禅のパスポート

禅語録 無門関no解釈to意訳

◆坐禅させる(自分の中の)ものの働き・・

昨年11月当初の奉魯愚(羅漢と真珠)に、世界に禅を紹介した仏教学者・禅者の鈴木大拙翁の言葉を引いて、坐禅する事に囚われない「坐禅」こそ大事との件を 今一回、再録登場させています。

【役たたずの坐禅・・無功徳の禅】こそ、悟り(解脱)への道程に必要な出来事と言ったり書いたりしてきました。この無価値といい・・無一物と言いする・・思い(思考)こそ、捨て去り忘れ去りしての禅行(禅ニヨル生活)です。

どうにか・・数息のイス禅が出来るようになって、無門関や碧巌録の話の一つも、何を言っているのかな・・どうして噛み合わぬ問答なのか・・何故だろう?・・と思い至れることになったら「独り坐禅=独り接心」して、(坐)禅へのコダワリを捨てて下さい。

役立たず(無功徳・ムクドク)とばかりに、ソレすら捨て去り、忘れ去るのが最も大事なこととなります。

 無門関 無門慧開の序(冒頭)にある「門より入るものは是れ家珍にあらず」・・「なんぞ言句に滞(とどこお)って解會(げえ)をもとむる・・をや」

人間の五感(見る、聞く、觸る、嗅ぐ、味わう)から認識できるものは、本当に(価値ある)宝とするものではない・・ことが体中にいきわたり、薫香してくるのです。

こうした状況は、独り一人、・・ナカナカ出来難い「3分間独りイス禅」が身についてこそ体得出来ることです。

街中で薪を売って母を養っていた恵能(638~713)が、思い至って五祖法演の寺に入り、山猿と罵(ののしら)れながら、米つきをしていた時に「菩提もと樹にあらず、本来、無一物」と喝破したのは、決して、坐禅したから悟り得たことではありません。

むしろ、臨済義玄臨済宗開祖?~867)の出た頃までは(坐禅は)瓦を磨いて鏡となすようなこと・・愚かな出来事として・・南嶽懐譲(677~744)とその弟子、馬祖道一との磨甎(ません)問答・・のごとく、必要条件ではアリマセンでした。

鈴木大拙翁は、上田閑照・木村静雄との対談「臨済録」を語る・・の「生活の中の坐禅」で、「坐禅のはたらきというより、坐禅をさせるもののはたらきだ。そいつを見にゃいかんとわしはいうんだ。坐禅にとらえられると坐禅の中にいろんな妙な境涯を見ることになる。坐禅を主にする人は、その中から起こる境地を本物だと思う。心理学者や精神分析の人が好むところだ。そいつがいけないんだ(中略)・・のように、言葉(文字)に囚われて、三昧の境地を禅の境地と思い込みます。

これに警告しておられます。

この三昧を、禅の境地だと思い込む・・あるいは求道者に、それがサトリへの道筋だとか、精神安定の効用があるのだ・・とか、教導することが、かえって、純禅(解脱)を妨げることになるのです。本やお経や修行・坐禅(瞑想)の教導などに、まるで蜘蛛の糸に囚われてしまうようになるのが、一番、なってはならないことです。

ドダイ、悟りといい、頓悟・見性といい、大覚・成道と言い、解脱と道い、用語はいろいろありますが、三昧境地を含めて、すべて・・ソンナ境地は「禅による生活」の境地ではアリマセン。

前に書きましたが、自覚(大悟)したという自覚があるとすれば、それは・・まだ自覚していない・・下らぬナマザトリの証拠です。

チョウド ドコカノ国の政治家が、コロナのワクチン騒動とオリパラ実施騒動を、遺憾に堪えません!とか、反省します!とか・・口で言う内は、叱られた子供のアヤマリ同様、反省していないことなのです。

酒のみ運転で捕まった者が、私は酔っていない、正気です・・と主張するようなものです。蕎麦屋の釜の中です(湯・ユウばかり)

 【閑話休題・カンワキュウダイ・・それはさておき】

誰からも何の教導も受けず「独り坐禅」は 役立たずで行い、自然な数息が出来るようになったら、そんな坐禅すらも忘れて・・禅語録(無門関・碧巌録)の、引っ掛かりのできた1則の【WHY?】に向き合うことです。自分の、何処からか湧き上がってくる【どうして?】だろう・・の、解決のつかぬ疑問の思いが、めぐりめぐって、数息坐禅に溶け込んでくれるのです。

どうやら・・そのあたりから、自分の独りポッチの立ち位置(坐り位置・行住坐臥)がボンヤリ自覚して、言葉を失う状況になりましょう。

世界的なコロナ騒ぎが、政治や社会的な変革の機となりました。この事件は従来の禅にとって「滅びの一撃」となりましょう。

跡には観光・拝観禅つまり寺僧の生業(ナリワイ)禅や効用効果を求める心理坐禅が細々と営業を続けることでしょう。

逆に云えば、純禅(独り接心)にとって、願ってもない禅 体得のチャンスです。

禅の極点に立つためには、磁石・・この場合は、自分のココロの中の【WHY?】です。そして、その歩き(生活行動)です。

達磨の坐禅は・・役立たず(無功徳)=WHY?です。

目的地は・・廓然無聖(かくねんむしょう・・カラリとした青空)です。

年頭から、碧巌録・無門関の意訳、編集が第3稿を迎えました。後、半年以上はかかるやもしれません、でも、やり遂げます。ソレまでは、羅漢と真珠の禅のココロ、禅の話を雑記として登場させます。

どうぞ、折々にはてなブログ「禅者の一語」「禅のパスポート」ご覧ください。

有(会)難とうございました。加納泰次拝。