいると、牛にひかれて善光寺詣(まい)りじゃ、トンダ處(ところ)に連れていかれる。

那箇勿言不道(なこか いわずと言うなかれ)

素玄云く「子供の喧嘩(けんか)に親が飛び出し、拳(こぶし)を握って コノ餓鬼(がき)と口まで出たが 他人の子供、殴られもせず、スゴスゴ帰って元の陪屋(あばらや)」

ヤレヤレ、尻ッポは透(とお)らん。

   【無門曰く】もし、者裏(しゃり)に向かって顛倒(てんどう)して

         一隻眼(いっせきげん)を著得(じゃくとく)し、

         一転語(いってんご)を下しえば、もって上四恩(かみしおん)を報じ

         下三有(しもさんぬ)を資(たす)くべし。

         それ あるいは未だ然(しか)らずんば、さらに 

         すべからく尾巴(びは)を照顧(しょうこ)して始めて得(う)べし。

素玄 註顛倒(この語が無門の一転語で ここはナカナカよい。顛倒してみたらどうなるかナ)三有(欲界・色界・無色界の三界済度)照顧(尾巴とは何か、よくよく見よ)

【無門曰く】ものごとは、一度、180度、ひっくり返して看るに限る。骨董屋でも、抹茶茶碗はひっくり返して、高台を見てから値決めするぞ。

達道の禅者なら、禅による生活、実践の一語のみ示してみよ。

欲界、色界、無色界、あらゆる世界を解放できるぞ。

      【頌に曰く】過ぎ去れば坑塹(きょうぜん)に堕(お)ち、

            かえり来(きた)れば かえって壊(やぶ)らる。

            者些(しゃしゃ)の尾巴子(びはし)、

            直(じき)にこれ はなはだ奇怪(きかい)なり。

素玄 註過去云々(尻尾が過ぎるとしても、過ぎ去らないとしても禪にはならぬ)奇怪奇怪。

【頌に曰く】もし窓から抜けると、深いタコツボに落ちるぞ。

後戻りは元の木阿弥。バレバレの禅修行が露呈する・・厳しい公案です。

尻尾が窓から通過するにしても、尻尾だけが通過できずに残るにしても、ソンナ牛の尻尾にこだわる禅はいらない。

禅になりようもない牛の尻尾だ。

そこの坐禅三昧(とやらの)お前さん。

牛の尻ッポは・・コリャ 日頃の行いの・・たとえ話だぞ。

はてなブログ 禅者の一語・・碧巌録 意訳中

はてなブログ 禅のパスポート・・無門関 素玄居士提唱 復刻解訳中

はてなブログ 羅漢と真珠・・独り3分間イス坐禅の仕方、禅の心、禅の話

 

◆この則(趙州)は・・大泥棒だ!

禅のパスポート 無門関NO37  

本則(趙州云く)はチョットおかしいぞ・・素玄居士

     庭前柏樹(ていぜん はくじゅ)第三十七則

                【本則】趙州 ちなみに僧問う

                    如何なるか是れ 祖師西来の意

                    州云く 庭前の柏樹子(はくじゅし)

【本則】素玄居士提唱 亭々たる庭前の柏樹子趙州は禅院の庭の柏の樹)・・これが「禅」じゃというのだが、「麻三斤」(洞山18則)にくらべてハナハダ見劣りがする。

趙州門下(法嗣)の覚鐵觜(かくてつし)が、先師にこの語なし。先師を謗(ぼう・・あざむく)するなくんばよし、と云っているが、それが本当であろう。

趙州ともあろう者が、こんな下手くそなことを云うはずがない。

乾屎橛(雲門21則、かんしけつ・・くそカキベラ)などの方がはるかによい。

本則に賊機あり(関山国師)と云うが、それは胡魔化しがあるというのでなくて、学人を錯(あやま)り、未徹底なとこがあるのじゃ。

(この事は書かれぬ)

これは各人修行して自得しなくては禅に力が出て来ぬ。

無門が本則を加えたのはチトおかしいテ。

素玄云く 柏樹 古家に榜(そばた)つ。

      【無門曰く】もし趙州の答所に向かって 見得して親切ならば

            前に釈迦なく 後ろに彌勒(みろく)なけん。

【無門曰く】省略【素玄 註】本則が透ったら違った見当へ行く。迷禅じゃ。

釈迦も彌勒も遁(に)げて行く。本則の賊機がわかれば釈迦、彌勒。

       【頌に曰く】言、事を展(の)ぶることなく、語、機に投(とう)ぜず、

             言(こと)を承(う)くる者は喪(そう)し、

             句に滞(とどこお)る者は迷う。

【頌に曰く】省略【素玄 註】展示云々(禅には説明はない)不投機(禅には調子を合わせることもない)喪云々(説明についてまわると、元も子もなくなる。言説にヒッカカルト迷う)

 【附記】どうして・・菩提達磨が何年もかけて海路、中国までやってきたのか・・「祖師西来意」は、自己への問いかけです。

求道者の問わざる以前・・趙州、答える以前・・チャント見處を露呈している・・との・・素玄云く【頌と評】です。

般若心経に云く・・心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒無想 究竟涅槃・・ 

◆道で達道の禅者にであったら、黙っていないで何かして見せよ!

禅のパスポート 無門関NO36  

    路逢達道(ろほう たつどう)第三十六則

           【本則】五祖云く 

              路(みち)に達道の人に逢(あ)わば、

              語黙(ごもく)をもって對(たい)せざれ。

              しばらく云え、何をもってか對せん。

【本則】達道というのは禅者だ。

禅者には禅機をもってせよじゃ。

禅機というとどんなことになるのかしらん。頭をさげてお辞儀をしたり、口の先で挨拶をしたりしても、禅者ならばそれでよし。

禅者でなければ禅機にならん。

それだから指頭の禅でも通るし、未悟底なら喝しても役にも立たん。

公案は、どれもこれも落つれば同じで、書くことも することも似たりよったりとなる。

素玄居士曰く・・片足を曲げて立つ。

   【無門曰く】無門曰く 

         もし者裏(しゃり)に向かって對得(たいとく)して親切ならば、

         妨(さまた)げず 慶快(けいかい)なることを。

         それ或いは いまだ然(しか)らずんば、

         また、すべからく一切處(いっさいじょ)に眼(まなこ)を著(つ)くべし。

【素玄 註】一切處(専念工夫 間断あることなかれ)

【無門曰く】道で、根本智を明らめた人に遭遇したら、黙りこくって、語りも出来ず・・では、どうしようもない木偶(でく)の棒だ。

(10年20年・・修行坐禅に明け暮れたって、タクワン石の方が、よほどに形よく坐っているぞ)

独りポッチ(禅)に徹してご覧よ!

     【頌に曰く】路に達道の人に逢わば、語黙をもって對せざれ。

           攔腮(らんさい)劈面(へきめん)に拳(けん)す、

           直下(じきげ)に會(え)せば すなわち會す。

【素玄 註】攔腮云々(禅者にであったら物も云わず腮(えら)をつかみ面をヒッパタイてみよ・・というのじゃ。禅者づらしていても未悟もあるからなぁ。

無門も頌を書くのに、だんだん五月蠅(うるさ)くなったので ひとつピッシャリやったところじゃ)

【頌に曰く】素玄云く 禅者に出会ったら、ものも言わずに、襟首つかんで、その顔、ヒッパタイテみよ。・・というのじゃ。禅者面(ぜんじゃづら)していても未悟もあるからなあ。無門も頌を書くのに、だんだんうるさくなったので、ひとつピッシャリやったところじゃ。(重複)

【附記】路辺の筍(タケノコ)を盗るなかれ!・・と張り紙しておく・・

禅のパスポート NO35

          無門関 倩女離魂(せいじょ りこん)第三十五則

                            【本則】五祖 僧に問うて云く、

                                倩女離魂 那箇(なこ)かこれ眞底(しんてい)

【本則】素玄提唱 この話は五祖当時の社会種(噂噺)であったらしい。禅にはこんな脚色の芝居も多いのじゃ。維摩経もドラマじゃが、こんな具合に禅には嫌う底の法なしだ。

昔、衝陽(しょうよう)に倩女という娘がいて絶世の美人。この倩女の従兄(いとこ)に王宙(おうちゅう)というのがいて、幼い頃、娘の父が戯(たわむ)れに、後来(ごらい)この娘を君の妻にすべしと云うた。ところが少女が成人するとすこぶる美人となり縁談の申し込み、山の如くじゃ。その中に顯官(けんかん 知事、高官の意)からも所望されたので 父はその気になる。娘はそれを聞いて快々として楽しまず、宙も約束の変更を恨んでいた。それで都に出ようと思って船に乗って数里行くと、夜半に岸からその船を逐(お)う者がいる。恋し恋しの倩女じゃ。宙は夢かとばかりに喜んで船に入れて遁(のが)れ去り、追手をおそれて蜀に入り、居ること五年。二人の子まで産んで睦まじく暮らしていたが、ある日、倩女は故郷のことを思い出し、父母に背いたのは申し訳がないという。宙ももっともじゃ、俺も悪かった。父母に謝し天下晴れて夫婦になろうというので、船を命じて衝陽にいたり、宙が先に叔父の家に行って 今日までのことを語り、深くその罪を謝した。叔父は愕然として驚き いったい その女はどこの者かと聞くと、それはあなたの娘さんのことだという。叔父は益々 不審(ふしん)に思い 倩女は病気で数年来、寝ているという。宙は そんなことはない、今 船の内にいるのじゃというて 使いをやって見させるとチャンと船にいる。そんならと病臥(びょうが)している倩女に話すと、喜んで起ち、笑って語らず病室を出るのと、船から上がってきた倩女と二人は、ピッタリ合して一体となった。叔父が嗟嘆(さたん)して云く。宙がここを去ってより物を言わず、しかも酔うたようにしていたが、神魂(しんこん)遠く去ったのであったか・・と。倩女もいう、宙がここを去ることを知って 睡中にあわてて船を追うたが、その後、去る者われか、留まるもの我かを知らなかった・・と。

このどっちが本物かというのじゃ。              

この理解情解をいれぬところが公案の体裁をなしている。

禅には眞も偽も そんなところにウロウロしていてはアカン。

物事についてまわったらお終いじゃ。紛々擾々(ふんぷんじょうじょう)たることなかれじゃ。

本則は禅機じゃ。禅機を練るには良い公案じゃ。

素玄居士曰く・・

        妖怪も 芝居演戯の巧みさにあやかって  霊怪不妨演戯巧

        出没したり離合したり これも一興だ   出没離合又一興

       人間は 五尺の身なれども、五感の外に  人間五尺五感外

        また、別に風流の境(地)ありしなり   又有別風流境在

【無門曰く】この奇しくも愛しい倩女の心地は、求道行脚の旅宿に泊まるごときものか。ホンモノはどっちだろう・・と、駆け回って探す・・愚かなことはしなさるなよ。

死ぬときは、窯ゆでのカニのごとくに、五体は地水火風の四元に分解して、こんはずではなかった・・と反省しても、後の祭りだ。 さあ、腹をくくって旅に出よ。

       「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」とうたった俳人もいたなぁ。

               *松尾芭蕉(1644~1694)毎日の平生(日常生活)が辞世の句であると覚悟した

           【無門曰く】もし この者裏(しゃり)に向かって、眞底を悟りえば 

         すなわち知らん殻(かく)を出でて 殻に入ることは    

         旅舎(りょしゃ)に宿(しゅく)するがごとくなることを。

         それ あるいは いまだ しからずんば切に乱走することなかれ。

         まくねんとして地水火風 一散せば、

         湯におつる螃蠏(ほうかい)七手八脚なるがごとくなり。

         那時(なじ)いうことなかれ、道(い)わじと

【素玄 註】殻(抜け殻のこと。倩女の身体は抜け殻じゃ。精神が散歩してあるく)乱走(倩女はどっちなどと駆け回る)幕然云々(死ぬ時は五体四元に帰して釜の中の蟹のようにバラバラになる。それをこんな筈ではなかったに・・なぞと云っても後の祭りじゃ。このことを明らめ得ば、死生の際も七手八脚の如きことなからん。

【頌に曰く】月は万象を照らし、渓山それぞれに清風に満つ。

     「名月清風」・・けっこう毛だらけ、猫灰だらけ

      これ一か・・それとも二か。

      【頌に曰く】雲月是れ同じ 渓山おのおの異なる。

            萬福萬福(まんぷくまんぷく)是れ一か 是れ二か。

【素玄 註】月万象を照らすか、是れ一か是れ二か。三八九を究めざれば、境において所思多しという語があるが、これがわかれば本則もわかる。

附記】中国での禅は、インド人が瞑想(哲学・観念)的にとらえる人生観と違い、実際的な、生活の中の「禅」として、独創されたものです。この「倩女」は、唐の頃の怪奇小説「離魂記 りこんき 陳玄祐ちんげんゆう撰」に登場する二女同一の伝説です。

*当時・・魂と体、幽と明の世界を例に、五祖山の法演が公案化したという。この話が禅でとりいれられたことは、いかに広く知られていたかを物語る。禅はもちろん歴史の中から生じ、変化してきた。「禅ニヨル生活」をすることと坐禅することは同じであった。

「歴史を離れた禅もないけれど、禅の心を離れた歴史観もまた完全なものでないことをしるであろう」・・禅の世界・公案 阿部肇一著(株)筑摩書房より抜粋。

禅は現実的で、具体的な・・生活に即して中国に根付き、やがて日本にわたって大樹になりました。そして、新しい・・宗教ではない「禅」独りイス坐禅が櫱(ひこばえ)となりつつあります。

 

♬お前もがんばれよ・・故郷の冬は寂しい(さみ)しい~🎶

禅のパスポート 無門関NO34  

母さんが夜なべをして手袋あんでくれた・・木枯らし吹いちゃ~(母さんの歌・歌手ダークダックス/作詞作曲 窪田 聡)

               智不是道(ち これ みちならず)第三十四則 

                 【本則】南泉云く 心これ佛(禅)ならず 智これ道(禅)ならず

【本則】素玄提唱 心も知も思慮分別で同じ意味じゃ。佛も道も同じく禅のことじゃ。同じことを別の文字で現したまでじゃ。前に人の為に説かざるの法も本則も同じじゃ。

禅語は同義語を いろいろにコンビネーションをするから、その文字に捉われると五里夢中になる。そこを未悟底がいろいろに講釈するから、なお解からなくなる。思慮分別したら禅がなくなると云うので、従前 いくたの則と違わない。

心不佛(禅)、智不道は即心即佛(禅)とも違うようで違わぬようなもんじゃ。

文字の駆使の巧妙は禅文学だね。

素玄曰く・・子供が西洋料理を一度食べたい、食べたいとぬかすので「エエイ、このガキめが」とコボシコボシ、横町の食堂にライスカレー1枚とコーヒー1杯。

   【無門曰く】南泉いいつべし、老いて羞(はじ)をしらずと。

         わずかに臭口(しゅうく)をひらいて、家醜(かしゅう)外に揚ぐ。

         しかも かくの如くなりといえども、恩を知る者は少なし。

【素玄 註】臭口云々(禅に抑下、托上ということがある。口ではケナシ、その意は賛(ほ)めること。これも自然に用法がある。禅に関することは一家のことじゃから、ケナシて賛める)恩を知る(これだけさらけ出すのに それがわかって・・悟って・・くれる者はすくない)

【無門曰く】いろいろと禅者は、言わでもがなに、禅について示すのだが、月を指す指さきを月だと見る輩とか、月見ダンゴをたべたいとか、造作ばかりで解かるものは皆無だな。

    【頌に曰く】天はれて日頭(にっとう)出で、雨くだって地上うるおう。

          情をつくして すべて説きおわる。   

          ただ、おそらくは信不及(しんおよばざる)ことを。

【素玄 註】天晴云々(尋常、ありのままのこと。つまり禅のことじゃ)信不及(信が不及なのでなくて知らせが届かぬこと・・禅はこんなものじゃとチャンとしらせてあるのに、自分に禅がないから その知らせが届かないの意。禅が門口まで訪ねてきているのに、お気がつかれぬの意。臨済録にも信不及の語があり信仰が不充分の意あることなし。禅には信仰などの即することなし)

【頌に曰く】太陽あれば・・今日も天晴れ!雨降れば・・麗わし、緑為す山並み・・禅とは、このようなものだと、アリノママ見せびらかしているのに、独り一人、禅による生活をしながら、気づかず宝のもちぐされ。他人との比較や愚痴の罵りあいばかり。中には信仰まで持ち出す者がいるけれど、禅は欣求などに即することなし。

◆「正直」でないと樽や木桶はつくれない・・と云う・・どうしてか?

禅のパスポート 無門関NO33 

正直」でないとマアルイ樽や木桶はつくれない

    非心非佛(ひしん ひぶつ)第三十三則       

             【本則】馬祖 因みに僧 問う

                 如何なるか 是れ佛。

                 祖云く 非心非佛(ひしんひぶつ)

 

【本則】素玄提唱 字づらの意味では、心を非とするは、即ち佛を非とする。

この佛も禅のことじゃ。

心とは何か、禅とは何か、その心以外が即ち禅以外じゃ。

いったい心に境界線があるかしら、敬とか愛には非敬も非愛もある、敬も非敬も愛も非愛も、みな心の内じゃ。心以外とは何のことやら、禅以外とは何かナ。

文理的に云うなら即心即佛(禅)以外のものを指すことになる。

即心即佛は、前の公案(第30則)に述べた。

心以外を把握したら本則になる。

心以外というものが、あるじゃろうか、掴んで見たら いつの間にやら心になっていた。

心だナと思ったら、いつの間にやら心以外に変わっていた。あゝ七面倒な事じゃのう。

即心即佛は禅の公案じゃ。

非心非佛は禅機の公案じゃ。

表と裏のようなもんじゃ。即心即佛から禅機が生々ハツラツ、湧起(ゆうき)する。流露(りゅうろ)する、それが非心非佛(禅)じゃ。

即心即佛は述べて盡(つく)さざるところあり、非心非佛は至りて極まるところなし。

あんまり広々として、手の舞、足の踏むところを知らずじゃ。

禅機も非心非佛にならんと面白みが出ないテ。

悟臭(ごしゅう)が抜けるのじゃ。

素玄居士曰く 春は嬉しや 

  二人揃うて花見の酒

    ステテコ ドンドン。

   【無門曰く】もし者裏(しゃり)に向かって見得(けんとく)せば

         参学の事 畢(おわ)んぬ。

素玄 註これが出来たら禅のこと了畢(りょうひつ)じゃ。

     【頌に曰く】路に剣客に逢わば、すべからく呈(てい)すべし。

          詩人に遇(あ)わずんば、献ずることなかれ。

          人に逢(お)うては、かつ。三分(さんぶ)を説(と)け、

          未(いま)だ まったく一片(いっぺん)を施(ほどこ)すべからず。

素玄 註剣客云々(剣客だろうと、詩人だろうと「やあ今日は・・お早う」と云うようなもんじゃ。

ヂャガ非心非佛を丸出しにはすまいぞ・・と云っているが、素玄は丸出しにしてしまった)

前二句の倄訛(こうか)が非心非佛(禅)をチャラチャラさせたつもりか知らんテ。

どうも心許ない裳裾(もすそ)の乱れか。

附則 「倄訛」・・倄⇒コウの字は、ゴンベンになっているが辞書にない。「嘘偽り・ごまかし」の表現の意。真の禅者と遭遇しないかぎり、本音をバラスことはしないがよい。30%ぐらい語れば十分だ。

餃子にビールで、気楽にありのまま、話せば良いものを、よせばよいのに懐石料理の振る舞いだね。

正直の木樽づくり・・種明かしすれば、正直という名のついた曲げ(角度)のついたカンナでないと、ピッタリの円形の樽は出来ない。曲がったものに「正直」と名付けた昔の職人気質が面白い。ただそれだけの事サ。