禅のパスポート

禅語録 無門関no解釈to意訳

禅のパスポート 終章【黄龍三関】

黄龍三關(おうりゅうさんかん)・・無量宗寿(むりょうそうじゅ)が同門の無門慧開(むもんえかい)に、無門関結成(完結)に贈った頌を添えておきます。

旧の語録には、有ったり無かったりする黄龍三関です。

青天白日の禅を、わざわざ日傘を広げて、日焼けを防ぐような・・お蔭さまな提唱です。

提唱無門関 素玄居士  絶版復刻・・(ばつ) 

従上の仏祖の垂示 機縁 欵(款かん)に據(よ)って案を結す、初より剰語(じょうご)なし。腦蓋(のうがい)を楊翻(ようほん)し眼晴を露出し 肯(うべなっ)て諸人 直下に承當して它(た)に従って覓(もと)めざらんことを要す、もし是れ通方の上士ならば わずかに挙着(きょちゃく)を聞いてすなわち落處をしらん。了(しま)いに門戸の入るべきなく、また階級のはかるべきなく、臂をふるって関をわたる、関史を問わじ、あに見ずや玄沙の道(い)うことを、無門は解脱の門、無意は道人の意と、また白雲 道(とう)く明々として道を知る ただ是れこの箇、何としてか透 不過なると、いんもの説話もまたこれ赤土を牛嬭(ごだい)に搽(ぬ)る、もし無門関を透得せば 早く是れ無門を飩置せん。もし無門関を透(とお)り得ずんば また すなわち自己に辜負(こふ)す、所謂(しょせん)涅槃の心は暁(さと)りやすく差別知は明らめ難し、差別知を明らめ得ば家国みずら安寧。時に紹定改元 解制前の五日楊岐八世の孫 無門比丘慧開謹

【素玄註】款に據る(条文に照らして判決す 禅の眼で断案するの意)腦蓋云々(禅の真相を赤裸々に露出す)它に従う云々(直下に領得して他の扶けを求むるなかれ)通方(無疑自在の人)門戸云々(定まった道もなければ階段もない大手を振って歩く)解脱云々(サッパリと解いて脱ぐ。心意することなき意、煩悩を絶した境地)箇(禅のこと)赤土云々(赤土を牛の乳首に塗る 大切な禅を汚くする)鈍置(ごくろうさんと言って傍らに置く)涅槃云々(禅の方は手に入りやすいが禅機は難しいの意か、禅にも禅機にも差別あることなし、無門の意 疑いなし、あるいは涅槃は信仰 差別知は禅のことか)家国云々(この家国は自家郷當の意と思えど あるいは国家の意ならん、差別知をもってして家国安寧なりとは多少 強引腑會の感あり。碧巌集の風穴 家国興盛(第六十一則)は むしろ禅をあざむかず)解制(禅宗の夏安居90日中 その終わる五日前)楊岐(禅宗中 楊岐派の八代目)

                                   

禅 箴(ぜんしん・いましめ)

規に循(したが)い矩(のり)を守るは自縄自縛(じじょうじばく)、縦横無碍(じゅうおうむげ)なるは外道魔軍、存心澄寂(そんしんちょうじゃく)は黙照の邪禅、恣意忘縁(しいぼうえん)は深抗に堕落す、惺々不昧(せいせいふまい)は帯鎖擔枷(たいさたんか)、思善思悪は地獄天堂、佛見法見は二鐵圍山(にてついさん)、念起即覚は精魂を弄するの漢、兀然習定(ごつぜんしゅうじょう)は鬼家の活計、進む則(とき)は理に迷い、退(ひ)く則きは宗に乖(そむ)く、進まず退(ひ)かざるは有気の死人、しばらく道え、如何んか履践(りせん)せん、努力して今生にすべからく了卻(りょうきゃく)すべし、永劫(えいごう)に餘殃(よおう)を受けしむることなかれ

【素玄註】禅箴(禅の病いに応じていましめること)規矩云々(禅に拘束はない)縦横云々(わがまま勝手は悪徳漢)存心云々(心を澄ますは死漢の禅)惺々云々(心に用心しているのは枷(かせ)かつぎ)思善云々(善悪の批判に忙しいのも困る)佛見云々(佛だの法だのというのは牢獄)念起云々(手あたり次第の大悟小悟は精神を弄し)習定云々(茫然と坐っているのは空想家)進むとき云々(積極にすれば理屈が出る、消極にすれば宗規に背く、不進不退は呼吸している死人)了卻云々(すみやかに悟得せよ)

                                  

      無門関 黄龍三關(おうりゅう さんかん)

                素玄居士 提唱ソノママとします。味読ください。

この黄龍三關は、同門の宗壽が無門関 結成の謝礼の意味で頌して無門に贈ったものであるが、宗壽の添記した余計な文句があるので、三關の値打ちを台無しにしてしまった。それで せっかく頌も後跋(こうばつ)も書いたが、かえって学人を謬(あや)まり、無門関を傷つけるをもって除(のぞ)いて、本物の黄龍三關を添えることにした。之をもって見るも、迷禅偽悟の禅を毒する怖(おそ)るべきあるを知るのである。

     【本則】黄龍慧南(おうりゅうえなん)禅師、

         隆慶閑(りゅうけいかん)禅師に問うて云く、

         人々この生縁の處あり、

      如何なるか、是れ汝が生縁の處。

         對(こた)えて曰く。

      早晨(そうしん)白粥を喫し、今に至ってまた飢えを覚(おぼ)ゆ。

         また問う。わが手、なんぞ佛手(ぶっしゅ)に似たる。

      對えて曰く、月下 琵琶を弄(ろう)す。

         また問う。わが脚(あし)なんぞ驢脚(ろきゃく・ロバの足)に似たる。  

      對えて曰く、鶿(ろじ・サギとトキ)雪に立って同色にあらずと。

      師毎に此の三語をもって学者に問う。能くその旨に契(ちぎ)るなし。

天下の叢林、目して三關となし、纔(わず)かに酬(むく)いるものあれば、師 可否することなく目を収めて斂(おさ)めて、危坐(きざ)し その意を涯(はか)るなし。これを延(の)べて、またその故を問う。

師云く すでに關(かん)を過(す)ぐる者、臂(ひじ)を掉(ふる)って ただちに去る姿ぞ 關吏(かんり)あることを知らん。吏に従って可否を問わば、これ未だ關を透らざる者也。

素玄 提唱なるほど黄龍という坊さんは、気のきいたことを吐(ぬ)かすわい。

生れるには生れる因縁があるが お粥腹がへるとは平凡じゃ。

自分の手が佛手に似ているか 佛足に似ているか、琵琶を弄(ろう)すとは お釈迦様でもご存知あるまい。

我が脚 何ぞ驢脚(ろきゃく)に似たる、鷺鶿 雪に立って同色に非ずとは尊いことじゃ、

有難いことじゃ。これが本則でも眼目じゃ。 

黄龍の脚、何ぞ驢脚に似たる、今日 馬脚の多きに堪えず。だが驢脚の後をウロウロしては了期なしじゃ。

何しろ甘いことを云うかな。

あゝ、我が脚なんぞ驢脚に似たる。鷺鶿 雪に立って同色に非らず。黄龍本来の面目に相見せよ。眼光紙背(がんこう しはい)を射るべし。

本則及び臨済示寂(りんざい じじゃく)の語を透得せざる者は、素玄放(はな)さじ。

素玄 曰く、第一関 天の原ふりさけ見れば かすがなる三笠の山に出でし月かも。

第二関 佛手柑  

第三関 素玄提唱無門関 驢脚(ろきゃく)を駕御(がぎょ)して透得了(とうとくりょう)す。*駕御・・自由、存分に使いこなす・・の意。

【附記】行録【臨済示寂】師、遷化の時に臨(のぞ)んで據座(きょざ)して云く、吾が滅後、吾が正法眼蔵(しょうほうげんぞう)を滅却(めっきゃく)することを得ざれ。

三聖(さんしょう 慧然えねん)出でて云く、

いかでか 敢(あ)えて和尚の正法眼蔵を滅却せん。

師云く、巳後(いご)人あって儞(なんじ)に問わば、他に向かって什麼(なんと)か道(い)わん。     

三聖すなわち喝(かつ)す。

師云く、誰か知る 吾が正法眼蔵、この瞎驢邊(かつろへん)に向かって滅却(めっきゃく)することを。 

言い訖(おわ)って端然(たんねん)として寂を示す。

終りの初めに・・難透中の難透・・無門関 第一則「趙州狗子」(じょうしゅうくす)・・覚えておられるかどうか・・2017年5月、はてなブログのスタート時に、まるで小学生が、イキナリ、東大受験に出会うような公案(禅問答)なので、ラストに公開します・・と書いた「趙州無字」・・1月15日頃 紹介いたします。

素玄居士 提唱(絶版)では、もちろん、初則として記載されていますが、私が勝手に、一番ラストに・・終わりの始め・・とした公案です。

(注)公案は試験に出るような人生・宗教・哲学などの問題ではありません。

千年の昔・・それぞれの禅者が独り一人・・求道・得悟した禅ニヨル生活の「一語」です。

  ◆はてなブログ 禅者の一語・・碧巌録 意訳中

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