禅のパスポート

禅語録 無門関no解釈to意訳

坐禅の時の魔境の話・・

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長時間の坐禅による副作用・・魔境とは?                

坐禅の最中、線香の落ちる音が太鼓のように「ドーン」と聞こえるとか・・鐘の音が、タテ筋の細い線になって見えたとか・・本当ですか?

昔から、寺僧(僧堂・道場)坐禅の修行が相当に進むと、禅定力がついた証拠だとして、そうした魔境が見えたり聞こえてきたりしたといいます。

静かな山寺の専門道場で、雲水が修行中、線香(灰)の落ちる音が聞こえないのは修行したとは言えない・・などと、三昧定力(集中力)の評価基準のように言う師家がいたそうです。

この坐禅中の「魔境」という出来事は、線香の音に限らず、坐禅中に思い描く様々な妄想や、睡魔・ソロソロ坐をやめて立ち上がりたい、腹が減った・・に至るまで、すべてが想いや執着心・・現代の心理学的な問題に該当します。

例えば座禅中に・・面壁九年のダルマさんの足が無くなったのも坐境が進化した証明だと言ったり、まるで自分の全身が透明人間のようになくなったり、目の前の障害物が消失して柱にぶつかったり、縁側から転げ落ちて怪我をしたりする現象まで、そうした魔境は50種ぐらいはあるであろう・・といわれています。

*私は、幸いにも、そんな魔境に憑りつかれたことはアリマセンが・・学生時代の経験では・・禅寺に寄宿して坐禅する社会人で、真夜中になると、暗闇に向かって「誰だ、そこに隠れているのは・・出てこい!」と大声で叫ぶ人がいました。アマリ夜ごとに大声で叫ばれるので、鎌倉に住む大学の心理学の教授に相談したら「坐禅で根のつめすぎだね。ソンナ坐禅を止めれば治るよ」のヒトコトでかたがつきました。彼は、昼間は、まったくの健康そのものの社会人です。坐禅の仲間が、ミンナして意識の集中とか、千里眼とか念力とか・・寄ってたかって話するオモシロオカシイ魔境ばなしに精魂をつめ、憑りつかれた訳です。

もう一人は、焔魔堂で線香やロウソクを売っていた5~60歳の方・・1日中、坐禅三昧、(坐禅しながら)坐睡できるようで、なんで四六時中、坐禅が出来るのだろうと噂したものです。お寺の方の話では、癌を患った寄る辺なき方であり、坐禅が生きがいの定力(三昧)となっているので、無理に現実に引き戻すことなくソノママにしているという。

(その後、何年かして訪ねてみたらおられなかった)

しかし、そんなことは、坐禅では・・釈尊の時代から「魔境」と言って否定されています。

坐禅を自動車の運転に例えれば、わき見運転やダロウ運転、居眠り運転、スマホゲームや会話など、運転(坐禅)に集中すればよいのに、それが出来ないのであれば・・ソンナ雲の如く湧いて出る妄想は放っておいて気にせず構わなければよいのです。妄想が、何処からか湧いて出てきて、蒸発しないで凝り固まるのなら、その運転(坐禅)をやめてしまえば良いのです。

たった それだけのことを出来ないのは、その坐禅を、途中放棄できない・・寺僧の管理下、あるいは集団(組織)で行っている修行?だからです。

私が「独り3分間イス坐禅」を提唱するのは・・坐禅は、釈尊・達磨以来・・独り一人で行われている・・ことであり、二人以上の団体・組織・集団であれば、必ず、発生する強制(共成・矯正・共棲・協成)意識が、悪い意味で三昧の境地で凝り固まり居着いてしまう・・それが見性(悟り・解脱)の障りになることです。

独り一人に備わっている「禅」の自覚を邪魔するものになるからです。

無功徳(役立たず)の独り坐禅(接心)なら・・続けようと止めようと・・たとえ悟りに到らざるとも「世の中は寝るほどの楽はなかりけり。浮き世の莫迦は起きて働く」の格言が、良きにつけ悪しきにつけ、チャント身についてくれるのです。

悟り(見性)は、別に、根を詰めた坐禅(や瞑想)が、出来ようと出来まいと何の関(かかわ)りもアリマセン。

毎度に書いていますが、坐禅の三昧(定力)は、パチンコ遊びやスマホゲームでもスポーツや音楽・芸術・読書や趣味でも掃除や仕事でも一生懸命になれば誰でもなれることで、皆に備わっています。

問題なのは・・自己とは何か・・内心から湧き上がる【WHY?】の解決・安心です。面白半分・・こうした魔境などに現(うつつ)を抜かすことのないように・・ホラ!足元に気をつけて、独りイス禅(独り接心)を、思い立った時々に続けてください。

イヤならやめる・・この気楽さが大事なことです。

「看 脚下」。

有(会)難とうございました。

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