禅のパスポート

禅語録 無門関no解釈to意訳

悟りとか見性とか・・名前なんぞどうでもよい。 素玄の一語、領得できたかな?

禅のパスポート 無門関NO41  

達磨の面壁禅・・しかも、タッタの「三分間独りイス禅」を提唱する私にとって、昔・・神田の古本屋で「提唱 無門関」著者 素玄居士(高北四郎/東京市池袋2丁目/昭和12年8月発行・発行 狗子堂、絶版132頁)の小冊子を発見、手にできた喜びは、第36則「路逢達道」の公案、頌のとおりでした。

この達磨の則に、素玄居士 緒言の一節を前後を略して書いておきます。詳細は第三稿 冒頭に紹介します。

◆禅は学問ではないので講釈(解釈)すべきなしだ。ただし、ひねくりまわして見せるだけじゃけれども、極所に到る道筋は、いくらでも話すことが出来る。

今時の贋老師など話して差し支えのないことを神秘めかす。

本書は筆舌しうるドンヅマリまで書いておいた。そして 各公案ごとに「素玄曰く」を附けた。提唱(禅者が我が意のままに)する以上、その公案が透っていなければ出来ないことじゃ。

提唱者は評とか頌とかで見せなければ値打ちがワカラン。

この頃の提唱にそれは無いようじゃが、それは卑怯で つまり未悟底なのじゃ。この素玄曰くは正札をブラ下げて店先に並べたのじや。たいして値打ちがないので恥ずかしい限りじゃが、本にした以上、これが責任じゃ。

高いか安いか曝し物じゃ。

頌としなかったのは、文体の自由を欲したからである(後略)

      達磨安心(だるま あんじん)第四十一則 

     【本則】達磨 面壁(めんぺき)す。二祖雪に立つ。

         臂(ひじ)を断って云く、

         弟子 心いまだ安からず、乞う師 安心せしめよ。

         磨云く、心をもち来れ、汝がために安(あん)ぜん。

         祖曰く、心をもとむるに、ついに不可得。

         磨云く、汝が為に安心しおわんぬ。

【本則】素玄居士提唱 達磨は南インド香至国の第三王子・・

当時、釈迦より二十七代の禅者、般若多羅(はんにゃたら)尊者あり。ある時、宮中に召され無価の宝珠を授けらる。尊者、王子を試さんとして、世にこの珠に優るものありやと問う。

達磨この時七才、答えて曰く「この珠は世宝なり。最も尊きは心宝なり」と。尊者、驚嘆して請うて弟子となす。その後、修行する事四十年、法を嗣いで二十八祖となり、次いで支那に渡り、梁の武帝との問答あり。碧巌集の第一則なり。のち嵩山の少林寺に入りて面壁し、この間に本則のことがあったのじゃ。

二祖が臂(ひじ)を断ったとは、すこし酷(ひど)すぎる。ある書によると、当時、腕を斬られた盗賊が横行していたとのことで、それらと混雑したのかも知れない。

心を求むるに不可得か可得かどうか、読者自ら試みよじゃ。 

精神を精神することは出来ないのじゃから、不可得となるが、それを直に悟入としたら、二祖の安心もおかしなもんじゃ。

不可得のことが理解せられるのではいけない。

この不可得の心を領得するのが、ここに二祖のいう不可得なのじゃ。達磨は、そこのところを安心としたのじゃ。不可得なることを直接に領得するのじゃ。

公理や定理を援用する幾何学の証明では役に立たぬ。

二祖はそれを直接にした。

直接にしてみたが、それはそれまでのことじゃ。

達磨に、それが悟りだと云われたので、ハハア、これが悟りなのかと云うことになったのじゃ。悟りの名はどうでもよい。

名前をどうつけたところで、悟入のことに変わりはないし、名前によって悟入のことを彷彿(ほうふつ)することもないのじゃ。

素玄云く「空室 人を見ず、坐具凹(へこ)むこと 寸・々・々 (凹―心・凹―無・凹―心)

     【無門曰く】無門云く、缺歯(けつし)の老胡(ろうこ)

          十万里 海に航(ふなわた)りして、特々として来たる。

          謂(いつ)つべし、是れ風なきに浪を起こすと。

          末後に一箇の門人を接得(せっとく)するに、またかえって六根不具。

          咦(いい・わらうの意)、謝三郎(しゃさぶろう)四字を識(し)らず。 

 【素玄 註】訣歯云々(歯の抜けた老人、達磨を指す)風なきに云々(禅などという煩(うるさ)いことのなかったのに、禅を持ち込み)六根不具(片腕のない不具)咦(語意を強む、笑う態)謝三郎云々(謝三郎は漁師のことなりと、四字について定説なきに似たり。4個の文字となすは いたずらに疑義をうみ 文章をなさず四の字の義とすべし。漁夫 自分の名の三郎の三を知るも四を識らずの意とせば、禅機に洽當(こうとう)し通ずるに似たり。三を得て四に及ばずか)

【無門曰く】遠くインドの地から、海路、中国に、呼ばれもしないのに「禅」を持ち込んできた、歯抜けの老人・・ダルマさん。

まるで、幽霊が実在するかのような騒ぎになってしまったぞ。

たった弟子一人の引導を渡したが、そいつは両足がないのじゃなく、片腕がない奴だった。ハ・ハ・ハのHA!だな。

昔、三郎と言う名の漁師がいたが、四つまで数えられなかった。

いっそのこと「三四郎」と名付ければ良かったろうに・・

      【頌に曰く】西来(せいらい)の直指(じきし)、

           事は嘱(しょく)によって起る。

           叢林(そうりん)を撓聒(にょうかつ)するは、

           元来(がんらい)是れ儞(なんじ)

 【素玄 註】達磨 西来して支那にきたり、直指人心 見性成仏を説き、釈迦の迦葉に対するが如く、大法を二祖に附嘱(ふしょく・タノムの意)す。禅を統括するは元来 達磨。

【頌に曰く】釈尊直伝の安心の禅・・直指人心・見性成仏(禅)を引っ提げて、ハロバロ中国にやってきた達磨さん。禅の寺僧を統括するのは、達磨さんのはずなのに・・

【附記】悟りの名前なんぞ、どうでもよいのです。

大事なのは・・素玄居士の一語=坐具が凹むこと・・領得できましたか?

凸凹を「心」として、それにコダワル。理解したと錯覚するのは、鼻先にクソブラサゲテ屁元を探す阿呆のすること(澤木興道)・・思考の文字・言葉に、何度も何度も騙され、裏切られる・・執着・コダワリです。人とは「業」深き、悪臭無限のいきものですナァ・・

*たしか国宝(京都国立博物館)に雪舟「慧可断臂の図」があります。嵩山少林寺に面壁九年の坐禅三昧の当時、達磨の弟子は十人もおりません。その大事な慧可(42才)の入門に、抗生物質も、痛み止めもない、昔々、ひじを切るまでしなければ、入門を許さなかった達磨さんなら、私は「はるばる海路でインドから来た、達道の禅者」と認めません。この臂ヒジ切断の行為を「佳きかな、法の為に形を忘する」・・激しい求道心として讃辞する僧堂師家がいますが、私は否定します。

*素玄居士の云うように、当時は、世情は乱れ、強盗横行の時代です。安心を求道し、悩み苦しみ、目をギラギラ血ばらせて、雪中に平身低頭して入門を願う(ナリフリかまわぬ・・形を忘れた)求道姿は、片腕を斬られた盗賊のように見えたことでしょう。

暑いインドと違い、寒い少林寺の達磨さんは、アタマから毛布をかぶって、ひげも剃らずの画像があります。師が毛布をかぶって坐する前に、弟子が雪中に臂を切って教えを乞うなど、達磨を精神異常者に仕立て上げてはなりません。

達磨の面壁禅は、邪教として再三、仏教僧侶に毒殺されかかった伝があります。

禅者は、求道者の歩く姿や、立ち居、振る舞い(言葉入らず)で 素質・禅境を見抜きます。

ハッキリ、達磨を誤解している教導である・・としておきます。

*併せて・・無門関 第十四則 南泉斬却猫児(碧巌録 第六十三則/第六十四則 趙州頭戴草鞋)東西の僧堂の求道者が、米倉を守る大事な猫を取り合う騒動で、南泉普願(748~834)と弟子、趙州従諗(778897)の、猫斬り問答に異議ありです。

玄宗皇帝と楊貴妃の時代・・禅が、圧政を逃れて深山幽谷に潜んだ、最も「純禅」に徹した頃の・・最も優れた禅者、南泉と趙州の逸話です(他に百丈懐海や潙山霊裕、黄檗希運などの時代)

ワザワザ包丁を隠し持って大衆の前に立ち、禅機発露のチャンスとばかり、一匹の猫を掲げて、道い得れば、是を斬らず・・とは。

さすが南泉、道のために猫斬りの殺生も辞さない禅者である・・と、お偉い?提唱のご老師が云うのに、あきれ果てます。ドサマワリの三文芝居よろしく、後の僧侶の手で脚色・演出されたことは明らかです。

ただ一人、柳田聖山著「禅の山河」発行・禅文化研究所で、猫斬り事件を、南泉、冷や汗もので反省していると庇っていますが、馬祖道一に叩き上げられた南泉です。台所からワザワザ包丁を隠し持ち、殺生の立役者になるほど舞い上がった禅者ではありません。

百丈の弟子、潙山霊裕が登場する公案(碧巌録、第四十則)で、潙山が浄瓶(水差し)を蹴倒して退出する事件があります。もし、潙山がその場に居合わせたら、南泉の包丁を奪い取って、南泉、逆に命乞いをせざるを得ないことになったでしょう。少し禅を齧った者なら、煩悩即菩提。猫斬り南泉の殺生に嫌気をさして、サッサと南泉山から退散したことでしょう。こうゆう粉飾禅を誠しやかに伝えるから禪が滅ぶのです。

素玄居士の(第14則 南泉斬猫)提唱と、説が違いますが同意と覚心しています。

歴史の中には、どうも胡散臭い逸話がよく登場します。また、現代の動物愛護、虐待の観点での話でもありません。ご用心!

はてなブログ「禅者の一語」碧巌録意訳に詳細、記述しております。