禅のパスポート

禅語録 無門関no解釈to意訳

妄想(分別知識)不安は迷いの素/安心・ZENは悟りの元・・ひとり独りの表裏に完備されているぞ!

禅のパスポート 無門関NO40  

迷いとは、初めからチャンとある道を見失しなうこと・・(3分間イス坐禅して)見失しなわなければ、迷い途惑(とまど)うことはない

        趯倒浄瓶(てきとう じんびん)第四十則 

【本則】素玄居士提唱 (浄瓶を)呼んで「木の株」となすべからずとは、常人の言うことじゃ。

これでは駄目じゃ。

じゃが、潙山(いさん霊裕れいゆう)が蹴とばしたのは、野狐禅でもやりかねないから、モット手許を見なくちゃいけないが、會下の者じゃから試験するまでもないのじゃ。

しかし蹴とばしは、禅機の内でも一番容易なことで、野狐禅者流がいつも誤魔化す手だから、潙山としてはもう少し気の利いた作略があって欲しいとは思うが、それもまあ、よしとして、潙山も開山当時はこんなもんでもあろうかい。

この話は司馬頭陀(しばずだ)という坊さんで、地理も探り人相も見る人がいて、百丈の處で話するのには、大潙山(だいいさん)という山は、結構な山で千五百人の善智識が住まれるという。

それでは俺(百丈)が行こうと云うと、貴僧は骨の人で肉の人でない。あれは肉山であなたなら千人も集まらぬと云う。

それなら俺の會下にいないかしらと云うので試験することになった。

百丈は侍者に首座(華林けりん和尚)を呼ばせると、頭陀は少し歩けと云う。首座が数歩行くと、之はアカンと落第した。

次に典座(てんぞ・台所役)をしていた(潙山)霊裕を見せると、一見して大潙(山)の主人なりと云う。

このことを首座が聞いて、拙者を差し置いて、典座が住持するのは怪しからんと抗議が出た。

それで百丈は、公平に一山の大衆を試験するとなって、この則が出来たのである。

浄瓶は水さしのこと。禅者は浄瓶でも死蛇でも、なんでもござれで、それをどうあしらうかは規矩(きく、法則・約束事)あることなしじゃ。

  【本則】潙山和尚、始め百丈の會中にあって典座(てんぞ)に充(み)つ。

      百丈まさに大潙(だいい)の主人を選ばんとす。

      すなわち請(しょう)じて首座(しゅそ)と同じく

      衆に対して下語(あぎょ)して出格の者、往(ゆ)くべし。

      百丈ついに浄瓶(じんびん)を拈(ねん)じて

      地上に置いて問を設(もう)けて云く、

      喚(よ)んで浄瓶となすことを得ざれ、

      汝よんで甚麼(なん)とか作(な)さん。

      首座すなわち云く、喚んで木揬(ぼくとつ)となすべからず。

      百丈、かえって山に問う、

      山すなわち浄瓶を趯倒(てきとう)して去る。

      百丈、笑って云く、第一座、山子(さんす)に輸却(しゅきゃく)せり。

      よって之(これ)に命じて開山(かいさん)となす。

素玄云く「瓶口を地にし瓶底を天にし去る」

      【無門曰く】潙山 一期(いちご)の勇、

       いかんせん百丈の圏圚(けんき)を跳(おど)り出でざることを。

       撿點(けんてん)し もちきたれば、重きにたよりして軽きにたよりせず

       何が故ぞ、ニイ(さあドウダの意)

       盤頭(ばんず)を脱得して鐵枷(てつか)を擔起(たんき)す。

【素玄 註】圏圚(分回し・・分度器の意、百丈以上の器量を示さぬ)。重きに便にす(優れた者には余計、便宜にする。それと潙山が台所の道具の盤から解放されたが、住職と言う重い仕事を押し付けられた意図を兼ぬ)

【無門曰く】百丈山で、典座役の潙山霊祐が、これぞ転身の大チャンスとばかりに、水差しをひっくり返したが、百丈の手のひら・・結界を出られないブザマなことになってしまった。優れモノには、一層の便宜だての出世コースに乗せてもらったので、包丁一本、板場の修行は卒業できた。その代わり、千五百人の求道者を仕切る管理、運営の責任者に就かされてしまったぞ。

【頌に曰く】笊籬(そうり)ならびに木彴(もくしゃく)を颺下(ようげ)して

      當陽(とうよう)の一突(いっとつ)周遮(しゅうじゃ)を絶す。

      百丈の重關(じゅうかん)さえぎれども住(とどまら)ず、

      脚尖趯出(きゃくせんてきしゅつ)して 佛麻(ほとけ ま)のごとし。

【素玄 註】當陽云々(明々たる一機略 遮えぎる事なし)。

如麻(禅者 麻の如く群出の意)

【頌に曰く】台所のザルやら、ナンやらかやら、道具一切放り出して、ただ、禅による生活一路をまい進する潙山。百丈も止めようがないようだ。さすが典座の長い経験を生かして潙山(中国、湖南、潭州)で、食イッパグレのない禅者をゾロゾロと輩出しよったぞ。

【附記】浄瓶(水差し)のこと。これを首座は「木の株」とは呼べないと答えた。首座は、何年も、どんな坐禅をしてきたのか・・禅機に疎(うと)い人である。

禅語録には、百丈(山)懐海(720~814)のもとで(潙山)霊裕(771~853)が、火鉢の灰を掘り返して小さな火種を見つけ出す・・問答で省悟する公案がある。

人間である限り、誰でも内面に大機(機縁)の火だねを持っているが、大用(生活、行い)の灯火となるには・・自ら働きだす「今・ここ」の覚知が大事である。彼は、百丈の俗弟子、司馬頭陀(しばずだ)に推挙されて、虎の住む山奥、潙山の破れ小屋に、独り8年間、坐禅に明け暮れている。のちに1500人の求道者が、入れ替わり立ち代わりして 潙山を慕って集ったという。

坐禅の「坐」は、人と人を、土の上に分けて書いてある。これを自分と他人に区分してあると解釈してはならない。あえて言えば「自我エゴ/自己セルフ」自分の感性と理性・自己の分別(ぶんべつ)比較作用・臨済の道う「造作するなかれ」の心を天地同根に融け込ませていく坐相なのだ。

すべては、顔や姿や言葉や形や型式にこだわらず中身(行動)が大事だ。

これこそ・・役立たずの坐禅をすることから芽生える禅機なのである。

潙山は、のちに弟子、仰山に対し「子の正しきを尊ぶ。子の行履(あんり・倫理)を説かず」という。禅で大事なのは見識であり、師、百丈の「一日作さざれば、一日食らわず」の見識の実行を、自らが「火種問答」から発見、大悟した人である。

(のち潙山仰山の師弟で、気品の高い潙仰宗の始祖となる)

 

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