禅のパスポート

禅語録 無門関no解釈to意訳

kimi no nawa?

看脚下(照顧脚下)とは?・・禅のパスポートNO45

足元を照らし省(かえり)みよ。あるいは足元を見よ・・の意だが、誰も「看(み)よ」とか「看る」とか書かなくなった。

「見よ」・・の字ならケン、キャッカだし、どうして、ここに看護婦のカンの字が登場するのか・・昔々の中国の禅者が、何故、観でもなく感でもなく、覚でも勘でもなく、監でもなく、また、見(ケン)でもなく、顯・検・倹・串・揀・睍・硯・観でもなく「看」の字を選んだのか?

ご自分の掌(てのひら)をよく看て観なさい。

 

この「看」の文字を見れば、昔の日本人なら「手」と「眼」を分解して、一瞬の内に・・手が目である如く一体となった状況を読み取ることができた。

今は、スマホで更新し、文字を書かず、文字を打って電報文のように短文で済ます時代である。

これでは理解できようもない、漢字文化の衰退、退歩である。

欧米の英語のように、スペルで打つ文章は、その意味(語意)は対比、分析的で、論理的・科学的だから・・「看」の持つ表意は 英語では実に長ったらしい説明文になってしまう。

例えば「如」・・如去如来(にょこにょらい)・・この「如」の真意が理解できれば、経文のすべてが読み取れ理解することが出来る。また「色即是空」を体観できれば、禅者である・・色(しき)も即も是も空(くう)も、一般の日本人の、般若心経を唱えることのできる人ですら、会(有)難い、解毒剤的な効能書きを読むように「なむーかんじざいぼさー」と口で云うだけだ。

禅宗の坊さんでも、そんな程度だ。

日本語の意味を理解していない人の言葉は、まるでロボットの喋り方です。犬のワンワン(バウバウ)鶏のコケコッコウ(クックドウルドウ)より醜いし空(むな)しい。

 話を戻す。

外国人に「禅」が不可解なのは、日本語の持つ意味を理解できない宿命があるからです。その日本人の大半が西洋かぶれして、日本語を忘れ捨てている現実があります。つまり、日本人が考えたり、本や新聞、活字に表記したり見聞しているのは、日本人の頭の中が、日本語で思考しているからです。

反対に外国人は、自国の英語・フランス語。ロシア語・・漢字発祥の地、語源の中国でさえ、表意文字の大半を、略字にして、頭の中は【スペル】文字化している社会だからです。

表意文字でないと、漢詩や俳句や、芸術的な墨書は生まれません。(だから今の中国人の頭脳の思考論理)は、アメリカ人と同様である・・と言えます)

昔の東洋人・・日本人との『漢字』の共有性は、習近平共産党)の国には・・全くないと断言できます。

警告しておきたい・・

将来、俳句や書や日本画や、職人仕事まで無くしてしまうような・・子供たちへの「英語化」教育や、手書き文字を手紙に書く風習を、便利で速いだけの、スマホ(文字に打つだけで・・意味を考えない道具ツール)に委ねない日本の社会であってほしい。

英語など、もうすぐ、完全な翻訳装置が、腕時計位のサイズで・・メガネの付属品で出回る時代になるだろう。英語教育の時間は、自分や仲間の好きな科目・・運動や遊び、日陰に寝転んでの読書でもいい・・俳句や習字や山水(水墨画)も取り入れて・・日本人らしい情操教育であってほしい。

こんな思いが込められている現代の「君の名は?」の公案です。

『何似生/カジセイ』=宇宙で一切のコピペのないお前はナンダ・・道元の「眼横鼻直」・・臨済の「無位の眞人」のお前は誰だ?の公案です。

禅のパスポート 無門関NO45  

   「YOUの名は?」・・生まれる前から、名付けられた「kimi」の名は・・?

      他是 阿誰(たぜ あすい) 第四十五則 

            【本則】東山演師祖(とうざんえんしそ)云く

                釈迦彌勒(しゃかみろく)は なお是れ他の奴(ぬ)

                しばらく道(い)え、他は是れ阿誰(た)そ。 

【本則】素玄居士 提唱

釈迦彌勒が奴僕(ぬぼく)として奉仕していると云う。

おかしなことじゃ。誰の家に居るのかしら。臨済が表顯(ひょうけん)名句(みょうく)に執するなかれと云うて、口を酸っぱくして喋っていると同じじゃが、また、そうばかり見てもいかん。

釈迦 是れ何人(なんびと)ぞ。探してみたら台所で薪を割っていた覚老(かくろう)と云うのが 演師祖のこの語に答えて「胡張三(こちょう3)黒李四(こくり4)」(田吾作権兵衛と云うが如し)とやったが、演はいったんは許したが 次の日に「昨日は是。今日は非」と云うて訂正した。

そこで覚老が言下に大悟したという話がある。

田吾作でなければ どこの家じゃろうか。

素玄曰く 昨夜 臨済来りて碁を囲むに 我 連敗して憤々(ふんぷん)として睡(ね)むる。

  【無門曰く】もし また他を見得して分暁(ぶんぎょう)ならば、

       たとえば十字街頭に親爺(しんや)に撞見(どうけん)するが如きに相似たり。

       さらに別人に問うて、是と不是(ふぜ)とを道うことを須(もち)いざれ。

素玄 註十字街頭云々(混雑の裏においても禅境に照々たり)

【無門曰く】本当に 釈迦や彌勒が誰の下僕として働いているのか・・納得できれば、町中で、母親を見間違えることはあり得ない。この人は私の母でしょうか?と、他人に尋ねる前に、三分間独りポッチ坐禅で目を覚(さ)ますことだ。

           【頌に曰く】他の弓を挽(ひ)くこと莫(なか)れ

                 他の馬に騎(の)ることなかれ。

                 他の非を辨(べん)ずることなかれ。

                 他の事を知ることなかれ。

素玄居士の註・・ソノママに意訳とします。

【頌に曰く】禅機に規矩(きく・ルールの意)あることなし。

この頌は「なかれ・なかれ」じゃが、また 莫れのあるありじゃが 無門の手許(てもと)も すこし心細いワイ。

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