禅のパスポート

禅語録 無門関no解釈to意訳

◆とっくの昔・・ひそかにZENは山猿に持ち去られたぞ!

禅のパスポート NO23 提唱無門関(素玄居士)復刻・意訳  

      不思善悪(ふしぜんあく)第二十三則 

【本則】素玄提唱 六祖は達磨より六代目にあたり名は恵能(えのう)。道に人の金剛経を誦(しょう)するあり。「まさにとどまる處なくしてその心を生ず」とあるを聞き、禅に志し黄梅山の弘忍(ぐにん)に参じ米つき男となる。8カ月にして大事を了す。六祖 附法の時節 至を知り、大衆に偈(げ)を求め意に契(かな)う者に、衣鉢を伝えんとす。明上座あり「身は是れ菩提樹、心は明鏡臺(だい)の如し、時々勤(つと)めて払拭せよ、塵埃(じんあい)を惹(ひ)かしむる勿(なか)れ」と、秘(ひそ)かに伝衣を自分がと決めていた。六祖も一偈を作り「菩提もと樹なし、明鏡また臺にあらず、本来無一物、何の處にか塵埃を惹かん」と・・この偈は少々 食い足りないが 偈ばかりで判断はできぬ。弘忍その夜 恵能に衣鉢を伝え、さらに注意して、ここにあって大衆の嫉妬のために害されるやもしらんから逃げよと(教導した)。直に逃げて大庾嶺(だいゆれい)にいたり本則となったのである。

一領の故衣が山の如くに重いというのも おかしい話じゃが、明上座も力をもって争うのに 良心が咎めたのじゃろう、善を思わず悪を思わずと云うだけでは足りない愛憎苦楽もあるのだが、これは機縁じゃ。不思善悪で雑念妄想が一掃されたのじゃ。一掃してみると何もない空(から)ッポで、そこで更に意旨ありやと訊いたわけでもあろうか、密はかえって汝の邊(ほとり)に在(あ)りじゃ。

本来の面目は即ち この密で、明上座も不思善悪だけでは省ありの程度で、密を握らんことにゃ本物ではない。   

【本則】六祖、ちなみに明上座(みょうじょうざ)、追うて大庾嶺に至る。 

     祖、明の至るを見て即ち衣鉢を石上になげうって云く「この衣は信をあらわす。

     力をもって争うべけんや。君が持ち去るにまかす」

     明、ついにこれをあぐるに山の如くにして動ぜず。

     踟蹰悚慄(ちちゅうようりつ)す。

     明云く「我きたって法を求む、衣のためにするにあらず。

     願わくば行者(あんじゃ)、開示(かいじ)したまえ」

     祖云く「不思善(ふしぜん)不思悪(ふしあく)、正與麼(しょうよも)の時、

     那箇(なこ)か是れ明上座が本来(ほんらい)の面目(めんもく)」

     明、当下に大悟し、邊体(へんたい)汗ながる。

     泣涙作禮(きゅうるいさらい)して問うて曰く

    「上来(じょうらい)の密語密意(みつごみつい)のほか、かえって更に意旨ありや否や」

     祖曰く「我いま汝がために説くものは、すなわち密にあらず。

     汝もし自己の面目を返照せば密はかえって汝が邊(へん)にあらん」

     明云く「それがし、黄梅にあって衆にしたがうといえども、実に未だ自己の面目を省(せい)せず。

     いま入處(にゅっしょ)を指授(しじゅ)することを蒙(こうむ)って、

     人の水を飲んで冷暖自知(れいだんじち)するがごとし。

     いま行者はすなわち某甲(それがし)が師なり」

     祖云く「汝もし是の如くならば、すなわち吾と汝と同じく黄梅を師とし、よく自ら護持せよ」

素玄曰く 大庾嶺上、衣鉢を擲(なげう)ち、おもむろに腰の煙草入(たばこい)れを探(さぐ)れば、明上座すでに来たって悪鬼に似たり。

大庾嶺上、風冷なり。

傳衣を焚(た)いて暖(だん)をとる。

(密/みつは汝の邊ほとりにあり)

【本則】明上座・・ようやく山頂で蘆行者(恵能)を捕まえた。

彼は石の上に衣鉢を置いて、明上座に語りかけた。

「この衣鉢はZEN=悟りを表すもの・・力ずくで奪うものではない。ほしければ君が持ち去るがよかろう」

じゃ、遠慮なく頂きます・・と、取り上げても、やましい気持ちが邪魔をして、山のように重く感じて持ち上げられなかった。

往くも帰るもならず、ギラギラした燃える目で蘆行者を見上げた明上座「私は衣鉢の為に追いかけて来たのじゃない。菩提樹もなく明鏡台もない・・偈の真意が知りたいのです。どうぞ開示してください」蘆行者は、脂汗を滴らせて懇願する明上座を、傍らの石に座らせて云う。

「ここに至って、イイも悪いも価値損得は捨てなさい。さあ、この今がいま、何ものに依らない・・あなた自身は・・」とするどく問われて明上座は省悟した。緊張の糸が途切れて安心したのか、涙が溢れ出てきた。

「ありがたいことです。いいも悪いも消失しました。このカラッポのZEN(密意)の他、その意旨はありましょうか」

蘆行者「説いたのも、君が得たのも、密なるものではない。いま君が自分の面目を返照すれば、密はかえって自分の周りにある。コレが大事だ」

「黄梅山では修行が大事とばかり、密なる本来の面目を失っておりました。いま、水を飲んで冷暖自得の心地です。行者こそ、私の師です」

(そうした禅境のなら)「ワシと君と、一緒に黄梅の弘忍老師を師としよう。善く自ら、是を護持しなさい」

この、六祖恵能が大庾嶺(だいゆれい)で神秀(じんしゅう・明)上座と衣鉢の取り合いを演じた 二十三則の前には、蘄州(きしゅう)黄梅県、東馮墓山(ひがしひょうもざん)の五祖弘忍(ぐにん)を訪ねる、嶺南(れいなん)(南蛮なんばん、獹獠(かつろう)/野蛮な猿猴えんこうの住人)の薪売りで母を養う蘆行者(ろあんじゃ)=曹渓恵能(そうけいえのう638~713)の、求道見性の話がある。

菩提(悟り=悟道の人)はあるのか・・その悟境(地)はどんなものか・・禅を伝燈するにあたり、頌偈(じゅげ)を求めた五祖弘忍に、暗夜、明上座は一篇の禅境詩を書き付けた。

   身是菩提樹   わが身こそ悟りの樹なり

    心如明鏡台   ココロは磨かれた鏡のごとき

     時々勤払拭   迷いの曇りを磨き上げして

      莫使染塵埃   ホコリやチリに汚染されぬようにすべし

あくる朝、壁に書かれた偈を読んでもらった、字の書けぬ蘆行者はついでに、ワシの詩を頼んで二つ書いてもらった・・と、正直に六祖壇経(敦煌本・恵能自叙伝)にある。

  菩提本無樹   もともと悟りに樹はよけい

   明鏡亦無台   ココロを支える台いらず

    仏性常青浄   ZENはつねに清らかソノモノ

     何処染塵埃   いったい何処にホコリつくかナ

その2 禅は学んでもつまらない。禅にめざめ体得してこそ大事だよ・・

  心是菩提樹   ココロこそ悟り・ZENソノモノで

   身為明鏡台   おのれは鏡の台ソノモノだ  

    明鏡本清浄   モトモトきよらかソノモノなのに

     何処染塵埃   どんなにしてもホコリはつかぬぞ

恵能の見性を見届けた弘忍は、法燈の要らざる争いを予測して、彼にひそかに衣鉢を与えて船でのがすが、それを知った明上座は逃がすものかと、あとを追いかけ、この大庾嶺での舞台の幕が開くのである。

ただし、学者が面白おかしく解説しても、薬の効能書きを読んでも病気は治らない・・ごとく、自分が自分の心(本来の面目)を攫まないと、誰かがつかんでくれるなど期待したら大間違いです。

サア、云く因縁はここまでにして、釈尊伝来の衣鉢を奪い取ろうとして、追いかけてきた明上座のソレカラ・・を見てみよう。

   【無門云く】六祖 謂(いい)つべし、

   この事は急家(きゅうけ)より出ずと、老婆親切(ろうばしんせつ)なり。

   たとえば新荔支(しんれいし)の殻(かく)を剥(は)ぎ終り、

   核を去りおわって爾(なんじ)が口裏(くり)に送在(そうざい)して、

   ただ爾が嚥一嚥(えんいちえん)せんことを要するが如し。

 素玄 註急家云々(事情切迫だから禅を噛んで吞み込ませたの意か)

 【無門云く】大庾嶺の山頂で、目を血走らせて求道、問法の明上座を相手に、事情切迫のため、ZENの殻をむきタネを取り去り、食べやすい大きさに切って、フォークにさして口元に運んでやる・・とは・・。だから蘆行者・・いつまでも頭を剃らず、素人ぶって放浪していたのか・・親切にもホドがある。

     【頌に曰く】描(びょう)すれども成らず  

           画(えが)けども就(な)らず、

            賛するも及ばず

            生受(しょうじゅ)することを休(や)めよ。

          本来の面目、隠すにところなし、

          世界 壊(え)する時、渠朽(かれく)ちず。

素玄 註休生受(絵も筆も及ばぬ。さらばとて生呑み込みはダメ)本来面目云々(禅は隠すにも隠されない。密というのを秘密としたらいかん。

極所奥底の意とし、また禅の意でもある。それは何もかも丸出しのものじゃ。

壊も朽もない。この頌は拙劣。

【頌に曰く】この思わざること・・絵にも筆にも描き切れないが、そうかといって、生半可に納得したふりをしてはダメだぞ。

本来の面目は、隠すに隠せないものだ・・「密」というのを「秘密」としたらアカン!・・と素玄居士の注意書きがある。

ただの「極所」=「奥底」=「禅」の意とすべし。それは何もかも丸出しのモノじゃ。破壊も朽ち果てることもない。

(この頌 拙劣であると、素玄居士 吠えています)