無門関NO43
◆ボンヤリ坐禅に喝(気合を入れる)公案・・竹ベラにコダワル阿呆か・・用途について回る馬鹿か・・阿波踊りのような「禅」になるな・・!
首山 竹箆(しゅざん しっぺい)第四十三則
【本則】首山和尚 竹箆を粘じて衆に示して云く
汝ら諸人 もし喚(よ)んで竹箆となさば則ち觸(ふる)る。
喚んで竹箆となさざれば則ち背(そむ)く、
汝諸人、しばらく道え、喚んで何んと為すや。
【本則】素玄居士提唱 竹箆と云うたら竹箆に即し、竹箆についてまわって禅じゃない。
しかし竹箆と云わなければ嘘を云うことで竹箆に背く(そむ)く。
古人は いろいろにして即することなきを鍛錬したもんじゃ。
潙山の浄瓶と同じ類則じゃ。
竹箆を折ってもよいが チト荒々しすぎる。
潙山が浄瓶を蹴とばしたのは 知恵がなさすぎるし野狐禅的じゃ。
こんな處を工夫するのが禅機の修行じゃ。
禅は祖佛と別ならずじゃが、禅機は千様萬態(せんようまんたい)で、その間に その禅者のもち味というものが出る。
それは古くなるほど味がいい。素玄の味も まだ少し麹(こうじ)臭い處があろうテ。
すこし位でないかも知れん。
◆素玄云く 筋斗(きんと・トンボ返り)し、去る。
【無門曰く】喚んで竹箆となさば則ち觸(ふる)る。
喚んで竹箆となさざれば則ち背く、
有語することを得ず、無語することを得ず。
すみやかに道え、、すみやかに道え。
【素玄 註】無門もとうとう品切れになったらしい。
同じ事ばかりだから評しようもない。
【無門曰く】これを竹箆と云ってしまえば、師の「名」を云うなとの禁句に触れる。
それじゃ竹箆じゃないと否定すれば、師の問いに逆らうことになる。
云うも・・云わずも・・逡巡(モゴモゴ)するナ!
速(すみ)やかに道(い)え、速やかに道え。
【頌に曰く】竹箆を粘起(ねんき)して、殺活(せっかつ)の令を行ず。
背触(はいしょく)交馳(こうち)す、仏祖も命(めい)を乞う。
【素玄 注】仏祖乞命(釈迦も達磨も閉口、頓着すると云うのだが、こんな用語は当たらぬ。いったいに禅の文句は、誇張が多く形容過大じゃ。
稍々(しょうしょう)鬼面 人を嚇(おど)すの感がなる。白隠なども甚(はなはだ)だしい。こうゆうことは 禅的じゃない。
思うに かかる誇張の言は、当時の市井(しせい)の用語法ではあるまいか。所謂(いわゆる)車夫馬丁(しゃふばてい)の用語は すべて誇張が多い。
【頌に曰く】首山老師が竹箆を持ち出して、生きるか死ぬか・・の一語を迫った。
・・答えられなければ、釈迦も達磨もイノチ乞い。
【附記】*シッペ返し=禅語のシッペイから出た言葉・・人差し指と中指で、相手の手首を打つ罰ゲームのこと。
竹箆(シッペイ)禅の師家が修行者を打って指導する・・4~50CM位の竹を籐で巻いた杖。
◆モノにつけた名前をいうな。モノにつけた用途、目的を云うな・・真に「無功徳、役立たずの自分とは何か」・・それだけを・・たった3分間独りイス坐禅で集中して看よ。
ボンヤリ坐禅は害になるだけ。してはナリマセン!
昔も今も・・言った、言わないとか・・利権に絡む争いごとが社会・生活で必ず発生しますが、突き詰めれば、それは自他に分別した意識・・主義・教育や社会制度が原因しています。
言い方がまずいかもしれませんが、(私は)そうした自分本位の文明・教育・進化?に対して、自然や地球からの冷徹なシッペ返しが来ていると思います。
◆(坐)禪には、欣求宗教や学問・社会制度でいう・・天国(極楽)地獄/平和・戦争/善・悪/生・死/優秀・劣等など比較区分がありません。
ただ・・自分の心の中の探求(静慮)だけです。何もない「空=無」の発見・発明と「無心=自覚」の見性が自得されるだけなのです。
科学の発達には、自他を分ける意識、考察が大事です・・ケレドモ・・分別の自他意識は生まれた後の、生活や教育環境ニヨルところが大半です。この意識を、平和だけ・・善だけ・・喜楽だけ・・好いとこ取りをして、その上、生まれたての赤ん坊のように、純真な姿を取りもどすのは・・容易ではアリマセン。孤の心境は禪ではありません。
とりわけ西欧人は、神との契約の意識が強く、彼我の対比の中に生活が立脚していますから、「心無心」ココロにココロナク・・とか、公案を看(ミ)よ・・とかの「手」の中で「目」と共に「看る」・・その意味を体感的に知ることは難しいのです。
「見る」という字は、辞書をチョット開くだけで・・観る/診る/視る/監る/覩る/覧る/覩るなど23文字もあります。表意文字(漢字)の微妙な意味合いは、ABCでは書き尽くすことはできません。まして2千年前~インド(サンスクリット)から、幾度か仏典は中国語に翻訳、再意訳されて、それを日本語に翻訳、再意訳され、ますます理解不能になってしまいました。さらに禅を少々齧っただけの学者でもない私が、約千年前の無門関と碧巌録を現代語訳に挑戦している有り様です。
しかも、過去、万巻の解説、経本がありながら 純禅が廃れた現実を看るにつけ、寺僧から親離れ子離れできなかった禪が、一度、滅却して、新たな独り坐禅の櫱(ひこばえ)から蘇ることを期待しています。
ですから、釈尊・達磨・恵能の初心に帰って、語録の解説内容は、垂示・本則・頌の主要な項目のみとして、着語(下語)や評語は、かえって文字に迷い、言葉に執着してしまうのを嫌って、本則(公案)の坐禅に集中できるようにしました。
禅は宗教ではアリマセン。何の損得、利害のない・・一人独りに備わっている「禅」の一人独りの自覚「無功徳」体験が大事なだけです。
この附記は、禅者の一語・禅のパスポート・羅漢と真珠の各ブログ(奉魯愚)に掲載します。
◆はてなブログ 禅者の一語・・碧巌録 意訳中
◆はてなブログ 禅のパスポート・・無門関 素玄居士提唱 復刻解訳中