禅のパスポート

禅語録 無門関no解釈to意訳

奉魯愚 碧巌の歩き 羅漢と真珠・・の拄杖話の継いでに・・

 有る奴にやり無い奴から取る・・そうすると禅が湧く・・本則 素玄居士

この則は・・初めから終わりまで、素玄居士の文字通り、丸写し。

読者の皆さん・・今回は・・独り坐禅で素玄居士と相見してください。

     芭蕉 拄杖(ばしょう しゅじょう)第四十四則

    【本則】芭蕉和尚 衆に示して云く 

    汝に拄杖子(しゅじょうす)有(あ)らば、我 汝に拄杖子を与えん。

    汝に拄杖子無(な)くんば、我 汝が拄杖子を奪わん。

【本則】素玄居士 提唱

禅坊主は なかなかキイタ風なことをぬかす。

有る奴にはやる。

無い奴から取る。この拄杖子とは禅坊主の持っている棒のことで、禅のシンボルに用いられる。碧巌集にもよく出てくる。

本則は禅のある奴には、禅で応対してやろう。禅のない奴なら禅を奪い取ってやる。

この禅は一物のなきことを指すのじゃ。

雑念妄想があると禅はない。

禅のないとは、この雑念妄想があることで、禅を奪うのは雑念妄想を奪うのじゃ。そうすると、そ奴に禅が湧いてくる。

修禅の学人を接し これを自分と同じようにする、ツマリ禅の修行をさせるには、雑念妄想を抜きとるのじゃ。その手段はいろんな公案を捏ねくりまわし、棒し喝し あるいは、速やかに道え、速やかに道え・・とか、種々にしてまるでネズミが銭筒に追い込められた様にしてやる。赤裸々にすじゃ。慧可の不可得(ふかとく)じゃ。

こうなると雑念も妄想も居どころがなくなる。

廓然無聖(かくねんむしょう)じゃ。すなわち雑念妄想を奪い取るのじゃ。そうすると禅が湧く。無一物中 無尽蔵(むじんぞう)カナ。

こんな説得法が古来のやり方らしい。

説得は師家の手腕で境に従って景ありじゃ。

本則は この逆にも見られる。禅を持っているぞ・・などと云う奴に拄杖子で一本ポンと喰(くら)らわしてやる。悟臭の吩(ふん)たる奴にはこの手でやる。禅も何もないと云う飛び切りな奴なら、そ奴から禅を引き抜いてやる。即ち禅機を弄(ろう)して、他の禅機を見るのじゃ。

本則は二様に見られるが、こんなのは講釈禅で公案の真意とは違う。本則は有る奴にやり、無い奴からとる。サアどうじゃと云うので、拄杖子はつけたのに過ぎぬ。重きに便にし、軽るきに便にせずじゃ。

これが活作略(かつさりゃく)じゃ。 

素玄云く 首吊りの足に噛みつく野犬かな

      【無門曰く】扶(たすか)っては 断橋(だんきょう)の水を過ぎ、

       伴(ともな)っては 無月の村に帰る。

       もし喚(よ)んで 拄杖となさば、

       地獄にはいること箭(や)の如し。

      【無門曰く】素玄居士の註・・ソノママに意訳とします。

素玄 註・・断橋の水を過ぎ云々(橋の落ちた川をわたり、暗夜の村を行く時の杖、

この杖を拄杖子と云わば、堕地獄じゃ。拄杖子は杖でない)

 

     【頌に曰く】諸方の深(しん)と浅(せん)と、

      すべて掌握(しょうあく)の中(うち)にあり。

      天を撐(ささ)え ならびに地を拄(ささ)う、

      處にしたがって宗風をふるう。

     【頌に曰く】素玄居士の註・・ソノママに意訳とします。

 素玄 註・・拄杖子じゃから掌中(しょうちゅう)にある。

        何にでも使える。

  天を撐え地を拄うと云うのも 誇大にすぎて狂気じみている。

  こんな文句のある文章は 値打ちがない。     

 【附記】 この則は・・初めから終わりまで、素玄居士の文字通り、丸写し。読者の皆さん・・この則は、独り坐禅で素玄居士と相見なさることです。素玄云く・・の一語・・絶語を凌ぎます!

こうした解訳は、この第2稿まで。第3稿は全くの内容を改め出版するため、この奉魯愚に掲載しません。

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