素玄居士 提唱ソノママとします。 禅者の禅機禅境、味読ください。
兜率 三關(とそつ さんかん)第四十七則
【本則】兜率悦(とそつえつ)和尚、三關(かん)を設(もう)けて学者に問う、
撥草参玄(はっそうさんげん)は ただ見性をはかる。
即今(そっこん)上人(しょうにん)の性(しょう)、いずれの處にか在る。
自性を識得すれば、まさに生死を脱す。眼光落時そもさんか脱せん。
生死を脱得(だっとく)すれば、すなわち去處(きょしょ)を知る。
四大分離(しだいぶんり)していずれの處に向かってか去る。
【本則】素玄居士 提唱
雲水の、草を撥(は)らい押し分けて明眼の老師を訪ねるのは、根本を悟得するにある。
見性とは根本の奥底、即ち、玄奧(げんおう)を探ることで、禅を領得する・・の意である。
それで即今、貴方の禅はどんなもんですかと試みるのじゃ。
また、禅が得られると生死に拘泥しない、生死を超越するのじゃが、死の刹那(せつな)の時はどうじゃ。
また、死んでしまったらどうなるか、どこにブッつかる。死後如何(いかん)。
これが悦和尚の学人を試(こころ)むる質問で、すこぶる率直な禅の公案である。
◆素玄曰く
即今、上人の性 何処に在り・・
曰く 映画館裏。
眼光 落つる時・・歩を移さず。
去る處 如何・・放屁 一発の處。
【無門曰く】もし、よく この三転語を下しえば、
すなわち もって處に随(した)って主となり、
縁に遇(お)うて宗に即すべし。
それ あるいは未だ然(しか)らずんば、
麤飡(そざん)は飽きやすく
細嚼(さいしゃく)は飢えがたし。
【無門曰く】素玄居士の註・・ソノママに意訳とします。
處に随って云々(環境に随(したが)って自在の義にて、至る所、主人公となって気随気ままにするの意ではない。随っては順応しての意で、境遇の下に服しつつも規矩(きく)拘束さるる事なきの意。水の流れに随って、水を制するが如き機略)
縁に遇う云々(機縁(きえん)あればそれを禅にする・・隨縁應機(ずいえんおうき)して禅を離れぬのが宗に即すじゃ)
麤飡(そざん)云々(噛(か)まずに飲み込むような修禅には味がない。密々(みつみつ)の工夫でなくては役には立たぬ)
【頌に曰く】一念 あまねく観ず無量劫(むりょうごう)
無量劫の事、すなわち如今(いま)、
如今(にょこん)この一念を覰破(しょは)すれば、
いま覰(み)る底(てい)の人を覰破(しょは)す。
【頌に曰く】素玄居士の註・・ソノママに意訳とします。
過去、未来、久遠(くおん)のことも、観ずれば現在のこと。
この観ずるという奴を見つけると、自分の精神を精神することになり、それが出来ると自分の精神を精神する奴を、さらに精神するのじゃ。これは何のことやら、一念起って観じたら無量劫に堕(だ)す。この頌は少し臭い臭い。
【附記】兜率(とそつ)従悦(じゅうえつ 1044~1091)・・黄龍派の初祖・黄龍慧南(おうりゅうけいなん)の弟子に宝峰克文(ほうほうこくぶん)あり。その直門の孫弟子にあたる。臨済禅の三関(関所)と言われる。
六祖 慧能大鑑「六祖檀経」に見性の事、標語の如く書かれているが、その要の素・・「玄」に参ずる・・入る「禅者の一語」です。
私は、昭和12年に、この「提唱 無門関」を著した、東京市池袋の西村素玄さんの居士号は、キット、兜率三関を透過(見性)した時のモノではないか・・と考えます。