禅のパスポート

禅語録 無門関no解釈to意訳

◆火もまた涼し・・ホントかな?

心頭を滅却すれば・・火もまた涼し・・ホントかな?

昔、松竹映画の木下惠介監督が映画「笛吹川」を製作しました。天正十年四月三日、甲斐の国、武田信玄の位牌所である恵林寺の快川紹喜(かいせんじょうき)と修行僧百人余りを、織田信長の軍勢が、寺ごと山ごと火をかけ、有無なきままに皆殺しにしたのです。信長は、信玄と戦って勝利した勢いに乗じ、快川が、佐々木義賢の子、義治を寺にかくまったこと・・さらに信長に屈従しない禅者達の剛直ぶりを遺恨として 一山郎党を、山門に追い上げて焼き殺したのです。

快川は,戦火を逃れてきた反信長勢力の衆僧をかくまっていましたが、信長の軍勢は逃げることができないよう、山の周辺を軍兵が囲み、刀や槍で脅しつける残虐ぶりであったといいます。

この最後の時に挑んで、快川は「安禅、必ずしも山水をもちいず、心頭を滅却すれば 火、自(おの)ずから涼(すず)し」と遺偈して火定(かじょう)三昧となり果てました。

滅却とは・・ホロビルこと・スッカリなくすこと・・心頭滅却は、無念無想の境地に達する事とあります。理屈で言えば「断・捨・離」の行為で得られる境地ではありません。

余談ですが・・この映画(笛吹川 原作 深沢七郎、監督 木下惠介)の出演要請が大船の松竹撮影所から、横須賀線で一駅隣の北鎌倉駅にある臨済宗円覚寺の僧堂(修行僧)に届いたのです。たしか管長は朝比奈宗源老師の頃でした。宗源老師は、雲水達に、映画のセットであれ、火で焼かれる快川の禅行を体験させたかったのでしょう。出演を承諾しました

(私は当時、円覚寺山内にある続燈庵に寄宿してお茶の水に通学する学生でした)映画のスタジオでは、山門の伽藍に、居並ぶ禅僧たち(雲水の本物)が、さすが禅堂で修行しているだけって、ピタリ、坐禅三昧・・助監督が火付け役で、OKが出たら、スカサズ消火に当り、逃げ出せる万全の準備を期して本番を迎えたそうです。いよいよスタートでカメラがまわり、伽藍の下で火が燃え上がります。・・ココからは話のまた聞きです・・「本番です」監督の声がかかり、フィルムが回り始め・・準備した紅蓮の炎が伽藍にメラメラと上がった瞬間、あまりの熱さに居並ぶ坐禅の雲水さん、アッという間に逃げ出したそうです。

さてもさても・・当時の焼け死んだ快川紹喜や宝泉寺の雪峯、東光寺や長禅寺の禅者達の覚悟の禅境(地)に、ただ言葉もなく思いを深くしたそうです。

もちろん誰一人、火傷やケガもなく円覚寺に戻って来たそうですが、このシーン、本編で使用されたかどうかシリマセン。(たぶんカットされたことでしょう)

 この心頭滅却の絶句は、晩唐の杜荀鶴(とじゅんかく846~904)の作であるといわれています。その意は「暑い夏の頃は、山間渓流の涼しさを求めるまでもなく、ただ心頭を滅却スレバ暑さも涼しく観ぜられる」といった程度の感想文です。私は・・快川の引用は、単なる引用ではなく、日頃の快川ならではの「平常心」・・禅ニヨル生活の「禅境偈」であるとつくづく思います。

ZENは、独り一人の心の奥底にあり、自己内省により発見、発明(悟り)されることを待っています。そのキッカケが「たった3分間独りポッチ」のイス禅です。

人は悩む時・・哲学とか人生本とか・・宗教教団や仲間など・・何かの指標にすがりたくなるものですが、最後に頼りになるのは自分だけとなります。その自分だけ・・も、あてにはならず・・結局、役立たず(無功徳)のアリノママになることが必要です。

紀元520年に、インドから支那(中国)梁の国(金陵=南京)に海路数年を費やしてやって来た菩提達磨は、武帝と禅に関する問答を試みたが、禅を「無功徳(無効用)」といい・・禅とは何か?の問いに「廓然無聖(かくねんむしょう)」と答えて、嵩山少林寺に9年面壁坐禅した菩提達磨。純禅は、1500年経過した今も「真っ青な・・空」の如き変わらぬ天気です。

この禅境(地)の クダクダしい説明は、かえって自発的(自覚)を阻害することになる・・として・・まあ、そんな感じで奉魯愚しております。

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 ZEN・独りポッチ禅につきましては・・下記メールでご連絡の方宛て ご返事いたしております。加納 泰次 taijin @ jcom.zaq.ne.jp

 

達磨 無功徳の面壁禅 VS 日本 盤珪の不生禅・・

仏(禅)心を、念(執着心)に仕替えさしゃんなと申すことを、俗の人に説き聞かせまする程に・・

      ◆「不生禅」(ふしょうの禅・・盤珪永琢)

私は、日本の代表的禅者に、ここで紹介する盤珪永琢(ばんけい ようたく 1622~1693)を挙げます。

(もちろん、白隠一休さん良寛さんなど、敬愛する禅者は沢山おられるけれど)盤珪さんほど 解かりやすく禅を説かれた方はいない。

それも一般の悩める庶民に対しての提唱(講座)である。

無門関や碧巌録の意訳をはじめた六十才の頃から、この「不生禅」が、次第に心の片隅で、フツフツと醸成されてきたのです。

2018(平成30)年2月、神田の古本屋で、盤珪禅師法語集、藤本槌重編著(昭和46年(株)春秋社刊)を買い求め、この奉魯愚に紹介するべく読みました。

平語、民衆の言葉そのままに禅を説かれています。身に染みて再読しました。

以下、文中「仏」の字を、悟り(覚者)=「禅」と置き換えて紹介します。

◆「人々 皆、親の産み付けてたもったは、不生の仏(禅)心一つ。餘の物は産み付けやしませぬわい。不生なが禅心、禅心は不生にして霊明なものに極まりました。不生で一切事が調いますほどに、皆不生の禅心で居さっしゃれい。不生の禅心でござれば、今日の活禅(禅による生活)でござるところで、不生で居ますれば、迷いようもござらぬ程に、迷わにゃ悟りは要りませぬ。直(じき)な事じゃござらぬか。

また、不生なものは、不滅なものに極まりました程に、身共は、ただ不生とばかり説きまして、不滅とは云いませぬ」法語/三p186=41

◆「皆、禅心を餓鬼(がき)に仕替え、修羅(しゅら)に仕替え、あれに仕替え これに仕替えて、不生で居ませず、迷いますところで、凡夫に成りますわい。身共がもうす、この仕替えぬ、と云うが肝要な事じゃと思わっしゃれい。p187=42

◆「仏祖と申すも生じた跡の名でござれば、不生な場からは第二義、末(すえ)な事でござる程に、不生で居ますれば、仏祖のもとで居るというものでござるわい。至って尊いことでござらぬか。不生決定(ふしょうけつじょう)しますれば、法 成就ともうすものでござるが、その決定しました事は、我より外の人は知りませぬ。人に知らせようもござらず、また人の知ろうようもござらぬ。また人の知らぬとあっても、苦しゅうはござらぬわい。不生決定の場は仏祖も不識じゃわい。どなたに依らず、不生な事を決定めさるれば、骨を折らずに畳の上で、心安う活如来(禅による生活)で居るというものでござるわい」p187=43

 

ただ「不生」と決心、覚悟すればよいのだ。昔、禅がインドから中国に渡って来た頃、純禅の面壁(達磨)禅は盛んだったが、唐代、日本に渡来して、寺僧の教導による修禅僧堂の修行がハビコッて、何時しか直指の禅が消滅してしまった。

今、私は・・盤珪が発明・再発見した「不生禅」を盤珪の語りソノママに紹介している。迷いは仮に起こり、仮に滅する、実体のないものである。禅心は不生・不滅だから、少しの念もない。だから迷いもない。迷わないのに悟りたい・・とは無益なこと。不生は自知冷暖・・「自ずから冷暖を知る」までのことじゃわいの・・と道(い)う。

(江戸初期の庶民への言葉が、直に心に響いてくることを願います)

 

「自分から念を生じ、知恵才覚、利根を出さいでも、万物はそれぞれに、自ら通じ別るるは、霊明なる禅心は不生にして、事事物物がそれぞれ埒(らち)があくということを、深く信心決定して肯(うけが)はしゃるまでの事でござる」との仰せなり。

 

・・解かりやすいでしょう・・もう一つだけ・・坐禅して悟りを開こうと思うのは大間違いだぞ・・と警告しておられます。

イヨイヨ 復刻版・・素玄居士の提唱 無門関 や、碧巌録 意訳が本年中に出版されるでしょう。達磨の無功徳禅と何が違うのか・・私が道う役立たずの「3分間独りイス禅」と何が違うのか・・お判りになったでしょうか?

 

禅のパスポート・・看よや看よ 古岸 なん人か釣り竿を把(と)る!碧巌62則頌

禅者の一語・・碧巌の歩記(あるき)    

碧巌録・無門関の現代語 意訳 第2稿を編集するため、掲載中の各則を順に回収(削除)しています。

どうぞアナタも この役立たずな奉魯愚(ブログ)を読み返して見て下さい。達磨の無功徳禅・・思いがけない発見があると信じています。

  • 当面の間・・禅者の一語では、一休宗純風狂禅・大愚良寛の野風禅や盤珪永琢の不生禅など・・禅者の一悟にふさわしい一語を紹介していきたい。
  • 禅のパスポートでは、電磁(量子)的社会にあって、独り一人にある「ZEN」の発見・発明について・・また、生前葬(逆葬)の薦めなど、深堀したい。
  • 羅漢と真珠・・元服の記では、スマホやマンガ中毒(依存症)になった中学・高校生を主な対象に、独りポッチの3分間ポッチの・・イス禅を推奨していきたい。いわば、生活という荒れ地に、禅のタネをまいて・・宗教や哲学・論理・教団組織になじまない・・菩提(自覚)樹を育てたい・・。

引いては、宇宙開拓に乗り出すアストロノート無重力の宇宙船の中で、禅ニヨル生活を行うことを夢見て・・の記録としたい。

今、この時に もつとも似つかわしい公案(2020-3-30)を ここに紹介しておきます。

        碧巌録 第十二則 洞山麻三斤(どうざん まさんぎん)

【垂示】禅者の行ないを、殺人刀とか活人剣とかいうのは昔からだが、求道者の(死生の)首根っこを押さえつけて自在に操(あやつ)る達道の師がいる。殺を論ずる時でも、まるで相手に殺気を悟られないし、また、活きる・・禅行そのもので、止めを刺されていることを気づかせない腕前である。

だから禅者の・・ギリギリの一語は、釈迦・達磨と云えども不傳である。昔(中国の故事に)井戸に写った月を本物と見誤って、飛び込んで溺れた猿がいたそうだ。求道者や教導の輩は、よくよく注意するがよい。すでに「不伝」と云っているではないか。

それなのに、どうして膨大な禅語録や公案、理屈がついて回るのか。祭り見物は阿呆のスルコト・・それなら観るより踊れだ。

サア具眼の者ナラバ・・本則を(ミルではなく)看るがよい。

             【垂示】垂示に云く、

              殺人刀、活人剣は、すなわち上古(じょうこ)の風規にして

              また今時の枢要(すうよう)なり。

              もし殺を論ずるも また一毫も傷つけず、

              もし活を論ずるも また喪心失命せん。

              ゆえに道う 向上の一路は 千聖も不傳なりと。

              学者の形を労することは 猿の影を捉(とら)うるがごとし。

              しばらく道え、

              すでに是れ不伝なるに なんとしてか 

              かって許多(そこばく)の葛藤、公案かある。

              具眼の者は 試みに説く 看よ。

【本則】求道者が洞山に尋ねた。

    「禅(佛)」とは、どのようなものでしょうか。

    洞山、手許の麻布を見ながら「是は重さ三斤だ」

                   【本則】挙す。僧 洞山に問う

                      「いかなるか これ佛(禅)」

                       山云く「麻三斤」

【頌】太陽と月は、日々。働く人と共にある。

洞山の返事は、どうして どうしてナカナカのものだ。

求道者は麻布を手にした洞山に、「ご精が出ますね」と語りかけた。まるで片足のないスッポンと目の不自由な亀が、浮かぶ瀬のない所を、あてどなく流離(さすら)うばかりの有り様だ

花いっぱい・・山は錦イッパイ・・南の温かい地方には竹林が・・北方には木々の林が碧なす天に連なっているではないか。

これについて、言語を絶し行いで禅境を示した者で思い出すのは・・かって・・南泉(普願)の示寂(834年)に際し、弟子の陸亘太夫が棺桶の前で大笑いしたことである。葬儀の場で、大笑いしたことを非難された陸太夫は、今度は「悲しや」と涙して慟哭。周囲の者をあきれさせた。のちにこのことを聞いた同期の長慶大安が・・「よくわかるぞ。死というなら笑うべし。哭(な)くべからず」と評した。

これほど率直、単的に、真実(麻三斤)と計量されたら、地獄の閻魔様でも舌は抜けない。大笑いの天地イッパイだよ。

      【頌】金烏(きんう)は急にして 玉兎(ぎょくと)はすみやかなり。

         善應(ぜんおう)なんぞ かって軽觸(けいしょく)あらん。

         事(じ)を述べ 機に投じて洞山を見たるも、

         跛鱉(はべつ)盲亀(もうき)の空谷(くうや)に入りしなり。

         花 簇々(ぞくぞく)錦(にしき)簇々。

         南地には竹、北地には木。

         よって思う。長慶(ちょうけい)と陸太夫(りくだゆう)

         道(い)うことを解せば笑うべし。

         哭(こく)すべからず。 咦。(い・・笑うこと)

 【附記】長慶大安(百丈懐海の弟子のこと/㊟長慶慧稜ではない)陸亘太夫(南泉普願の弟子)

洞山守初(910~990)雲門文偃の高弟。雲門は、同じ問いに乾屎橛(カンシケツ・・糞かきヘラ)と答えている。

麻三斤・・麻糸約1・5㎏

  • 佛=禅なり・・(buddha仏陀ブッダの略)賢者、覚者、智者の意。インドでは釈迦出世以前から、普通名詞として使用されていた。大乗(欣求)仏教的に釈迦を「佛」と表現した求道者の誤りは、現代の寺僧の生業の元にもなっている。釈尊や仏教(宗教)と混同、誤解する人多くいて、これは「禅」と表現するのが正しい。                                  私は釣れなくとも釣りが大好きだ。誰か寄ってきて「釣れますか?」と聞く阿呆より・・「立ち見の人を釣ってしまった阿呆な釣者」でありたい

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坐禅は ハタシテ・・「禅」なのか?

禅のパスポート

坐禅すれば「禅」・・を理解できるのでしょうか?

坐禅は・・ピチピチ跳ねる若鮎の如き・・「禅」ではありません

答えは「NO」です。

いくら坐禅しても、理解して禅(覚)者にはなれません。

どうしてか・・お話しします。

以前、磨塼作鏡 マセンサキョウという禅語録に出てくる中国唐代の馬祖道一と師の南嶽懐譲の「瓦を磨いて鏡となす」坐禅修行をして悟りを開く、そんなことは不可能だ!という話を紹介しました。

電磁的社会のアナタは、釈尊菩提樹下、悟りを開かれたとか・・達磨が遠くインドから支那(中国)に船旅をして、禅を伝えたといわれる逸話など、ドコカノ禅寺での講話や、本で知っておられるでしょうが、「禅」を理解できる・・という大間違いのもとは・・釈迦が「坐禅」をして悟りを開かれ・・その釈迦(正覚・禅・解脱)の教えが仏教・禅宗だと思われているからです。これは禅と仏教を混同してしまった結果です。

ありていに言えば「ZEN」を仏陀(ゴーダマ・シッダルダ)の悟りと、その教え(仏教)と一緒にして誤解してしまったのです。

禅は、仏陀が悟りを開かれる以前に、すでにバラモンの教えとしてあり、たまたま仏陀も、暁の明星を看られて、悟りたる人=覚者たち・・つまり仏陀「禅者」の一人になられたのです。これを禅(静慮・大覚・悟り・解脱)の代表者のように仕立て上げ、欣求仏教(宗教)として仏教集団(寺僧)が、布教して回り教団(組織の)勢力を広げたのです。

禅を、誤解を恐れずに言えば インドで発見された数字【0】ゼロを、六道輪廻の人生観に別個の超越する浄土(極楽)を設定(欣求する教団組織として体系化した)のが仏教の概念でしょう。

インド仏教は、さすが実際的実利的な中国(支那)の地に合って、言葉にも、文字にも書けない「禅」を、根本(素・元・玄・宗)に据えた教え・・仏(仏陀=正覚)者の教えとして「宗教の・モト」=禅宗と名付けたハズでした。

ところが、中国への進出に遅れて海路、ノコノコやって来た達磨禅を、すでに開拓を終えた他の仏教教団が、仏教全体の素(モト・宗)とは認めませんでした。

【禅】は、具体的・実利的な支那文化の中で、新しく「教外別伝・不立文字」とか「正法眼蔵 涅槃妙心 實相無相 微妙法門」とか、旧来のインド仏教にない・・訳が解らない中国漢文の「妙」とか「相」とか「空即是色」とかの、不思議な文字表現を取り込んで、宗教(集団・組織)上の新宗派として成立していきました。そして、それが日本に伝播したのです。

これは何事につけ、継続拡大をはかる、人間の社会的組織の保存・拡大の方法です。寺僧と欣求宗教は、ありていに言えば、常に市場(フィールド)に需要を作るマーケテング(生業)活動の一つなのです。

しかし、臨済の登場する時代までは、禅は本来無一物・・孤独に深山幽谷に隠れ住む求道者のみの純禅でしたので、これに同調(シンクロ)するはずがありません。モチロン何事につけ「造作」を完全否定して、棒・喝をふるった禅者達の背後には、智慧+慈悲を、南無釈迦牟尼仏と祈願する、禅宗教団が、生き残りをかけて、宗派の枝葉を伸ばしていきました。逆に云えば、揺籃期にあつた「禅」の、やむを得ないサバイバル事情でありました。

ソレデモ・・よくぞまあ・・臨済宗黄檗宗曹洞宗の三宗派が、第二次世界大戦(1945)位まで・・どうにか昭和の年号~1989年が終わるまで息を繋いだ・・といえましょう。

そして21世紀・・世界がデジタル(電磁的)社会となり、コロナウイルスによるパンデミックでアタフタする状況になりました。今こそ「禅」は宗教(観光拝観禅)からから脱皮して、欣求宗教・葬式仏教・坐禅・写経道場・精進料理屋から、親離れ子離れしなければ、未来はないと考えます。抹香臭い葬式とか政治政党に絡む教団仏教に、宇宙時代(量子力学スマホ)の若者は見向きもしないことになりました。

「ZEN」は、釈尊正覚の初めから今日まで、ズット~未来永劫~欣求宗教の一派「禅宗」ではアリマセン。悟りたる(仏陀)⇒【禅】者の本源【宗】をムネとする教え・・が、菩提達磨によって伝えられた「禅」です。

このことは「禅」が「欣求宗教」ではないとした昭和初期の素玄居士(高北四郎著 提唱無門関 ・・絶版中)の著作にも明らかです。また、江戸時代中期の盤珪永琢の「不生禅」には、禅を世界に紹介した禅者・佛教学者の鈴木大拙博士も、寺僧の教導する禅ではない・・新しい庶民禅の底本になるべき・・現代の「禅」復興に注目されておられたようです。

*後の別章で紹介する不生禅は・般若心経の「不生不滅」の一句「不生」で、すべてがととのう・・と喝破した盤珪永琢(ばんけい ようたく1622~1693)は、宗教(的)でない禅者として「禅ニヨル生活」を庶民に説き示した純禅の禅者です)この他・・妙好人も禅者であると認識されていたと思います。

この不生・庶民禅や妙好人に宗教的(マーケテング・・寺僧禅)の悪臭はありません。

 *古くは釈尊菩提樹下の大覚(見性)以来・・唐代の禅者達の語録に、仏像を焼いて暖を取ったり、悟りの証拠である師から貰った衣鉢や机など捨ててしまったりする禅者がおうおうに語録に登場します。お経をトイレ紙と吐き捨てる禅者・公案が語録にあります。当時、禅者は純真(素直・正直)な求道者でした。寺僧の教導(共同)利益、存続発展の生業(ナリワイ)の意識・態度は微塵も窺われません。あるいは「南無釈迦じゃ娑婆じゃ地獄じゃ苦じゃ楽じゃ どうじゃこうじゃというが愚かじゃ」とか・・梵天に乾いたクソを捧げるといって遷化した、日本の一休さんや、また、乞食の生涯・・雲溪桃水(うんけい とうすい1612~1683)。その友・・孤高の禅者 大愚宗築(たいぐ そうちく1584~1669)あるいは武士から身を禅に投じた無教団の石平(山)道人=仁王禅の鈴木正三(1579~1655)。いずれもが江戸初期~中期にかけての民間、庶民の「禅ニヨル生活」を説いたアウトサイダーな純禅の禅(行・道)者が、各自各様の禅を説いて出現しています。

坐禅は(禅ニヨル生活をする・・行)禅ではありませんから、私は、坐禅をするなら、効能書きのない、役立たず、無功徳(無価値)な三分程度の独りイス禅(初心の方には数息坐禅)を推奨します。

サア坐禅でもスルゾ・・と根をつめて、三昧(集中)したところで、心理的異常(魔境)を養成するような・・お寺の坊さんが跡継ぎ資格を取得するための専門道場や僧堂の修行などは、もはや卒業するべきです。確かに、身も心も安(やす)んじるには、無価値で効能のない(TPOの)坐禅が大事です。しかし、おやりになれば、正直・・3分程度で、どんな人も集中する糸が切れてしまいます。後は必ず妄想が湧いてきます。

たったの3分・・坐禅にはならない・・それだからといっても・・僅か3分間程度イスに坐って・・であれ充分じゃありませんか。足が痛いのを我慢して、無理やり結跏趺坐して、脂汗を浮かべて「む~む~」りきんで「悟り」が得られるものなら、千年前の馬祖とその師、南嶽懐譲の磨塼作鏡(マセンサキョウ)など、何のために語録として後世(現代)に残っているのですか。

釈迦(釈尊)や達磨や臨済や趙州や、千年ぐらい前までの禅の求道は、独り一人に備わっている「ZEN」・・般若心経の「色即是空」の「空(無)」を・・独り一人が自覚自悟することでした。        

それこそ・・ナントも文字に表現できない「禅」・・今も変わりない実際の行いなのです。

ですから、釈尊は明星禅・・達磨は壁間・無功徳禅と言い、六祖恵能は「本来無一物」禅。臨済禅は「無位の真人」禅、または「無造作禅」といい、趙州は無(字)禅、喫茶(去)禅といい、一休は風狂禅、盤珪は不生禅、鈴木正三は仁王禅、雲溪桃水は「乞食禅」。あるいは白隠は隻手禅・・良寛さんは「(焚くほどに風が持て来る)落ち葉禅」・・山頭火は「鉄鉢に霰(アラレ)禅」あるいは「濁りつつ澄む禅」・・釈宗活老師は「両忘禅」。山本玄峰老師は「性根玉」禅。素玄居士は裸(心)禅・・私は、「役立たず(無価値)の独りポッチ禅」を現代の若者に推奨します。   

【附記】もともと「正法眼蔵」という言葉は中国で作られた偽経「大梵天王問佛決疑経」(だいぼんてんのうもんぶつけつぎきょう)の拈華品(ねんげぼん)第2に、お釈迦様が摩訶迦葉(マカカショウ)尊者に法(禅)を伝えられた時の言葉の中に出てきます。*参考 西村 惠信 著 抜粋「臨済録をめぐる断章」(自己確立の方法)発行・禅文化研究所

*私は仏典や禅語録で「法」や「佛」を説く文字の代わりに、最もふさわしい「禅」の一字に書き改めています。抹香臭いイメージから脱出して、人工衛星や火星旅行でも、禅ニヨル生活をする禅(行)者が出現してほしいと願っています。

いずれにせよ文字や言葉は・・「名月蘆花 君自(みずか)ら看(み)よ」です。*碧巌録62則 頌

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禅のパスポート・・般若心経と趙州無字(無門関)

はじめの終わりに

般若心経と趙州無字

私は、禅は宗教ではないし、「悟り・解脱」は脳(神経回路)の新創造の結果であろう・・と推測している・・ので、酒を造るような・・長い年月の思考・感性の醸成、発酵期間が必要だ・・と思っている。悟りとも解脱とも見性・透過ともいわれる「禅」は、まるで、物理学の「量子」のような働きと振る舞いが内心にあるようであり、もっと、科学者(物理・量子論などの学者も含めて)による脳(量子的神経回路)の研究が進んでほしい・・と願っている。                   

さて、禅は、タイトルの通り・・般若心経の「空」と、趙州従諗の「無」字に尽きる。禅について、万巻の書があり、古来から東洋に於いて何百万人の求道者が、達道の師を求めて行脚し、坐を組んで修行しているが、百々(とど)のつまりは、「空」か「無」かの二文字・・さらに、それすら空・無に帰して、ソノママ「満チテ有ル」に異ならないことを、実体験すれば、卒業(解脱)である。

だから・・私のいう・・役立たずの「独りポッチ禅」達磨 無功徳禅では、この般若心経の読経や写経、師を求めて行脚・遍歴することも必要なければ・・坐禅(瞑想)、組織的な教導、本ですら、捨て去って、思惑、造作すること・・一切が要らない状況にならなければ、純禅=禅体験は、有り得ないことなのです。

禅は「禅ニヨル生活(日常の行い)をする時」・・確かに、自分の「本髄」に般若心経=「空・無」がある・・のだが、それを確信しながら、般若の門(玄関)を入ったと自覚した瞬間、もう、戸口(玄関)の外に立っている。心経の「空・無」の中に、永続して留まれない。このことは2行目・・「般若波羅蜜多(ZEN)を、深く行(おこなう=ぎょう)ずる時」・・と、禅の前提条件として銘記されているのに、古今、誰も深く指摘しませんでした。

つまり、禅を深く実行できない・・悩める初心の求道者には次の行・・一切の苦しみと厄災から度さ(救わ)れることはないのです。

併せて附記しておきますが、臨済の「喝」や徳山の「棒」は、般若(ZEN)の働き=瞬間の禅機を捉えた「空・無」の表情(ココロ)ですから 恐喝・暴力的行為や発声では決してありません。

般若(ZEN)が見せる、雷光・雷嚇(イナビカリと雷鳴)一声のような、思いがけない天地自然の表情(禅機)なのです。

ですから・・以下、この般若心経は、達道の禅(行)者への・・悟りの完成・・全き安らぎの教えであることに心して発声して読んでください。

     摩訶般若波羅蜜多心経

    (大いなる智慧の完成=禅による正覚の教え)悟りの完成の教え

観自在菩薩       禅者よ

行深般若波羅蜜多時   禅ニヨル生活を深く行う時

照見五薀皆空  形あるもの総て空・無と照らし看るので

度一切苦厄   一切の苦しみと不安から解放される

舎利子         禅者よ

色不異空    「在る」は空(無)にことならず

空不異色     空(無)は自在にことならない

色即是空  すなわち「ある」は、そのまま「ない」のであり

空即是色  空(無)は そのまま「自在・ある」のである

受想行識亦復如是 人の感覚や思いや知識も またこのとおりだ 

舎利子        禅者よ

是諸法空相    すべてが「ない」のだから

不生不滅     生じもしないし 亡びもしない

不垢不浄     汚れてもいないし 浄(き)よくもない

不増不減     増えてもいなければ 減ってもいない

是故空中無色   だから「無」の中に「ある」はないから

無受想行識    思いや行いや知識も「無い」のである。

無眼耳鼻舌身意  眼や耳や鼻や舌、身体などや思いも無く

無色声香味蝕法  五感や執着する欲望・執念も無い

無眼界乃至無意識界 目に映る意識 無意識、本能のすべて無く

無無明亦無無明尽  因果応報や善悪・苦悩の報いなど       

          無明も 無明の尽きることも無い 

乃至無老死     さらに老いて死ぬことも無いし

亦無老死尽     また老いて死なないということも無い 

無苦集滅道     四苦八苦する、輪廻の業や愛執も無い

無智亦無得     智も無く また得るものも無く

以無所得故     その得るところ無きゆえをもって

菩提薩埵依般若波羅蜜多故 「禅」による解脱・・悟りを  

              体現するのである。

心無罣礙無罣礙故  心にこだわりがなく 疑いなきゆえに                   

無有恐怖      恐れおののくことが無いし

遠離一切顛倒夢想  一切の妄想と執着がなくなり離れ消えて

究竟涅槃    ついには安心の禅ニヨル生活をなすのである 

三世諸仏     過去現在未来、無限に解脱した者は

般若波羅蜜多故  禅(悟りの行の完成)禅ニヨル生活ゆえに              

得阿耨多羅三藐三菩提 ピチピチと躍動する命そのもの。

故知般若波羅蜜多   禅ニヨル生活を行うゆえに         

是大神呪 是大明呪  この霊妙で光り輝く真言をのべ 

是無上呪 是無等等呪 比較できない心の円満・不思議をのべ 

能除一切苦      よく一切の苦しみを除き、

真実不虚       真実にして虚なしからざる 

故説般若波羅蜜多呪  ゆえに禅ニヨル生活の真言を説く

即説呪曰      すなわち呪(マントラ)に説いていわく

羯諦羯諦       来たぞ 着いたぞ

波羅羯諦       まったき青空のただ中についた

波羅僧羯諦      よくぞまあ すがすがしいこと

菩提娑婆訶      さあ禅者よ 自然(あるがまま)なり

般若心経                         

【咄=トッ!・・意訳の終わりに・・すべてを吹き飛ばす掛け声をかけておきます】

 

 

◆人と違って・・犬や猫に 禅(解脱/悟り)はあるのでしょうか・・?

禅のパスポート NO1  

終りの初めに・・

終りの初めに・・難透中の難透・・無門関 第一則「趙州狗子」(じょうしゅうくし)・・覚えておられるかどうか・・2017年5月、はてなブログのスタート時に、まるで小学生が、イキナリ、東大受験に出会うような公案(禅問答)なので、ラストに公開します・・と書いた「趙州無字」・・ここに紹介いたします。

素玄居士 提唱(絶版)では、もちろん、初則として記載されていますが、私が勝手に、一番ラストに・・終わりの始め・・とした公案です。

*高校生(昔の元服・結婚した15才位の)若者を対象に 出来るだけ現代語の意訳や解説を心掛けます。スマホ依存症の方では、ついてこれない場合があるでしょうが、後を見ずに進めます。

とにかく・・自分が何故 生きているのか・・その目的は何か・・このことを知りたい人の為に・・約千年前の中国の禅者 無門が編集した「無門関」を、第2次世界大戦前 高北四郎(素玄居士)が、禅や坐禅に関心のある人に提唱(説明)した絶版本(1937年発行)を掘り起こして復刻。解説紹介します。

親や学校や本など・・TVやスマホなどで知ったこと・・習ったこと・・教わった事・・全部、あなたにとって真実ではありませんから・・スッポンポンに「ココロ」を裸にしてください。

人は何のために生きるのか?・・それぞれ誰もが思い悩む究極の問い・・

         無門関 第一則 趙州 狗子(じょうしゅう くし)

             【本則】趙州和尚 因(ちな)みに僧 問う

                 狗子に還って 佛性有りや 也(また)無しや。

                 州云く、 

【本則】素玄居士 提唱 ソノママです

無門関の劈頭(へきとう)第一が有名な趙州狗子だ。

この則のために無門が六年かかったと云うことであるが、本則は実に六つかしい。

参禅の学人に最初に授けるのは、この則というが、それは無理じゃ。大学の卒業試験の問題を小学校の生徒に出すようなもんじゃ。ものにはそれぞれ順序がある。いくら悪辣(あくらつ)がよいからとて、こんなことをするのは、いたずらに学人の根機を疲らし 迷悟を索(さ)くにすぎん。

初めは禅悟の則、例えば世尊拈花、趙州洗鉢、達磨安心、俱胝竪指、趯倒浄瓶あたりからやって、次第に禅機の則にかかるのがよい。大悟の極所は祖佛と同じじゃから、何処から入っても同じじゃ。禅の悪辣はこんなところにない。

無用に学人を脅(おど)すは禅の大衆化に反する。

この趙州和尚というのは、六十一歳で禅に志し諸方を遍歴し、常に曰く、七歳の童子といえども我に勝るものは師とせん。百歳の老翁といえども、我に如(し)かざる者は我即ち他を教えんと云って道を求め、南泉、黄檗その他に参ずること二十年、八十歳で住院し四十年間 諸人を説得し百二十歳で示寂した禅門第一流の偉人じゃ。舌頭 骨なしと云われた人で、口の先がペラペラと実によく動く。そして一度も棒で学人を打ったことがないとのことである。

つまり禅が練れている上に禅機も鋭く それだけの腕前があったのじゃ。この趙州に ある時 僧が問うたのに「狗(いぬ)コロにも佛性があるか、どうか」と。

趙州云く「無」。

この佛性と云うのは、草木国土 悉皆(しっかい)成佛の佛で、普遍共通の大覚成道とでも云おうか、ツマリ人とか狗(いぬ)とかの区別を絶した境地を指すのじゃが、この僧は佛の字に捉われて こんな問いが出たのである。

佛と云うも禅と云うも同じじゃ。

趙州は悉皆成佛の禅の端的(たんてき)で答えた。

それは無と云うてもよし、有としてもよし、その他なんでもよいのじゃ。禅は挙示(こじ)すべきなしじゃ。だから又、何をもって挙示してもよいことになる。

禅は悟りのことで悟りを離れて禅はない。

悟りは人々の自得で、それには読書が機縁となることもあろうし、坐禅工夫も問答も棒喝その他、何が機縁になるかわからぬが、理智や情解では決して得られるもんではない。そういうものが心の中に蟠踞(ばんきょ)すると悟は入れぬ。逃げ出す。

この僧には佛の字や狗子が肚(はら)一杯に詰まっている。それで趙州がそれを追い出す方便に「無」と云って悟りの機縁をあたえたのじゃ。棒でも喝でもそれが機縁になればよいのじゃ。

無の字に捉われてはいけない。

さて、この機縁をつかませる師匠の方で、禅が手に入っていなくては出来ないことである。禅が手に入っておれば何をしてもそれが禅で、また、それが機縁ともなる。

公案と云うのは、それを機縁として禅を得る。または禅機を勘破(かんぱ)する機縁なのじゃ。禅も禅機も祖佛と別ならずで 私見私情を混(こん)ずるなし。政府の文書と同じと云うので、公案と称するのだが、文字ばかりが公案でもない。挙示すべきなしだから、趙州はさらに なんら答うることなしだが、全くその通りじゃ。この場合、棒で打っても喝と怒鳴ってもよい。どちらにしても答うる所なしじゃが、しかし、また、これ答えたるなりじゃ。無も棒も喝も立派な答えじゃ。

なんと答えたのか知らん、ここが理智や情解をいれぬから、理智や情解で判断しようとしたら解からん、そこが悟りである。この趙州の答えを機縁に悟るのである。

ある書物に この後にこんなことを附け加えてある。

「上(うえ)諸仏より、下(した)螻蟻(ろうぎ)に至るまで、皆、佛性あり。

狗子なんとしてか かえって無なりや」

州曰く「彼に業識性(ごうしきしょう)あるが為なり」と。

また、ある僧問う「狗子かえって佛性ありや」

州曰く「有り」。

また問う「すでに是れ佛性あり。なんとしてか皮袋裏(ひたいり)に入る」

州曰く、知って殊更(ことさら)に犯(おか)すが為なりと。 

こんな問答は総て偽物じゃ。禅を去ること遠しとも遠しで、趙州にこんな問答のあるはずがない。

俺(わし)は偽作と断ずるに躊躇(ちゅうちょ)せぬ。

俺の禅も趙州の禅も、祖佛の禅も総て別ならずじゃ。だから俺はこんな馬鹿げたことをせぬから、趙州も決して こんな愚かな答えはせぬのじゃ。

物理法則に反したことは誰でも否定するのと同じじゃ。

禅に差別あるなし。否なるときには総てに否。可なるときには総てが可。

禅は筆舌およばずじゃが、その及ぶところまで書いて 多少の機縁を供するとしよう。

一体 禅とは心意を超越して 別に境地ありだが、もっと詳しく云えば心意にはその対象がある。対立している その対象を払拭(ふっしょく)し、空亡(くうぼう)するのじゃ。それと共に自己の心意をも払拭 超越する。そういうように学人を鍛錬する。そこで無と云えば有のことが対立的に浮かんでくる。有があるから無、有のない無と云えば、またそこに いろいろと混がらかる、思念 綿々(めんめん)盡(つ)きるなしじゃ。無と云えば無に食いつく、対象の空亡などは何処へやら、あとからあとからとついてまわる。だから有と云うてもいかぬし、無と云うてもいかぬ、それでは不言不語して良久(りょうきゅう・やや久しくジット)する、そうすると そのまた良久についてまわる。なんともかんともしようがない。

そこでスパリと答えたのが今の無じゃ。もとより それは禅じゃないが こうして何かの拍子で禅の機縁に取りつかせるのじゃ。

それが老婆(ろうば)親切じや。つまり狗子佛性の有無に即せず、直に禅の機縁をあたえたのじゃ。そこに禅境を覗(のぞ)かせたのじゃ。しかるに、趙州が無について回って 彼に業識性があるためだなどと云うたら、禅境を覗かせるどころか未悟底をさらけ出すことになる。また有についてまわって、殊更に犯すなどと喋(しゃべ)る道理がない。僧が上諸佛だとか皮袋裏だとか云うのは、禅境を覗くことが出来ない証拠で、そんな者には、さらに別な機縁を掴ませることになる。

佛性を追いかけることをしない、また、多少なりと機縁を得た者には、心意を超越した境地を閃(ひらめ)かすが、この僧に対しては、そこまでに及ばないのじゃ。

また、全く大悟 了畢(りょうひつ)の漢ならば知音同士(ちおんどうし)となる。打てば響いてくる。

この業識性あるが為と云うのは、妄想欲念あるが故と云う意味で、答えるにしても理屈っぽくて禅らしくない。

公案に即する處あっては透過することなし。禅語に塊(かい)を遂(お)う狗子(くし)と云いうことがある。狗(いぬ)に土塊(どかい)を投げるとそれを遂(お)うて走る。獅子は土塊を遂わず直にそれを投げた人に飛びかかる。趙州の業識性云々(うんぬん)は、土塊を遂い土塊に即するものじゃ。狗子とか佛性とかに噛(かじ)りついていたら、驢年(ろねん)にも得ることは出来ない。子丑寅(ねうしとら)とか十二支の年はあるが驢(ろば)の年はない。未来永劫くることなきの年で了悟の期なしじゃ。殊更に犯すと云うのも 佛性が何か形があって体内に入ると思ったわけでもあるまいが、尊い佛性じゃが狗と知って殊更に入ったと云うのも愚弄(ぐろう)したような答えじゃ。趙州はこんなことは云わぬ。

徳山ならば直に棒、臨済ならば金剛王寳剱(ほうけん)の喝、趙州もし答えなば望月兎子懐胎(月見た兎が子を孕む)と云う處か、こんな未悟底をさらけ出しはせぬ。

公案はこんな具合によくよく吟味しないとトンダ贋物(にせもの)にぶつかる。明眼(みょうがん)の師に遭(あ)わずんば了期なしじゃ。白隠が有と云うも三十棒、無と云うも三十棒だと盲目の剣術でやたらむやみに振り回す棒振り禅じゃ。

徳山は以(も)って棒すべし。白隠は以って棒すべからず。

棒は未悟底も振る。

ここの手許(てもと)を掴まなければダメジャ。

サア、素玄の手許を見よ。

素玄曰く・・跛者(はしゃ・片足不自由な者)よく走る。一歩は高く、一歩は低くし。

【無門云く】参禅は、すべからく祖師の関を透るべし。妙悟(みょうご)は心路をきわめて絶せんことを要す。祖関透らず 心路絶せずんば、ことごとく是れ依草附木(えそうふぼく)の精霊(しょうりょう)ならん。しばらく道(い)え、如何なるか 是れ 祖師の関。ただ この一箇の無の字。すなわち宗門の一関なり。ついにこれを名付けて禅宗無門関という。透得(とうとく)過(か)する者は、ただ親しく趙州にまみゆるのみにあらず、すなわち歴代の祖師と手をとって共に行き、眉毛あい結んで 同一眼に見、同一耳(どういつに)に聞くべし。あに慶快(けいかい)ならざらんや。透関(とうかん)を要するてい 有ることなしや。三百六十の骨節、八万四千の毫竅(ごうきょう)をもって 通身にこの疑団(ぎだん)起こして この無の字に参ぜよ。昼夜 提撕(ていぜい)して 虚無の會(え)をなすことなかれ、有無の會を作すことなかれ。この熱鉄丸(ねってつがん)を呑了(どんりょう)するが如くに相似(あいに)て 吐けども また吐き出ださず、従前の悪知悪覚(あくちあっかく)を蕩盡(とうじん)し、久久(きゅうきゅう)に純熟(じゅんじゅく)して 自然(じねん)に内外打成(ないげだじょう)一片ならば、唖子(あし・口のきけない子)の夢を得るがごとく、ただ自知することを許す。驀然(まくねん)として打発せば、天を驚かし地を動ぜん。關将軍(かんしょうぐん)の大刀を奪い得て手に入るが如く、佛に逢うては佛を殺し 祖に逢うては祖を殺し、生死巌頭(しょうじがんとう)において大自在を得、六道四生(ろくどうししょう)のうちに向かって 游戯三昧(ゆげざんまい)ならん。かつ作麼生(そもさん)か提撕(ていぜい)せん。平生(へいぜい)の気力をつくして、この無の字を挙(こ)せよ。もし間断せずんば好し 法燭(ほっしょく)の一點(いってん)すれば すなわち着(つ)くに似(に)ん。

【素玄 註】祖師の関(師は釈迦。祖は達磨。その悟境に透入すること。)心路云々(修禅工夫して心意を超越すること。)心路をきわめ云々(あれやこれやと工夫を重ねて遂に工夫すべきなき境地にいたること。)附草依木云々(草や木につく人魂、とりとめのなきこと。)眉毛云々(眉と眉をくっつける。)毫竅云々(ごうきょう・・毛穴。)提撕(ていぜい・・シッカリ持って離さず。)虚無の會云々(禅を虚無、空寂とすることなかれ。有とか無とかの対立とすることなかれ。)悪知悪覚(雑念妄想。)蕩盡(とうじん・・ふるいよける。)内外打成一片(身内身外が打して一片となる。)殺佛殺祖(佛も祖師も念頭から抹殺すること。)六道四生(りくどう・・は地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間娑婆・極楽天上にてあらゆる境地。四生・・胎・卵・湿・化生にて一切生物。)法燭云々(機縁に触れて打発すること)

【頌に曰く】狗子佛性(くしぶっしょう)全提正令(ぜんていしょうれい)

         わずかに有無に渉(わた)れば 喪心失命(そうしんしつみょう)せん。

【素玄意訳】・・狗子佛性の則は禅境を丸出しじゃ。有や無に拘(こだ)わっては生きていても死人同然。本則は禅と禅機とを兼ねた難則じゃ。往々、中途半端の處に腰かけて透ったと思う者がある。軽忽(けいこつ)の見をなすべからずじゃ。

                                       

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禅のパスポート 終章【黄龍三関】

黄龍三關(おうりゅうさんかん)・・無量宗寿(むりょうそうじゅ)が同門の無門慧開(むもんえかい)に、無門関結成(完結)に贈った頌を添えておきます。

旧の語録には、有ったり無かったりする黄龍三関です。

青天白日の禅を、わざわざ日傘を広げて、日焼けを防ぐような・・お蔭さまな提唱です。

提唱無門関 素玄居士  絶版復刻・・(ばつ) 

従上の仏祖の垂示 機縁 欵(款かん)に據(よ)って案を結す、初より剰語(じょうご)なし。腦蓋(のうがい)を楊翻(ようほん)し眼晴を露出し 肯(うべなっ)て諸人 直下に承當して它(た)に従って覓(もと)めざらんことを要す、もし是れ通方の上士ならば わずかに挙着(きょちゃく)を聞いてすなわち落處をしらん。了(しま)いに門戸の入るべきなく、また階級のはかるべきなく、臂をふるって関をわたる、関史を問わじ、あに見ずや玄沙の道(い)うことを、無門は解脱の門、無意は道人の意と、また白雲 道(とう)く明々として道を知る ただ是れこの箇、何としてか透 不過なると、いんもの説話もまたこれ赤土を牛嬭(ごだい)に搽(ぬ)る、もし無門関を透得せば 早く是れ無門を飩置せん。もし無門関を透(とお)り得ずんば また すなわち自己に辜負(こふ)す、所謂(しょせん)涅槃の心は暁(さと)りやすく差別知は明らめ難し、差別知を明らめ得ば家国みずら安寧。時に紹定改元 解制前の五日楊岐八世の孫 無門比丘慧開謹

【素玄註】款に據る(条文に照らして判決す 禅の眼で断案するの意)腦蓋云々(禅の真相を赤裸々に露出す)它に従う云々(直下に領得して他の扶けを求むるなかれ)通方(無疑自在の人)門戸云々(定まった道もなければ階段もない大手を振って歩く)解脱云々(サッパリと解いて脱ぐ。心意することなき意、煩悩を絶した境地)箇(禅のこと)赤土云々(赤土を牛の乳首に塗る 大切な禅を汚くする)鈍置(ごくろうさんと言って傍らに置く)涅槃云々(禅の方は手に入りやすいが禅機は難しいの意か、禅にも禅機にも差別あることなし、無門の意 疑いなし、あるいは涅槃は信仰 差別知は禅のことか)家国云々(この家国は自家郷當の意と思えど あるいは国家の意ならん、差別知をもってして家国安寧なりとは多少 強引腑會の感あり。碧巌集の風穴 家国興盛(第六十一則)は むしろ禅をあざむかず)解制(禅宗の夏安居90日中 その終わる五日前)楊岐(禅宗中 楊岐派の八代目)

                                   

禅 箴(ぜんしん・いましめ)

規に循(したが)い矩(のり)を守るは自縄自縛(じじょうじばく)、縦横無碍(じゅうおうむげ)なるは外道魔軍、存心澄寂(そんしんちょうじゃく)は黙照の邪禅、恣意忘縁(しいぼうえん)は深抗に堕落す、惺々不昧(せいせいふまい)は帯鎖擔枷(たいさたんか)、思善思悪は地獄天堂、佛見法見は二鐵圍山(にてついさん)、念起即覚は精魂を弄するの漢、兀然習定(ごつぜんしゅうじょう)は鬼家の活計、進む則(とき)は理に迷い、退(ひ)く則きは宗に乖(そむ)く、進まず退(ひ)かざるは有気の死人、しばらく道え、如何んか履践(りせん)せん、努力して今生にすべからく了卻(りょうきゃく)すべし、永劫(えいごう)に餘殃(よおう)を受けしむることなかれ

【素玄註】禅箴(禅の病いに応じていましめること)規矩云々(禅に拘束はない)縦横云々(わがまま勝手は悪徳漢)存心云々(心を澄ますは死漢の禅)惺々云々(心に用心しているのは枷(かせ)かつぎ)思善云々(善悪の批判に忙しいのも困る)佛見云々(佛だの法だのというのは牢獄)念起云々(手あたり次第の大悟小悟は精神を弄し)習定云々(茫然と坐っているのは空想家)進むとき云々(積極にすれば理屈が出る、消極にすれば宗規に背く、不進不退は呼吸している死人)了卻云々(すみやかに悟得せよ)

                                  

      無門関 黄龍三關(おうりゅう さんかん)

                素玄居士 提唱ソノママとします。味読ください。

この黄龍三關は、同門の宗壽が無門関 結成の謝礼の意味で頌して無門に贈ったものであるが、宗壽の添記した余計な文句があるので、三關の値打ちを台無しにしてしまった。それで せっかく頌も後跋(こうばつ)も書いたが、かえって学人を謬(あや)まり、無門関を傷つけるをもって除(のぞ)いて、本物の黄龍三關を添えることにした。之をもって見るも、迷禅偽悟の禅を毒する怖(おそ)るべきあるを知るのである。

     【本則】黄龍慧南(おうりゅうえなん)禅師、

         隆慶閑(りゅうけいかん)禅師に問うて云く、

         人々この生縁の處あり、

      如何なるか、是れ汝が生縁の處。

         對(こた)えて曰く。

      早晨(そうしん)白粥を喫し、今に至ってまた飢えを覚(おぼ)ゆ。

         また問う。わが手、なんぞ佛手(ぶっしゅ)に似たる。

      對えて曰く、月下 琵琶を弄(ろう)す。

         また問う。わが脚(あし)なんぞ驢脚(ろきゃく・ロバの足)に似たる。  

      對えて曰く、鶿(ろじ・サギとトキ)雪に立って同色にあらずと。

      師毎に此の三語をもって学者に問う。能くその旨に契(ちぎ)るなし。

天下の叢林、目して三關となし、纔(わず)かに酬(むく)いるものあれば、師 可否することなく目を収めて斂(おさ)めて、危坐(きざ)し その意を涯(はか)るなし。これを延(の)べて、またその故を問う。

師云く すでに關(かん)を過(す)ぐる者、臂(ひじ)を掉(ふる)って ただちに去る姿ぞ 關吏(かんり)あることを知らん。吏に従って可否を問わば、これ未だ關を透らざる者也。

素玄 提唱なるほど黄龍という坊さんは、気のきいたことを吐(ぬ)かすわい。

生れるには生れる因縁があるが お粥腹がへるとは平凡じゃ。

自分の手が佛手に似ているか 佛足に似ているか、琵琶を弄(ろう)すとは お釈迦様でもご存知あるまい。

我が脚 何ぞ驢脚(ろきゃく)に似たる、鷺鶿 雪に立って同色に非ずとは尊いことじゃ、

有難いことじゃ。これが本則でも眼目じゃ。 

黄龍の脚、何ぞ驢脚に似たる、今日 馬脚の多きに堪えず。だが驢脚の後をウロウロしては了期なしじゃ。

何しろ甘いことを云うかな。

あゝ、我が脚なんぞ驢脚に似たる。鷺鶿 雪に立って同色に非らず。黄龍本来の面目に相見せよ。眼光紙背(がんこう しはい)を射るべし。

本則及び臨済示寂(りんざい じじゃく)の語を透得せざる者は、素玄放(はな)さじ。

素玄 曰く、第一関 天の原ふりさけ見れば かすがなる三笠の山に出でし月かも。

第二関 佛手柑  

第三関 素玄提唱無門関 驢脚(ろきゃく)を駕御(がぎょ)して透得了(とうとくりょう)す。*駕御・・自由、存分に使いこなす・・の意。

【附記】行録【臨済示寂】師、遷化の時に臨(のぞ)んで據座(きょざ)して云く、吾が滅後、吾が正法眼蔵(しょうほうげんぞう)を滅却(めっきゃく)することを得ざれ。

三聖(さんしょう 慧然えねん)出でて云く、

いかでか 敢(あ)えて和尚の正法眼蔵を滅却せん。

師云く、巳後(いご)人あって儞(なんじ)に問わば、他に向かって什麼(なんと)か道(い)わん。     

三聖すなわち喝(かつ)す。

師云く、誰か知る 吾が正法眼蔵、この瞎驢邊(かつろへん)に向かって滅却(めっきゃく)することを。 

言い訖(おわ)って端然(たんねん)として寂を示す。

終りの初めに・・難透中の難透・・無門関 第一則「趙州狗子」(じょうしゅうくす)・・覚えておられるかどうか・・2017年5月、はてなブログのスタート時に、まるで小学生が、イキナリ、東大受験に出会うような公案(禅問答)なので、ラストに公開します・・と書いた「趙州無字」・・1月15日頃 紹介いたします。

素玄居士 提唱(絶版)では、もちろん、初則として記載されていますが、私が勝手に、一番ラストに・・終わりの始め・・とした公案です。

(注)公案は試験に出るような人生・宗教・哲学などの問題ではありません。

千年の昔・・それぞれの禅者が独り一人・・求道・得悟した禅ニヨル生活の「一語」です。

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人生 裸(心)で生きるべし・・

禅のパスポート 無門関NO48  

いよいよ終則(結成)です。

素玄居士 提唱ソノママにしております。よく味読ください。

  乾峯一路(けんぽう いちろ)第四十八則

     【本則】乾峯和尚 ちなみに僧 問う

      十方(じゅっぽう)簿伽梵(ぼぎゃぼん)一路 涅槃門(ねはんもん)

      審(いぶ)かし 路頭、甚麼(いずれ)の處にか 在ると。

      峯 拄杖を提起して 劃一劃(かくいっかく)して曰く、

      この裡(うち)にありと。

      後に僧、雲門に請益(しんえき)す、

      門 扇子を拈起(ねんき)して云く

     「扇子 ぼっ跳(ちょう)して三十三天に上り帝釈の鼻孔を築着(ちくちゃく)す」

      東海の鯉魚(りぎょ)打つこと一棒すれば、雨 盆の傾くに似たり」

【本則】素玄居士提唱  簿伽梵(ぼぎゃぼん)とは佛(禅)で、十方佛とは、草木国土 悉皆(しっかい)是れ佛(禅)。

涅槃は不生不滅で禅の端的じゃ。

即ち禅(得悟)の道はどこじゃと問うたのじゃ。

如何なるか是れ佛(禅)、麻三斤と同じ。

棒を振り回して ここだと云うてもよし。指さして あすこだと云うても同じじゃ。

雲門の扇子だとか、帝釈とか道具立てが多いのは かえって味がない。

出タラメもシツコクなり雲門らしくない。禅は簡潔なるべしだ。

素玄曰く 煙管(キセル)の雁首(がんくび)ポンと叩いてフッと吹く

   【無門曰く】一人(いちにん)は、深々(しんしん)たる海底に向かって行き

    簸土揚塵(ひどようじん)す。

    一人は高々(こうこう)たる山頂のおいて立ち、白浪滔天(はくろうとうてん)す、

    把定放行(はじょう ほうぎょう)おのおの一隻手(いつせきしゅ)を出して 

    宗乘(しゅうじょう)を扶竪(ふじゅ)す。

    おおいに両箇(りょうこ)の馳子(ちす)相撞着(あいどうちゃく)するに似たり。

    世上まさに直底(じきてい)の人 無(な)かるべし。

    正眼(しょうげん)に観(み)きたれば、

    二大老 惣(そう)に いまだ路頭を識らざることあり。

 

【無門曰く】素玄居士の註・・ソノママの意訳とします。

海の底で土煙り、山の上で海嘯(かいしょう)、こんな用語は思慮を絶せしむる手段だ。禅では摑(つか)まえてみたり放してみたり、いろんなことをして学人を接得する。あるいは禅機を闘(たたか)わす。

乾峯も雲門も矛盾するようじゃが、端的に勘破(かんぱ)すれば二者共に禅を知らずと云うのじゃが、之は逆じゃ。

こんな顚倒法をもちうるのは感心せぬテ。

これは文章の巧を弄(もてあそ)ぶ様なもんじゃ。

この曰くは拙(まずい)。

     【頌に曰く】いまだ歩(ほ)を挙(こ)せざる時、まず巳(すで)にいたる。

           いまだ舌の動(どう)ぜざる時、まず説(と)き了(おわ)る。

           たとい著著(ちゃくちゃく)機先(きせん)にあるも、

           さらに すべからく向上の竅(きょう)あることを知るべし。

【頌に曰く】素玄居士の註・・ソノママに意訳とします。

禅機(悟りの機会)は、撃石火(瞬間の発火)で、いつも機先を制するのじゃが、そのまた上に禅機があるということ。

禅機に強弱はあるが、この頌も拙劣(ひどくまずい)。

【附記】越州乾峰(年代不詳・・曹洞宗始祖 洞山良价(とうざん りょうかい)の法嗣。曹山本寂(そうざん ほんじゃく)の兄弟弟子。

簿伽梵(ぼぎゃぼん)サンスクリット語釈尊の意。悟りを開いた人の意。

涅槃(ねはん)は、ニルバーナの音訳。寂静、悟りの世界の意。

素玄居士は、中国の、誇大な言い回し・表現は嫌いなようです。絶版になった、この提唱無門関の1冊を、神田の古本屋で発見した時は、遭遇の喜び・・背筋に旋律が走りました。禅は宗教ではない・・独り禅行の生活・・この禅者の一語。戦前のヤオラ日中の火種がくすぶる約80年前・・宗教界と政治の矢面に立って、苦しい環境の中でよくぞ、その禅境を不退転に露吐されたと思います。私には、素玄居士は当時、誠実で貧を尊ぶ、鎌倉時代の古武士のような存在(イメージ)です。

私は、無門関 芭蕉 拄杖(ばしょう しゅじょう)第四十四則以降、終則まで無門曰く、頌の意訳は附記もしませんでした。

素玄居士、提唱を味得してほしいからです。

くどく言いますが、禅は、文字や言葉で、教導されて理解できることではありません。役立たずの独り禅で数息内観して・・その役立たずも忘れ果てたあげくに、独りひとりが・・それぞれに自知自得するのが禅境地です。

この奉魯愚(ブログ)をご覧になられて、気休めの人生論や死生観を語られても、やがては空しくなるだけです。

独り坐禅をなされるのもよし。独り(素っ裸の)禅ニヨル生活を為されるのもよし・・

雲 無心にして岫(しゅう)をいず。

鳥 飛ぶに捲(うん)で還(かえ)るを知る・・陶淵明 帰去来の詩

 

鈴木大拙坐談集 第三巻「現代人と宗教」1972年発行 読売新聞社

寺僧禅からの革新とも言うべき「出家を出家する」項 抜粋を附記しておきます。発言順・・古田紹欽/柳田謙十郎/務台理作

前文略・・務台「日本では寺院の総てが伝統の中にあり、このままでは早晩、没落するほかないと思う。社会の進歩発達に寺院がどれだけの推進力となり得るであろうか。今日の青年の心裏をどれだけつかみ得ているかというと、まったく心細くなる。~おそらく仏教が今後の青年の心情のうちに復活し、新しい力になるとすれば、それは在家から、または寺院を捨てた人々の手から生まれ出るモものと思う。~改革は金ピカの寺の中でなく、最も近代的な苦悶の中にあえぐ者の手の内で行われるであろうと思う~」中略・・

柳田「~禅などにしても、その伝統的な修行の仕方、あの僧堂の生活というようなところでやっているのをみると、あんなことを何年やったところで、どうにも仕方がないのではあるまいか、というような気がするのです。~瞬一瞬、われわれが撞着する眼前の事実そのものが、ひとつとして生きた公案でないものはないのである。~これを忘れると、いつの間にか形式化して そのほんとう活発・発地な歴史的生命を失ってしまう。~時代は坊さんの独善的な悟りなどには眼もくれずにぐんぐんとおのれ自身の道を歩んでいってしまう~」

大拙「その通りだ。いまの禅坊さんは修行すればするほど、世間と離れたところへ行こうとする。封建主義の下で出来た僧堂は良いところも大いにあったが、今のようでは役に立たぬ面が目につく。禅堂の修行としては、むしろ個人個人の自由行動と、じゅうぶんに社会的なものがなくてはならぬ」・・中略~宗教経験の事実の項・・「宗教(禅)の本質は、人間が真っ裸になるところにある・・と私は思っている。~人間には本来、裸になろうという気分がある。

家とか、道具とか 環境というようなもの、社会的な位置というようなもの・・そういうものをみな捨ててしまって、真っ裸になりたいと思う。それだけじゃまだたりない。身体というものも捨ててしまう。これが最後の自分だと考えるが、それが間違いなんだ。やはり、これも捨てなくてはならぬ。そうしたいと思う。そして、そうしなければならぬ。それが真っ裸だと私は思っている」・・後略。

どうぞ、ご紹介した公案の中の・・禅者の一語・・何故か、この文句の一語に引っかかった・・その自分のココロの【WHY?】だけが、安心の入り口であり、出口です。千年前の禅者の行録であろうと、現代の公案であろうと、新旧の差は一切ありません。自分のココロが安らかなれ・・と願うのは、独り一人に「禅」・・赤裸々な無即有・有即無の当体が チャントある証拠です。

・・それが「禅ニヨル生活」です。

次回は 無門の跋(ばつ)及び禅箴(ぜんしん・いましめ)と、同流の宗壽が結成の謝礼の意味で頌した「黄龍三關」本則のみを、添えます。

次回をもって、この素玄居士提唱 無門関 復刻版は、明年、碧巌録意訳に併記して出版する予定ですので、この「素玄居士 提唱無門関」は正月明け・・小学生が大学の入学試験に答えるような、難透の公案だと、素玄居士が言われた・・第一則趙州無字をもって・・終了・削除いたします。続いて、改めた「禅のパスポート」奉魯愚シリーズとして、主に、禅者の禅機(見性・解脱)をとらえた一語を、語録や誰彼に関わりなく記事にしたいと考えています。

◆素玄居士は、この提唱無門関の冒頭、禅に階梯(かいてい)なし・・単にその極所があるだけだ・・と学する事なし。自悟自得するしかない・・と喝破されました。また、提唱する者は、その公案が透っていることを証明する、自分の評や頌をつけて見せなければ値打ちがわからん。この頃の提唱には無いようじゃが、それは卑怯で、ツマリは未悟底なのじゃ・・と、高いか安いかわからん晒し物を覚悟して、頌(素玄云く)をつけられたのである。

はてなブログ 禅者の一語・・碧巌録 意訳中

はてなブログ 禅のパスポート・・無門関 素玄居士提唱 復刻解訳中

はてなブログ 羅漢と真珠・・独り3分間イス坐禅の仕方、禅の心禅の話

 

 

 

 

素玄居士 提唱 ソノママ・・味読してください!

素玄居士 提唱ソノママとします。 禅者の禅機禅境、味読ください。

     兜率 三關(とそつ さんかん)第四十七則 

    【本則】兜率悦(とそつえつ)和尚、三關(かん)を設(もう)けて学者に問う、

        撥草参玄(はっそうさんげん)は ただ見性をはかる。

        即今(そっこん)上人(しょうにん)の性(しょう)、いずれの處にか在る。

        自性を識得すれば、まさに生死を脱す。眼光落時そもさんか脱せん。

        生死を脱得(だっとく)すれば、すなわち去處(きょしょ)を知る。

        四大分離(しだいぶんり)していずれの處に向かってか去る。

【本則】素玄居士 提唱 

雲水の、草を撥(は)らい押し分けて明眼の老師を訪ねるのは、根本を悟得するにある。

見性とは根本の奥底、即ち、玄奧(げんおう)を探ることで、禅を領得する・・の意である。

それで即今、貴方の禅はどんなもんですかと試みるのじゃ。

また、禅が得られると生死に拘泥しない、生死を超越するのじゃが、死の刹那(せつな)の時はどうじゃ。

また、死んでしまったらどうなるか、どこにブッつかる。死後如何(いかん)。

これが悦和尚の学人を試(こころ)むる質問で、すこぶる率直な禅の公案である。

素玄曰く 

即今、上人の性 何処に在り・・

           曰く 映画館裏。

  眼光 落つる時・・歩を移さず。

    去る處 如何・・放屁 一発の處。

              【無門曰く】もし、よく この三転語を下しえば、

               すなわち もって處に随(した)って主となり、

               縁に遇(お)うて宗に即すべし。

               それ あるいは未だ然(しか)らずんば、

               麤飡(そざん)は飽きやすく

               細嚼(さいしゃく)は飢えがたし。

【無門曰く】素玄居士の註・・ソノママに意訳とします。

處に随って云々(環境に随(したが)って自在の義にて、至る所、主人公となって気随気ままにするの意ではない。随っては順応しての意で、境遇の下に服しつつも規矩(きく)拘束さるる事なきの意。水の流れに随って、水を制するが如き機略)

縁に遇う云々(機縁(きえん)あればそれを禅にする・・隨縁應機(ずいえんおうき)して禅を離れぬのが宗に即すじゃ)

麤飡(そざん)云々(噛(か)まずに飲み込むような修禅には味がない。密々(みつみつ)の工夫でなくては役には立たぬ)

             【頌に曰く】一念 あまねく観ず無量劫(むりょうごう)

                   無量劫の事、すなわち如今(いま)、

                   如今(にょこん)この一念を覰破(しょは)すれば、

                   いま覰(み)る底(てい)の人を覰破(しょは)す。

【頌に曰く】素玄居士の註・・ソノママに意訳とします。

過去、未来、久遠(くおん)のことも、観ずれば現在のこと。

この観ずるという奴を見つけると、自分の精神を精神することになり、それが出来ると自分の精神を精神する奴を、さらに精神するのじゃ。これは何のことやら、一念起って観じたら無量劫に堕(だ)す。この頌は少し臭い臭い。

【附記】兜率(とそつ)従悦(じゅうえつ 1044~1091)・・黄龍派の初祖・黄龍慧南(おうりゅうけいなん)の弟子に宝峰克文(ほうほうこくぶん)あり。その直門の孫弟子にあたる。臨済禅の三関(関所)と言われる。

六祖 慧能大鑑「六祖檀経」に見性の事、標語の如く書かれているが、その要の素・・「玄」に参ずる・・入る「禅者の一語」です。

私は、昭和12年に、この「提唱 無門関」を著した、東京市池袋の西村素玄さんの居士号は、キット、兜率三関を透過(見性)した時のモノではないか・・と考えます。

◆坐禅を主にすると、その三昧境地を本物だと錯覚するのが大間違い!

「悟り・解脱」に「坐禅」は必要なのか

今迄【役たたずの坐禅】は、悟り(解脱)への道程に必要な出来事と言ったり書いたりしてきました。

数息のイス坐禅が出来るようになって、無門関や碧巌録の話の一つも、何を言っているのかな・・どうして噛み合わぬ問答なのか・・何故だろう?・・と思い至れることになったら、独り坐禅を捨て果ててください。役立たず(無功徳・ムクドク)とばかりに、捨て去り、忘れ去るのが最も大事なこととなります。

無門関 無門慧開の序(冒頭)「門より入るものは是れ家珍にあらず」・・「なんぞ言句に滞(とどこお)って解會(げえ)をもとむる・・をや」人間の五感(見る、聞く、觸る、嗅ぐ、味わう)から認識できるものは、本当に(価値ある)宝とするものではない・・とあります。

街中で薪を売って母を養っていた恵能(638~713)が、思い至って五祖法演の寺に入り、山猿と罵(ののしら)れながら、米つきをしていた時に「菩提もと樹にあらず、本来、無一物」と喝破したのは、決して、坐禅したから悟り得たことではありません。

むしろ、臨済義玄臨済宗開祖?~867)の出た頃までは、坐禅は瓦を磨いて鏡となすような・・愚かな出来事として・・南嶽懐譲(677~744)とその弟子、馬祖道一との磨甎(ません)問答・・のごとく、必要条件ではアリマセンでした。

鈴木大拙翁は、上田閑照・木村静雄との対談「臨済録」を語る・・の「生活の中の坐禅」で、「坐禅のはたらきというより、坐禅をさせるもののはたらきだ。そいつを見にゃいかんとわしはいうんだ。坐禅にとらえられると坐禅の中にいろんな妙な境涯を見ることになる。坐禅を主にする人は、その中から起こる境地を本物だと思う。心理学者や精神分析の人が好むところだ。そいつがいけないんだ(中略)鈴木大拙座談集第5巻 発行読売新聞社・・のように言葉(文字)に囚われて、三昧の境地を禅の境地と思い込みます。これに警告しておられます。

先日、足かけ50年近く京都で水墨・日本画の京表具をしている方とお話しする機会がありました。

お話の隅々に、タガが職人・サレド職人の、表具師の気骨と正直な「三昧な仕事と生活態度」が感じ取れて、爽やかな想いでした。書画の表装という表に出ない裏方仕事・・一心不乱、無我夢中の仕事に埋没して、我を忘れるのを三昧(ザンマイ)といいます。

この三昧境地は、坐禅や瞑想からだけ得られるものとは限りません。

 

この三昧を、禅の境地だと思い込む・・あるいは求道者に、それがサトリへの道筋だとか、精神安定の効用があるのだ・・とか、教導することが、かえって、純禅(解脱)を妨げることになるのです。本やお経や修行・坐禅(瞑想)の教導などに、まるで蜘蛛の糸に囚われてしまうようになるのが、一番、なってはならないことです。

 

ドダイ、悟りといい、頓悟・見性といい、大覚・成道と言い、解脱と道い、用語はいろいろありますが、三昧境地を含めて、すべて・・ソンナ境地は「禅による生活」の境地ではアリマセン。

 

前に書きましたが、自覚(大悟)したという自覚があるとすれば、それは・・まだ自覚していない・・下らぬナマザトリの証拠です。

チョウド ドコカノ国の政治家が、遺憾に堪えません!とか、反省します!とか・・口で言う内は、叱られた子供のアヤマリ同様、反省していないことなのです。

酒のみ運転で捕まった者が、私は酔っていない、正気ですと主張するようなものです。

蕎麦屋の釜の中です(湯・ユウばかり)

 

誰からも何の教導も受けず「独り坐禅」は役立たずで行い、自然な数息が出来るようになったら、そんな坐禅すらも忘れて・・禅語録(無門関・碧巌録)の、引っ掛かりのできた1則の【WHY?】に向き合うことです。自分の、何処からか湧き上がってくる【どうして?】だろう・・の、解決のつかぬ思いが、数息坐禅と入れ替わってくれるのです。

どうやら・・そのあたりから、自分の独りポッチの立ち位置(坐り位置・行住坐臥)がボンヤリ見えてきましょう。

 

世界的なコロナ騒ぎが、政治や社会的な変革の機となりました。この事件は従来の禅にとって滅びの一撃となりましょう。跡には観光・拝観禅つまり寺僧の生業(ナリワイ)禅や効用効果を求める心理坐禅が細々と営業を続けることでしょう。逆に云えば、純禅にとって願ってもない告知・認知のチャンスです。

 

極点を目指すためには、磁石・・この場合は、自分のココロの中の【WHY?】です。そして、歩き(生活行動)です。

達磨の坐禅は・・役立たず(無功徳)=WHY?です。

目的地は廓然無聖カラリとした青空)です。

 

 

 

禅は竿頭(さおさき)から・・・ところにある!

禅のパスポート 無門関NO46    

禅は坐禅・修行の竿先から落ちた處にあるのじゃ

          竿頭 進歩(かんとう しんぽ)第四十六則 

        【本則】石霜(せきそう)和尚云く、百尺竿頭 如何が歩を進めん。

            また古徳云く、百尺竿頭に坐する底(てい)の人、

            しかも得入(とくにゅう)すといえども、いまだ眞となさず。

            百尺竿頭に すべからく歩を進めて、

            十方世界に全身を現(げん)ずべし。

【本則】素玄居士 提唱

百尺の竿頭に歩を進めたら落ちる。

別事なしじゃ。

落ちて見せるのじゃ。

軽業のし損(そこ)ない、アレヨ・アレヨと見物人の掌(てのひら)に汗を握らす(の)も なかなか一興(いっきょう)じゃ。

そして その中をドサンと落ちて見せるのじゃ。

落ちたら安心で二度と落ちない。

猫は逆さに落としても正位に復する。

重力(重心)のとり方が天成なのじゃ。

軽業の綱渡りでは 始めの添え竹から手を離したら、一本の綱の上に身を託する。

無念夢想に重心を一線上に据(す)えている。三昧境(ざんまいきょう)じゃ。

偽禅の連中は、三昧が禅だと吐(ぬ)かす。

トンデモナイことじゃ。

百尺竿頭に坐してビクビクしている奴も、綱渡りの娘も禅でない。禅は この綱から落(おっ)こちる處にあるのじゃ。

懸崖(けんがい)に手を撒(さん)じて大死一番せんことには、禅が手に入らぬ。

大磐石上(だいばんじゃくじょう)に臥(ね)ているような訳に行かんのじゃ。

竿頭一歩(かんとういっぽ)を進めると、全身丸出しの即(そく)するなしじゃ。

十方世界アレアレと見てくれる、見せてやる。 

素玄曰く 軽業(かるわざ)娘を女房にしたら毎日毎日気がもめる。

   いっそお前と心中したら 

   あとは暢気(ようき)で嬉しかろ。

           【無門曰く】歩を進め得 身を翻(ひるがえ)し得ば、

            さらに いずれの處を嫌(きら)ってか尊と称(しょう)せざらん。

            しかも かくの如くなりといえども、しばらく云え、

            百尺竿頭 如何(いかん)が歩を進めん。  嗄(さ)。

素玄 註・・嗄(さ)・・瓦器を打破するの音。

 又は舟の沙に入るの音ともいう。語意を強むること。

            【無門曰く】素玄居士の註・・ソノママに意訳とします。

  【頌に曰く】頂門(ちょうもん)の眼を瞎却(かっきゃく)して、

        錯(あやま)って、定盤星(じょうばんせい)を認む。

        身を棄(す)て 能(よ)く命を捨つ、

        一盲衆盲(いちもうしゅうもう)を引く。

素玄 註・・頂門眼云々・・大自在天の一箇の眼、八方一倪(いちげい)の眼がツブレて一事に定着する。そうなると自分の始末も出来ず、盲人がゾロゾロ歩いているようなもんじゃ。

この頌 要を得ず。

           【頌に曰く】素玄居士の註・・ソノママに意訳とします。

【附記】潭州、石霜(山)慶諸(せきそうけいしょ807~887)薬山惟儼・道吾圓智の弟子。 

 

kimi no nawa?

看脚下(照顧脚下)とは?・・禅のパスポートNO45

足元を照らし省(かえり)みよ。あるいは足元を見よ・・の意だが、誰も「看(み)よ」とか「看る」とか書かなくなった。

「見よ」・・の字ならケン、キャッカだし、どうして、ここに看護婦のカンの字が登場するのか・・昔々の中国の禅者が、何故、観でもなく感でもなく、覚でも勘でもなく、監でもなく、また、見(ケン)でもなく、顯・検・倹・串・揀・睍・硯・観でもなく「看」の字を選んだのか?

ご自分の掌(てのひら)をよく看て観なさい。

 

この「看」の文字を見れば、昔の日本人なら「手」と「眼」を分解して、一瞬の内に・・手が目である如く一体となった状況を読み取ることができた。

今は、スマホで更新し、文字を書かず、文字を打って電報文のように短文で済ます時代である。

これでは理解できようもない、漢字文化の衰退、退歩である。

欧米の英語のように、スペルで打つ文章は、その意味(語意)は対比、分析的で、論理的・科学的だから・・「看」の持つ表意は 英語では実に長ったらしい説明文になってしまう。

例えば「如」・・如去如来(にょこにょらい)・・この「如」の真意が理解できれば、経文のすべてが読み取れ理解することが出来る。また「色即是空」を体観できれば、禅者である・・色(しき)も即も是も空(くう)も、一般の日本人の、般若心経を唱えることのできる人ですら、会(有)難い、解毒剤的な効能書きを読むように「なむーかんじざいぼさー」と口で云うだけだ。

禅宗の坊さんでも、そんな程度だ。

日本語の意味を理解していない人の言葉は、まるでロボットの喋り方です。犬のワンワン(バウバウ)鶏のコケコッコウ(クックドウルドウ)より醜いし空(むな)しい。

 話を戻す。

外国人に「禅」が不可解なのは、日本語の持つ意味を理解できない宿命があるからです。その日本人の大半が西洋かぶれして、日本語を忘れ捨てている現実があります。つまり、日本人が考えたり、本や新聞、活字に表記したり見聞しているのは、日本人の頭の中が、日本語で思考しているからです。

反対に外国人は、自国の英語・フランス語。ロシア語・・漢字発祥の地、語源の中国でさえ、表意文字の大半を、略字にして、頭の中は【スペル】文字化している社会だからです。

表意文字でないと、漢詩や俳句や、芸術的な墨書は生まれません。(だから今の中国人の頭脳の思考論理)は、アメリカ人と同様である・・と言えます)

昔の東洋人・・日本人との『漢字』の共有性は、習近平共産党)の国には・・全くないと断言できます。

警告しておきたい・・

将来、俳句や書や日本画や、職人仕事まで無くしてしまうような・・子供たちへの「英語化」教育や、手書き文字を手紙に書く風習を、便利で速いだけの、スマホ(文字に打つだけで・・意味を考えない道具ツール)に委ねない日本の社会であってほしい。

英語など、もうすぐ、完全な翻訳装置が、腕時計位のサイズで・・メガネの付属品で出回る時代になるだろう。英語教育の時間は、自分や仲間の好きな科目・・運動や遊び、日陰に寝転んでの読書でもいい・・俳句や習字や山水(水墨画)も取り入れて・・日本人らしい情操教育であってほしい。

こんな思いが込められている現代の「君の名は?」の公案です。

『何似生/カジセイ』=宇宙で一切のコピペのないお前はナンダ・・道元の「眼横鼻直」・・臨済の「無位の眞人」のお前は誰だ?の公案です。

禅のパスポート 無門関NO45  

   「YOUの名は?」・・生まれる前から、名付けられた「kimi」の名は・・?

      他是 阿誰(たぜ あすい) 第四十五則 

            【本則】東山演師祖(とうざんえんしそ)云く

                釈迦彌勒(しゃかみろく)は なお是れ他の奴(ぬ)

                しばらく道(い)え、他は是れ阿誰(た)そ。 

【本則】素玄居士 提唱

釈迦彌勒が奴僕(ぬぼく)として奉仕していると云う。

おかしなことじゃ。誰の家に居るのかしら。臨済が表顯(ひょうけん)名句(みょうく)に執するなかれと云うて、口を酸っぱくして喋っていると同じじゃが、また、そうばかり見てもいかん。

釈迦 是れ何人(なんびと)ぞ。探してみたら台所で薪を割っていた覚老(かくろう)と云うのが 演師祖のこの語に答えて「胡張三(こちょう3)黒李四(こくり4)」(田吾作権兵衛と云うが如し)とやったが、演はいったんは許したが 次の日に「昨日は是。今日は非」と云うて訂正した。

そこで覚老が言下に大悟したという話がある。

田吾作でなければ どこの家じゃろうか。

素玄曰く 昨夜 臨済来りて碁を囲むに 我 連敗して憤々(ふんぷん)として睡(ね)むる。

  【無門曰く】もし また他を見得して分暁(ぶんぎょう)ならば、

       たとえば十字街頭に親爺(しんや)に撞見(どうけん)するが如きに相似たり。

       さらに別人に問うて、是と不是(ふぜ)とを道うことを須(もち)いざれ。

素玄 註十字街頭云々(混雑の裏においても禅境に照々たり)

【無門曰く】本当に 釈迦や彌勒が誰の下僕として働いているのか・・納得できれば、町中で、母親を見間違えることはあり得ない。この人は私の母でしょうか?と、他人に尋ねる前に、三分間独りポッチ坐禅で目を覚(さ)ますことだ。

           【頌に曰く】他の弓を挽(ひ)くこと莫(なか)れ

                 他の馬に騎(の)ることなかれ。

                 他の非を辨(べん)ずることなかれ。

                 他の事を知ることなかれ。

素玄居士の註・・ソノママに意訳とします。

【頌に曰く】禅機に規矩(きく・ルールの意)あることなし。

この頌は「なかれ・なかれ」じゃが、また 莫れのあるありじゃが 無門の手許(てもと)も すこし心細いワイ。

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禅とは何か?

禅のパスポート

禅とは何か?

坐禅とは何か?  

禅とは、達磨(ダルマ)の無功徳(ムクドク/役立たず)・・を体験・自覚する事です。

それを「禅ニヨル生活」といいます。

坐禅とは、独り・・(3分間約18回の数息呼吸の間)姿勢を正し、眼を半眼にして椅子に坐っていることです。

これを寂寥の「独 接心」(ドク セッシン)といいます。

・・ただ それだけです。

道元禅師は「眼横鼻直」と答え、臨済禅師は「乾屎橛」(トイレ紙)と答え、世尊は黙して「拈華」し、微笑した摩訶迦葉に付嘱された「何か?」の・・答えは、問いを発した貴方の・・問いを発した中にこそ、真に貴方の納得できる答えがあります。

何のことは無い・・独り一人にある「禅」は・・自分が自分に問わなければ・・釈尊に祈っても、寺僧に問いかけても、万巻の書を読了しても、絶対に答えは理解できません。

つまり思考を思考することができない欠陥頭脳の人間が、自分一人で坐禅をする中でしか、自覚・発見できないことなのです。

禅を世界に広めた禅者(仏教学者)鈴木大拙翁は、禅(ZEN)に入門したければ、自分で机の端を、ノック(コンコンと叩いて)そこから入門しなさい!と言っています。

般若心経の初句に・・行深般若波羅密多時・・とあります。

何か、エタイの知れない般若ハラミッタを深く行ずる時・・という・・前提条件があるうえで「色即是空」と書かれています。

要は、独り坐禅をすることが前提で、釈尊や面壁達磨の・・あるいは、四条大橋の人通りを深山木に見立てて、乞食坊主の独り坐禅があり、不生不滅が・・あるのです。

しかも、この空/無の、自覚・体験を「悟り」と云うのですが、煩悩無尽誓願断(四弘誓願)と、何万遍、唱え祈ろうと・・

煩悩即菩提の「禅」は、断ち切れるようなものではありません。

せっかく、東洋、日本に禅を尋ねてやってくる求道の人たちに、この電磁的通信手段で、禅の真実をお知らせする次第です。

古に純禅に生きた禅者の面影を追い求めた處で、アナタは、心からの安心は得られないでしょう。

科学的な、対比思考する哲学の西洋文化とスペル文字は、漢字で言う「如」や「心無心」の意味を表記できず、理解できない宿命にあります。

まして女性は三界に住することが出来ないとする、仏陀のイマシメ(例え)ですら、人権侵害だと糾弾されることでしょう。

本当は・・女性は、母性・慈愛(慈悲)溢れるゆえに、煩悩を消し難たい(捨てがたいのでなく)・・だからナカナカ悟れない・・の意味なのです

禅は、欣求したり、祈願したりする宗教ではありません。

長い禅の歴史では、寺僧の揺籃を得なければ、伝燈できないことも多々ありました。

しかし、現代・・この日本の禅は寺僧の接ぎ木や温室栽培のおかげで、絶滅危惧種どころか・・絶滅種となりました。

どこの禅寺でも、観光(料)禅と言うべき、寺僧の生活・商売=生業(ナリワイ)に堕落しました。拝観料と称した1カ月の売上げが何百万円とか・・また、例えば、良寛の・・たむし薬や、白紙の紙ほしさに揮毫した禅境書画が、何百万円で取引される、あさましい資本主義の有様です。

いま残された「純禅」の道は、仲間・組織や金銭に絡まない・・本当に「独りポッチ」の無価値な坐禅を、誰か一人でもよい・・続けてくれることです。

悟りや安心を期待しない、無功徳・役立たずの坐禅を、例え3分間でも椅子に坐って行ってくれる人がいればと願っています。

その思いで、無門関・碧巌録の意訳を、電磁的に空中散布しています。

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                          有(会)難うございました。 

◆ある奴にやり ない奴から取る・・そうすると・・

禅のパスポート 無門関NO44 

有る奴にやり無い奴から取る・・そうすると禅が湧く 素玄居士

この則は・・初めから終わりまで素玄居士の文字通り丸写し。

読者の皆さん・・

今回は独り坐禅で素玄居士と真っ向・・相見してください。

           芭蕉 拄杖(ばしょう しゅじょう)第四十四則

           【本則】芭蕉和尚 衆に示して云く 

            汝に拄杖子(しゅじょうす)有(あ)らば、我 汝に拄杖子を与えん。

            汝に拄杖子無(な)くんば、我 汝が拄杖子を奪わん

【本則】素玄居士 提唱

禅坊主は なかなかキイタ風なことをぬかす。

有る奴にはやる。

無い奴から取る。この拄杖子とは禅坊主の持っている棒のことで、禅のシンボルに用いられる。碧巌集にもよく出てくる。

本則は禅のある奴には、禅で応対してやろう。

禅のない奴なら禅を奪い取ってやる。

この禅は一物のなきことを指すのじゃ。

雑念妄想があると禅はない。

禅のないとは、この雑念妄想があることで、禅を奪うのは雑念妄想を奪うのじゃ。

そうすると、そ奴に禅が湧いてくる。

修禅の学人を接し これを自分と同じようにする、ツマリ禅の修行をさせるには、雑念妄想を抜きとるのじゃ。その手段はいろんな公案を捏ねくりまわし、棒し喝し あるいは、速やかに道え、速やかに道え・・とか、種々にしてまるでネズミが銭筒に追い込められた様にしてやる。

赤裸々にすじゃ。

慧可の不可得(ふかとく)じゃ。

こうなると雑念も妄想も居どころがなくなる。

廓然無聖(かくねんむしょう)じゃ。

すなわち雑念妄想を奪い取るのじゃ。

そうすると禅が湧く。

無一物中 無尽蔵(むじんぞう)カナ。

こんな説得法が古来のやり方らしい。

説得は師家の手腕で境に従って景ありじゃ。

本則は この逆にも見られる。禅を持っているぞ・・などと云う奴に拄杖子で一本ポンと喰(くら)らわしてやる。

悟臭の吩(ふん)たる奴にはこの手でやる。

禅も何もないと云う飛び切りな奴なら、そ奴から禅を引き抜いてやる。

即ち禅機を弄(ろう)し他の禅機を見るのじゃ。

本則は二様に見られるが、こんなのは講釈禅で公案の真意とは違う。

本則は有る奴にやり、無い奴からとる。

サアどうじゃと云うので、拄杖子はつけたのに過ぎぬ。重きに便にし、軽るきに便にせずじゃ。

これが活作略(かつさりゃく)じゃ。 

素玄云く 首吊りの足に噛みつく野犬かな

      【無門曰く】扶(たすか)っては 断橋(だんきょう)の水を過ぎ、

            伴(ともな)っては 無月の村に帰る。

            もし喚(よ)んで 拄杖となさば、

            地獄にはいること箭(や)の如し。

【無門曰く】素玄居士の註・・ソノママに意訳とします。

素玄 註・・断橋の水を過ぎ云々(橋の落ちた川をわたり、暗夜の村を行く時の杖、この杖を拄杖子と云わば堕地獄じゃ。拄杖子は杖でない)

             【頌に曰く】諸方の深(しん)と浅(せん)と、

                  すべて掌握(しょうあく)の中(うち)にあり。

                  天を撐(ささ)え ならびに地を拄(ささ)う、

                  處にしたがって宗風をふるう。

【頌に曰く】素玄居士の註・・ソノママに意訳とします。

素玄 註・・拄杖子じゃから掌中(しょうちゅう)にある。何にでも使える。天を撐え地を拄うと云うのも誇大にすぎて狂気じみている。こんな文句のある文章は 値打ちがない。     

【附記】 この則は・・初めから終わりまで、素玄居士の文字通り、丸写し。

読者の皆さん・・この則は、独り坐禅で素玄居士と相見なさることです。

こうした解訳は、この第2稿まで。第3稿は全くの内容を改め出版するため、この奉魯愚に掲載しません。

僧堂師家、先生方・・ある奴にやり、ない奴から取る。

餓鬼の如く、目を吊り上げて縋(すが)ってくる輩は・・始末が悪いが見込みアリ。

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◆辞めるな首相・・やっぱりか!

特別編  

  ◆辞めるな! 安倍首相!・・やっぱりか編

辞める決断なら、いつでも出来る。医者を国会に侍らせてでも、再度、宰相の座にあるのだから、誠実に・・マコトの字は「言ったことを成しとげる」の意・・憲法改正ぐらい、国会で眼鼻をつけて辞めれば・・と意見したのですが・・ボクシングのタイトルホルダーなみの、ただの人でした。

政治と言う魑魅魍魎(ちみもうりょう)の迷界には関与すまい。

次か また次の選挙でこれは!!と思える人に投票します。

確か、円覚寺の釈宗演老師の座右銘に

「ミダリニ過去を思わず、遠く将来を慮(おもんばか)れ」

妄不想過去・而遠慮将来・・とあります。

以上・・次回は素玄居士の無門関 意訳を続けます。

有(会)難とうございました。