母103=父92‥アト8年ナラナントヵ‥母まではたどり着けないなぁ!
母の命日 3/19‥年84 愚息の想い万感!
愛が問う=有(会い)難うございました。気を取り戻して生きます。
こだわりを亡失(失望)すると「悟りも悩み」も消失する!
解けない禅問答(禅語録)を坐禅の座布団にして、イス坐禅すると‥その問いが消失することがよくある。
自然に「悟り=見性」が、イス坐禅の席から消えうせるのだ。どこへ行ったと探し回るのは、コダワリのカスをもとめる心理だから、やめよう。
また別の悩みやコダワリが雲の如く湧いて出てくるが、ソンナもんだとして投げ出して
亡失する「坐禅」でありたい。
頭の電気信号は、何か「考えたり‥思ったり‥感じたりして、これを比較・検討し、答えを見つけたくて仕方がない‥悩み、妄想する作用だ。
未練たらしく、解決できないことに思い悩む=コダワリの連続です。
科学や数学、学問の世界は、比較・分析:検証だから、コダワリツヅケテ、やがて‥大発見もあろうが、社会的問題は、トラブル(摩擦)がないと解決しない傾向がある。
坐禅は【コダワリを続けない】こと!!
何もしないことすらなにかしている‥とする・・行いをしない行いなのだ。
「心無心」こころはむしんである‥ココロにココロナシ‥と読む。 また後日、加筆修正!
今少しモヤモヤするので。言葉(文字)にふるまわされないよう放っておきます。
禅・坐禅とは?瞑想でもなければ、黙想でも妄想でも観想でも祈りでもない。居眠りでもない・・
ただの坐禅‥ヒタスラに【坐る】だけのこと。
これを大義(もったい)ぶつたり、大儀(おっくう)になったりして モテ弄ぶのは止めよう。
独り、誰にも言わず語らず‥3分間ほど、呼吸数を18回ほど勘定して(1呼吸約10秒×18=3分間)坐禅すれば1日は足れり‥。
10年もすれば少しは体感して身につくだろうし、安心もできよう。もしも、馬鹿正直に30年続けられたら、目のすわったスガスガ(清々)しい人になれましょう。
坐禅1日1回、たったの3分間‥寝起き/寝しなか、満員の通勤電車や、帰宅途中の電車の中か‥やってみなさいと提唱しているが、この奉魯愚(blog)下‥5年以上続けられtた者が‥まず、50人位。10年正念相続できる人は多くて、その内で15人位だろうと思う。
こんな簡単な、自分追究のイス坐禅が、何故できないのだろうと不思議な気がする。
実際、面談したことのないPC下(約2万)アクセス数からの推測だから、多めに見ているかもしれないが、何の損得、利益のない「無功徳」坐禅だから、1人か2人かの女性はゼロとして計上していない。
利害損得。執着妄想のない「坐禅」提唱に、女性の方が少ないのも、宜(むべ)なるかナ。私は女性三界に家無しとした古代 仏教界の先達に脱帽する。家庭や生活を大事(本質)とする女性対象に禅のことを話してもナカナカ身にはつかない。美容、整体のヨガや瞑想などに関心はあるだろうが・・。
私は女性は尊敬するし、今年、日本国初の首相就任の女性総理は大歓迎です。
でも・・万一の万一、戦争になって女性が兵役に取られることのないよう、男は女・子供を守って戦場に死すべし‥と思います。もうすぐ84になる年になって、軍隊徴用もありませんが‥。
閑話休題(それはさておき)
ただ 呼吸を数えて3分間、1日1回イス坐禅を推奨しています。スマホを見る余裕はあつても、坐禅する時間がないのが現代=デジタル(電磁的)社会です。
セカセカ・・フワフワ‥ソワソワ・・どこに行っても言葉少なに、内に閉じこもり風の見せかけ人生・・刮目(かっもく)してください・・呼吸は生命ソノモノです。
宗教でも、哲学でもない【THE ZEN】この命そのもの(呼吸)を数えて6回×3=計18回。ただの坐禅です。
180秒×365日=65700秒×5年=328500秒÷60秒=5475分/5475÷60分=91時間25分÷3日8時間 チリも積もれば山となる。余計な干渉から、坐禅を守りましょう。
有(会い)難うございました。
ご注意!坐禅しているから悟れる(見性できる)訳ではありません 2025・3・10 追記/修正
●この奉魯愚blogの閲覧は【無料】です。不安な心の毒消しに坐禅が一番‥と書いています。
よく誤解されるのは‥(悟り=見性は)坐禅をしたら悟りを開ける‥との保証はアリマセン。
とりわけ、坐禅中に「ピカリ」と稲妻の如くひらめいた‥とか、悩みの一切が言葉もなく解決したなど、まことしやかに言われますが、戯言(タワゴト)です。
この点こそ「禅」は宗教ではない・・ことの大きな違いです。
ブッダは 6年の山にこもっての坐禅中、大覚(見性)されたわけではアリマセン。
むしろ苦行断食などで心身ともに痛めつけた骨皮 筋衛門になって下山されました。
ガンジス河?か‥とある河ぞいでスジャータという羊飼いの娘さんから、ヤギの乳か牛の乳かの供養を受けられて、体調を整えられ、とある朝、坐禅から身を起こそうとされた瞬間、暁の明星(金星)のピカリ!輝いたのをご覧になって・・「不思議だ!自然のすべてが悟りで輝いている」と言われたソーです。
坐禅(教外別伝・不立文字)は‥迷いの毒消しなればこそ、自分独りで、実行することが大事なのです。
この禅の教えは、無門関第6則「世尊 拈花」セソン ネンゲ‥でその由来と消息を単的に伝えられています。
世尊(仏陀)は 霊山にあって「花」を拈(ねん‥クリクリ回して)じ衆(信者)に示した。
居並ぶ大衆(僧も)キョトンとして黙っている。ただ一人 迦葉(かしょう)尊者がニッコリ微笑した。
世尊曰く【ワレに正法眼蔵 涅槃妙心 実相無相 微妙の法門 不立文字 教外別伝あり 摩訶迦葉に付嘱す】
吾れに「文字にも言葉にもできない 大覚(仏典/教外)の 後世に伝える一法がある。これを迦葉尊者に預け頼んでおく」
この仏教以外の「安心」こそ‥禅ニヨル生活‥得道の禅者の悟りなのである。
釈迦もよく仏教と禅とを区別していたことを、この則がはっきりさせている。
●提唱 無門関 素玄居士(高北四郎 昭和12年 狗子堂発行)絶版より抜粋
この復元は、はてなブログ 禅のパスポート 提唱無門関として復刻。電子本で再販させる予定です。
禅は宗教でもなければ、信仰の対象ですらない・・と喝破した禅者の著作です。
いずれ電子本にして世に問うてみたい貴重な1冊です。
話がそれた。
悟り(大覚・見性)は、坐禅中になど発覚・発見されることはアリマセン。
なぜなら、見性は・・直観的な思考の頭内爆発だからです。
ある人は梅の香りが鼻をくすぐった瞬間・・ある人は、掃除の箒で殴られた瞬間‥ある人はご飯茶碗を洗っている時・・ある人は太鼓のなった時・・ある人は友人と禅問答をしている時‥ある人は蠟燭を吹き消され‥ある人は指を切られての瞬間になど、思考がチョン切れた瞬間に、理解⇒体得したというのが実態だろう。他人にいくら説明しても、理解されないことである。
ただし、積年の坐禅の累積があればこそ、いつか不意の見性として体得できるのが正解に近い。
ただし、例え、どうにか見性したから、安心したなど、おこがましく言えたものではない。悩み事は雲が湧くがごとく、次から次に出現するものだ。
悟後の長養と言って20年~30年、さらに坐禅せよと語録にある。今もって釈迦や達磨は修行中ともいわれる。悩みや妄想は、果てしなく湧いて出るのだ。
悟りは‥天気に例えれば、晴れた日に、突然に降って すぐ晴れ渡る「狐の嫁入り」と呼ぶ現象のようだ。禅者は、人生(日ごとの生きざま)を楽しむのである。まるで芝居の出演者のようにたのしむのである。悩み事なら、真剣に悩みながら、それでいて「ナルヨウニ成ル」如きに任せる生きざまである。
だから、2週間を1日と見立てる接心など(雲水団体の荒行など)苦しくて辛いだけで自発的に悟ったものなどいない。集団心理にもとづく悟りモドキの心理作業です。寺々の後継ぎ資格者の醸成をめざすのなら、それも密かに僧堂で修行と称しておこなうのは勝手だが、事態をよく認知しない外人や悩む若者を煽り立て、駆り立てて、苦行坐禅を行う時代ではないと思います。
3分間、思考しない・妄想しない坐禅を提唱していますが、それすらまともにできるようになるのに5年や10年かかりましょう。
それも、この奉魯愚(blog)で2万回のアクセスの内、わずか0・1% 20人位関心を持つ程度です。それでも私は千年後、月や火星に植民して、なお、木星の衛星や土星にまで手を伸ばす人間(頭脳だけ人間で、胴体手足はロボット?!)の独りポッチ坐禅を、誰かしているか・・それを試みてくれるか・・期待して夢見ています。
この宇宙旅行の夢をかなえる人間に、「坐禅」は宗教ではないことを熟知してほしいと思います。
宗教を持つな・・というのではアリマセン。
欣求(ごんぐ)し祈願する宗教は、絶対に人間に不可欠な条件であるとおもっています。
私の願いは・・キリスト教にせよ、仏教にせよ、イスラム教にせよ‥どの宗教にせよ‥宇宙では、一つにまとまってほしいと願います。
そして‥今のところ 宇宙でただ一つ 生物をはぐくむ地球が「安心で平和」な世界となりますように・・。
会(有)難うございました。
追記 2025ー8-25 編集機能を試しにいじって滅茶滅茶にしました。
9月から、奉魯愚blogは【禅者の一語(碧巌録)/羅漢と真珠(雑記)/禅のパスポート(無門関 復刻版)】にチナンデ、まとめたいとおもいます。
ボダイ ダルマ(菩提達磨)は なぜインドから海路、中国にやってきたのか?
紀元5世紀ごろ、インドの達磨さんが、はるばる海路 中国にやってきた。
何故か?
仏教の禅を伝えるため‥と解説本には書かれているが、私は納得していない。
仏教なら、 密教をはじめ、念仏に至るまで各種各様 ヒマラヤ越えに陸路、中国に山ほどの教典や仏僧たちが、命がけで伝道している。達磨の海路 3年をかけた都への上陸は、仏教伝道ではなく・・
教外別伝・不立文字‥その地に出かけて、直接に体現して見せてやる以外に、納得しようのない坐戦を見せることだったと思います。
現代でも、臨済宗では・公案禅を主張し、見性(自覚)を「密室の参事」として指導の僧堂師家や老師などと室内に相対して決着する修行方式をとる。
ひどい本山、大手の禅門 修行道場では、後継ぎ養成の期間限定、集団坐禅・順番面談方式、学校授業料方式、見性誘導型協力方式など、達磨の面壁禅(孤独な坐禅で自からが自覚に至る)‥1粒の麦が地に落ちて死なずば‥のキリスト教の教えのような‥修行はどこかに消滅してしまったのである。
私は、禅を世界に広められた仏教学者であり禅者である 故、鈴木大拙翁。あるいはFAS禅を提唱された抱石庵 久松真一先生・・等々・・菩提達磨 以来・・1500年有余寺僧の揺籃期を経てきたのは(不可思議)奇跡的な出来事と感じます。
ただし2025年・・私は‥坐禅は宗教ではない・・と宣言して世に問います。
ダルマが中国(支那)に伝法したのは「坐禅」ソノモノであった・・と確信しています!
ダルマが中国に来る前に、いやというほど、密教系をはじめとする各宗派の仏教経典や僧たちがヒマラヤ越えに往来もしているし、先着の仏教各宗派から、嫌がらせや圧力をかけられ、毒殺までしかけられているのである。
まして「禅」は、「教外別伝(きょうげべつでん)不立文字(ふりゅうもじ)」と標榜され、500文字余りの経典「般若心経」で、「空」とか「無」とか、雲をつかむような、ナイナイ尽くしの宗旨である。
このハテナ奉魯愚【禅者の一語=碧巌録第1則 達磨廓然無聖/聖諦第一義】と【禅のパスポート=無門関第四十一則 達磨安心】の項に、ルビを振って意訳したので、関心のある方は、見てください。
今、ここでは、西暦520年深秋10月~11月頃、金陵(南京)の都 梁の武帝と「禅」の問答をした事実があるだけを知り置きくだされば十分である。
インドから海路3年がかりで辿りついた老翁100歳を超える達磨大師に、武帝は‥世のため人のため、仏教を篤くし寺僧を保護した政治を自慢した。
反対に、時節は寒く、赤い毛布を頭からヒッカブリ、大きな目をギョロつかせて面談した達磨大師は【ZEN】の真意を【カラリと晴れた青空】に例え‥貴方は何者かと問われ【識シらず】と応えて、嵩山 少林寺の洞穴にこもって、面壁9年の坐禅で手足を亡失したという。
私は 釈尊(ブッダ)の教えとは別の‥文字にも言葉にも表現できない【ZEN】は、中国での菩提達磨に発し、臨済義玄に終わり、その「坐禅」の苗木は日本で開花したと思います。「🎶達磨さんが転んだ♪」この遊びは‥日本の子供だけがわかる「手足のない動く達磨を発見する鬼の目隠し遊戯」・・禅心=動と静⇒道と正を探ぐるオモシロイものです。
そして第2次世界大戦以前、禅は長く武士道の死生観に支えられて寺僧の教導の中に続いてきましたが、21世紀の今日(現代)は、禅宗のすべては観光禅となりはててしまいました。
21世紀は・・良くも悪くも・・デジタル社会です。
日本から世界へ・・禅をつなげられる・・宇宙禅になる・・【THE ZEN】は世界にZENを紹介した禅者【鈴木大拙翁】(他 久松抱石先生)など、今や、旧縁の宗教とは関わりのない【独りひとりの達磨面壁】禅を引き継いで主体になる時と信じます。
私は、未だ叶なう事ではアリマセンが・・やがて火星を目指す宇宙船の航海は、長い危険な開拓の旅路であり、必ず「坐禅」が必要となることでしょう。
私は誰でも出来る自分だけの費用も手間もかからない・・「独り3分間イス坐禅」=1回呼気3秒吐気7秒計10秒程度の呼吸18回を推奨しています。
独り坐禅の約束ごとは・・独りだけで1日1回以上、寝る時 起きる時 トイレの時、昼休み 通勤電車の中、本を読む前、PC・スマホの前・後、散歩のとき・・など。自分の坐禅のことは 誰にも言わず、語らず、自慢せず、評価を受けず、独りポッチで、黙々と続けられますか・・ということ。
期間は10年を1期として3期。坐禅の3分間は単に「呼吸数を数える」だけ=数息観。または碧巌録百則・無門関48則の公案・・選んだ1則にのみ集中しておこなうこと。
目は半眼に、背筋を伸ばして。寝るタイミングなら、遠慮なく そのまま寝入り下さい。
なぜ こうした制約をしているかというと 【独り/今/ここに‥THE ZEN】をすること・・毎日、損得なく 続けることが 面壁9年 達磨禅の禅境地=極意だからです。
タッタの3分間 独りイス坐禅の出来ない人は 思い出したら また初心に帰って1回~2回~と数息観からやりましょう。(急いで禅語録の公案/1語をテーマにしないように‥数息観が続くと、自然に禅語録の矛盾に満ちた公案に興味がわいてきます)それまで‥いくら瓦を磨いても鏡になることはできない真実に浸ることです。
*磨甎作鏡(マセン サキョウ)‥唐代 師/南嶽懐譲と弟子/馬祖道一との禅問答=瓦を磨いても鏡にはならない禅問答。モチロン、坐禅が悟りや仏道になるわけがなく、色即是空が体認できません。弟子を導く「嘘」も方便ナノです。
このTHE ZENは【始まりが終わりですし・・終わりが始まりです】
どうぞ・・またおりに・・この奉魯愚(blog)の他 禅者の一語/羅漢と真珠・・を覗いてください。スマホ 全部のアプリにつながってはおりません。
現在判明しているのは約2万通のアクセスがあり、約20人ぐらいの人が「独りポッチいす坐禅」を黙々と実行なさっていることです。
会(有)難うございました。
ピカリ‥ゴロゴロ‥ZENの悟りは雷嚇(ライカク)‥カミナリだ!ソンナ見性ナド追いかけてドウスル?
・・スマホ幽霊になって「自分が生きている」・・ナドと思うなよ!
晴れた空が「3分間 独りイス禅」なら、悟り(見性)は、その真っ青な五月晴れのもと、突然の稲妻一閃・雷嚇一声!ドカーンと目の前、頭の中が真っ白になった状態です。そんな見性など追いかけまわしても、悟りは坐禅で発見される出来事ではアリマセン。さもしい坐禅です。
釈尊はガンジス河のほとり 菩提樹下に夜坐を組まれ・・明け方 暁の明星の輝きに大覚されたというが、禅機・禅境(地)は雷見性(カミナリけんしょう)ではなく、よほど深かったのにちがいアリマセン。
迷いや苦しみが深ければ深いほど、大覚・見性は大きいといわれます。ですから釈尊は山河天地‥すべて悟りで輝いている・・金石麗生(純金も道端の石コロも等しく輝いている)・・と喝破されたのです。
何を書こうとしたのか・・そうだ・・
悟りを開くと、悩み事やウナサレごとの一切が無(空)に消えて、平常(心)無事の人となりますか?・・
答え‥決して「ナリマセン」
たとえ3分間独りポッチイス坐禅で「達磨の廓然無聖(かくねんむしょう)カラリとした青空のごとき境地」を体得したとしても、悩みや苦しみ(妄想)は、尽きることなく‥雲のごとく涌いてきます。
煩悩無盡誓願断(ボンノウ ムジン セイガン ダン)など出来る訳がないのです。
カラ井戸に雪を埋める、無駄な作業(坐禅)している‥と分っているなら、ご勝手にどうぞ。
‥であればこそ「煩悩即菩提(ぼんのう そくぼだい)」=「色即是空/空即是色」を体得することがZENなのです。
過年 日本の禅者が言った「想(思)いは頭の分泌物‥アタマ(ココロ)手放し!アタマ手放し!」‥捨て去り、忘れ去りして、文字通り 現在(即今)を大事に、仕事(作務さむ)して生きること・・です。
スマホにとらわれて、スマホ中毒(幽霊)にならぬこと。漫画は活字文化ではアリマセン。新聞や本を読める人になってください。独り居るときは客と接する如くせよ・・禅で悟ったと思えることの【100%~1000%】すべて間違いです。
禅は釈尊誕生以来、約2500年余り、仏教というインド/中国/日本の寺僧・先達の揺籃の中で育ちました。しかしデジタル化社会は、産業革命のアナログ社会の200年分の変化を1年で成し遂げ、世界に格差(差別)を蔓延させています。PCやITが悪いのではなく、発明や文化、事業など利用(応用)の仕方が間違っているのです。
これを変革して、まっとうな人間社会を形成できるのは、独り一人の人間に備わっている‥無価値/無功徳/無所得のZEN=禅による生活(行い)だけでしょう。
私は、今後 宗教から親離れして巣立った「ZEN」が、火星や土星を目指す・・宇宙にタッタ一人‥のアストロノートにより 無重力の宇宙船の中で、上下左右 クルクル回転しながら宇宙を目指す姿・・が あればなあ‥と夢見ています。
有(会)難うございました。お大事に。
何かの折 はてなブログ「禅者の一語」/「禅・羅漢と真珠」ご覧ください。
ZEN『かくれんぼ ご飯ですよ・・の声かかり!』
自力/他力、哲学/欣求宗教・・何の力も借らず・・
(前略)禅において最も注目すべき事は・・宇宙や生物・人類の興亡のみならず、我々自身の苦しみと危機を・・人間あるいは自力・他力、あるいは危機を救う神の力「deus ex machina」なしに・・全く何の力も借りず解決できうるということである(後略)
鈴木大拙選集 第24巻 【大拙と禅を讃えて】R・H・プライス
この1冊 保存版 第2刷追巻第3巻(株)春秋社発行 (後略/抜粋要約p278~英文解説 石橋 裕訳16頁の15頁目)・・ラストのR・H・プライスの英/訳文を 何十年ぶりかで読み終えて、著者 鈴木大拙先生が、発行の昭和37年頃(僕が19才 明大の2回生頃)北鎌倉 円覚寺の向かい側、駆け込み寺=東慶寺 山頂の松ヶ丘文庫に坐住、執筆されていたのを思い出した。
父が戦前から、参禅の師として師事、法人 松ヶ丘文庫の創設に奔走したご縁があればこそ・・またそれ以前、富山県高岡の臨済宗大本山 国泰寺で江南軒勝平大喜老師に参禅して「大魯」の居士号を受け、また【禅】を世界に紹介した・・鈴木大拙翁から「白鷗」の居士号を、重ねでもらった稀な禅境書画 作家であつた。1914(大正3)年9月28日~2007(平成19)年1月3日(92才)
達道の禅者は、自分をヒケラカサナイ。自分に正直な生活・行動をする。天地同根なのである。
何故、このように記録しているのかというと、私が父の生前・・「禅の墨蹟書画全集」の発行制作を約束しており、どうやら体力・気力ともに衰えてきましたので、明年あたり写真を撮影しなければならない時期が来たのです。
禅境書偈・墨蹟画は、文字、言句に頼れない禅(境地)を代弁して、よく その禅機・禅境を表現すると思います。
禅は、もともと「自分独りで自覚する生活体験」そのものです。宗教でもないし、道徳やヨガ、茶道や柔剣道のような錬磨修行のようなものでもアリマセン。禅を世界に知らしめた仏教・宗教哲学者・・禅者である鈴木大拙翁といえど、独り「冷暖自知」するにしかず・・と、禅の公案を引いて事例を紹介するのが限度なのです。
だから、とりわけ外国人で禅に関心のアル方が、東洋の神秘主義に憧れたり、鈴木大拙全集を齧り読みして、ドップリ英文や外国語文献に浸りこんで、日本を尋ねてきても、著名な禅寺を尋ね、団体で、カシコマッテ「独坐大雄峰」を型真似したところで、無功徳・無一物の禅はドコニモ見ツケルことはデキマセン。
文字や言葉でない【生きた禅ニヨル生活】は、独り・・自分の中だけで・・ウソだらけの自分を、坐禅で剥ぎ取り、振り捨てて、忘(失)しなければ・・とうてい摂取することは出来ません。
イヤ・・アリガタ提唱や有料の坐禅会、有名寺の観光禅・・これでは日本から「純禅」が絶滅してしまいます。
冒頭、自力/他力/神仏・哲学など・・何の力も借らず 独り自(おの)ずから会得する境地を、鈴木大拙選集 第24巻 P158の禅問答から 紹介しておきます。
般若寺 啓柔禅師が上堂の際 板声が三度高らかに打ち鳴らされるのを聞いて、大衆はすべて堂に集まってきた。
そこで師 一偈を示して曰く『妙なるかな 板鳴ること三声、諸僧 みな来参す。すでによく時報を心得ておるから、今わしが改めて繰り返すには及ばぬ』
こういったまま師は堂を退いたソウナ・・(同-雲六/五十五丁のA)
有(会)難とうございました。
*坐禅について(高校生/若者と老生の方々の求道の問いに)応えています*
◆はてなブログ 禅者の一語・・禅・必携「碧巌録」意訳 編集中
◆はてなブログ 禅のパスポート・・「無門関」素玄居士復刻版 準備中
独りの時は・・客の応対時は・・釈 宗演老師著「叩けよ開かれん」・・見つけました!
今回 改めて・・2023-12-10-公開する奉魯愚(ブログ=羅漢と真珠)で確認しました。10則×デハナク9則でした。紹介します
この本は、僕が明大入学時、神田の古本屋で見つけて購入した(円覚寺に寄宿した18才のおり)座右の書です。60年安保の年ですから、あれから60有余年 経過・・つくづくと時不待人(とき 人をまたず)を実感いたします。
この記事をSNS(ツイート/シエア/ブックマーク)でシエアすると、もっと読まれるようになると推奨されましたが、PCの進歩に追いつけず、ワープロ感覚で文字を拾うあり様です。お一人でもお二人でも「独り黙々とイス坐禅」をなされろ方ができれば本望です。「禅は宗教ではない」・・想うところあって、奉魯愚を休止して3年有余。今なお約30名~?位の奉魯愚アクセスが続いております。
「3分間独りイス坐禅」どうぞ、初心 お大事になさってください。
徐々に奉魯愚 再開します。
有(会)い難うございました。
禅者の一語をご紹介したり、祖師の禅境(地)を味わいいただくように・・と書いています。光陰(惜しむべし)/時 人を待たず・・早や師走の声を訊く。
日差しの1瞬の陰りや和らいだ猫の声・・春を待つ大愚良寛にはカナワナイにしても、四季の内、やはり春が一番 待たれる、大好きな時です。
この座右銘は、北鎌倉 円覚寺の釈 宗演老師(夏目漱石参禅の師)のものですが、もはや、その何則かしか思い出せません。奉魯愚「羅漢と真珠」で紹介しています。
- 独りいる時は、客と接するが如く・・客に対する時は独りいるが如くせよ・・など、早く起きて・・で始まる9則である。
- 寝(しん)につく時は、棺(桶)を覆(おお)うが如く、褥(じょく)を離(り)する時は、履(り)を脱するが如くせよ。
- 妄(みだ)りに 過去を思わず、遠く将来を慮(おもん)ばかれ。
有(会)難とうございました。
◆はてなブログ 禅者の一語・・禅 必携「碧巌録」意訳 出版編集中
◆はてなブログ 禅のパスポート・・「無門関」素玄居士 悟入実偈 復刻版
◆はてなブログ 羅漢と真珠・・独り3分間イス坐禅/雑感/釈 宗演老師「座右銘」掲載中!
百歳も今日1日の続きだ。この1日をおろそかにすな
元服の書 NO61-2
この一日をオロソカにすな!
*求道の問い(禅語碌の至言)に答えて書いています*
巻藁 七十二 生きること=息をすること
(文章・平成11年12月21日)
生きると、息をするとは同儀といわれる。ブッダの五出の調(ととの)えでも「一番に「吐く息を長く堂々とせよ」と申され、吐く息を多くせよ、吸う息は長からん。
大事な、大事な呼吸法です。
ヘソは神闕(シンケツ)という急所のツボで、神ガ宿ル所。肛門は人が一番最後に息を引き取る所だといわれ、共に人の最重要の急所です。 ヘソで息を吸い、丹田(たんでん)に納め、肛門から吐き切る――この呼吸こそ「無事有事ノ如ク 有事無事の如シ」の平常心につながる呼吸です。
越し方は ひと夜の如く思われて
八十路(やそじ)にわたる 夢を見しかな
弓あるは楽し 弓あるは幸いなり。
武ハ舞ニ同ジ—―と言われます。
ひと息ひと息、一矢一矢、一日一日、弓をいただいて、翁(オキナ)の舞を續けてゆきたい念願であります。
神舞閑全(シンブカンゼン)ナル粧(ヨソオイ)ハ老人ノ体用(タイユウ)ヨリ出ズ。
日頃、暮らしの中や、閻魔堂(道場)での耕雲老師の立ち居振る舞いは・・いかにも「弓和尚」の名にふさわしい・・鎌倉期の古武士の面影がひしひしと伝わる禅者でした。
(老師とは師事する人の意です。「親しき先生」と言うべき、中国からの呼称であり、老いたる指導者の意ではありません)
「禅者の一語」元服の書NO61-1/「禅のパスポート」元服の書NO61-2/「羅漢と真珠」のNO61-3/・・12/3付け奉魯愚で紹介いたします。
現在、上記 碧巌録と無門関(素玄居士 復刻意訳)、禅の話の雑感を3部作1巻1冊にまとめた、出版の準備(第3稿)を編集しており、追加したり削除したり、徹しきれぬ一面をさらけ出している有様ですが、明夏まで位はかかりそうです。この奉魯愚で 古武士の如く弓道場におられた老師の佇(たたずま)いを 読み取っていただければ・・と念願いたします。
3分間イス坐禅の極意は「弓和尚の澄心」であり、調心(ととのえる)であり、欧米の方にも、弓道は「究道」だと「禅ニヨル生活=行い」を教え、諭されたのです。
その呼吸法を、噛んで含めるように語られておられるのです。
有(会)難とうございました。
◆はてなブログ 禅者の一語・・禅ニヨル生活/碧巌録 意訳
◆はてなブログ 禅のパスポート・・禅機禅境/無門関 素玄居士 復刻意訳
◆はてなブログ 羅漢と真珠・・独り3分間イス禅/禅の心禅の話/雑記
◆坐禅しつづけなければ「悟り」など元の木阿弥
元服の書 NO60
*中学・高校生と~第2の人生を歩む方の問いに答えて書いています
◆現代・・禅は宗教ではアリマセン。
独り坐禅により自覚する【禅ニヨル生活】行いです。
釈尊が仏陀(覚者)の教えを民衆に説かれたのは、独り菩提樹下の坐禅のあと、暁の明星をご覧になって、文字にも言葉にも表現できない・・大覚(見性)をなさり、この「衆生、本来、佛(菩提、覚者)なり」の真実を、できるだけ解かりやすく説かれたのです。
佛(陀の)教とは 悟りたる者の教えの意であり、そのモト・・原点(宗・玄・元・素)の教え・・宗と教の意味でした。菩提達磨により紀元520年頃、海路、中国南海(広東・南京)に渡来以降(先にヒマラヤ越えで伝来した佛教教団や国政・戦争の迫害を受けながら)それが日本に伝来し、欣求宗教として今日に至っているのです。
確かに、千五百年以上の今日に至る、寺僧、禅集団の組織、長い揺籃期がなければ、臨済(宗)曹洞(宗)黄檗(宗)など、個性的な祖師禅(宗のモト)は、日本で三本の太い枝を持つ大樹として根を張ることは出来なかったことでしょう。
しかし・・二十一世紀、もう、そうした伝教の時代は終わりました。飛行機や自動車・人工衛星。無線、PCなどの電子機器の革命、原爆などの大量絶滅兵器の保持、開発。地球気候変動、環境破壊など、それぞれ主義主張する国々では制御不能なIT文明の社会が乱立、誕生し、それに追い打ちをかけて、経済・産業・生活の格差社会と混乱が「個」としての対応をそれぞれの人に迫っています。
禅は「独り・瞑想」する「行い」の原語です。
坐禅は座(家の中)ではなく、独り・一人が、直に土の上にドッシリと坐っている形です。
私は、この行禅こそ「独りイス禅」で、何の功徳(無価値、利権・損得)もない、役立たずの「行い」でなければ、悟り(見性)に至ることはありえず、その坐(禅の)境(地)は 寝起きから、朝食・仕事・就寝まで、朝な夕な、オリオリに少しの時間を割いて フト・3分間程度のイス坐禅を積み重ねるところに、より深い、向上の境地(自覚)が開けると確信しています。
ただ普通の10秒1呼吸を、18回程度。それで3分間になります。目は半眼で、背筋を伸ばし、複式呼吸(寝ている時の呼吸)で、目覚める時、寝る時、通勤電車の車中、吊革に手をやって・・休憩時間の3分間・・頭で比較・分析、効果検証、因果効能を追うことなく(そんな妄想は3分間ホッタラカシ)坐禅してください。思いや効能、造作を意識しない・・捕らわれない、独りポッチの3分間を生きてください。 いずれは、18回の呼吸(数息観)も忘れ、野球のボールが止まって見えるとか、道に落ちていたタバコのフィルターが、白い土管に見えたとか・・湧く雲の如く見聞する誇大妄想が、いつの間にか消え失せる事でしょう。
そして役立たず(無功徳)の禅とか・・ご飯を食べたら、お茶碗を洗えとか、般若心経の色即是空とか、禅者の一語の公案、解説抜きで「なあんだ・・コンナKOTOだったnダ」と、チャント禅が「わが身について」あることを自覚されるでしょう。
まわり中、スマホをかざして歩く人が、足のない幽霊に見える時がくるでしょう。
遠く将来の私の夢は、火星とか土星とかを目指して、孤独に宇宙を旅するアストロノートが、無重力のロケットの中でクルクル回りながら坐禅している姿です。無線映像ですら、何時間、何日間のかかる「過去同士のやり取り」に耐えられるのは 独り1人に備わっている「無功徳の坐禅」のチカラしかアリマセン。そうした時代まで、世界中の誰かが・・独り3分間イス坐禅を、つないでいってほしいと願っています。
最近、出版の準備(校正、編集)が遅れています。 まだまだコロナ騒ぎが続きましょう。くれぐれもお大事に。
有(会)難とうございました。
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どれだけ瓦を磨がく努力をしても・・鏡にはナリマセン!いくら坐禅しても、悟ることはデキマセン!
「磨塼作鏡」マセンサキョウ・・禅の問答
中国(支那)唐代、馬祖道一が師の南嶽懐譲とした・・坐禅は瓦をみがいて鏡にするようなものだ・・との話。
◆無功徳(役立たず)の「3分間イス禅」長年やって悟りを得られますか?
禅寺で、いくら坐禅修行に精出されようが、悟り(正覚・見性)はデキマセン。
坐禅は安楽の法門であるとか・・精神を静めるためにとか・・空(観・無念無想)になり切ろうとか・・公案を思考して、より評価の高い答えをえようとか・・社会の干渉をきらって静かな余生でありたいとか・・四弘誓願の「煩悩無尽誓願断」(ぼんのうむじんせいがんだん)を坐禅(悟り)による境地で断ち切りたいとか・・の人に申し上げます。
煩悩即菩提(ぼんのう そく ぼだい)煩悩は決して・・断ち切れるシロモノではアリマセン。
似非(エセ・・)禅の紹介本には、「磨塼作鏡」マセンサキョウの意味は、自分が出した答えは、どんな場合も間違いが多いの意であるなどと、随分、まだるっこしい解説をされていますが、禅に程遠い答え方です。忠告です。単刀直入・・いくら坐禅しても悟れない・・のです。
このようにドダイ、坐禅する心構えが、最初のスタート時点から間違っていますので、瓦を鏡にする如き、無駄な努力をするな・・と申し上げておきます。
悟りは見性とか大覚とか・・無我の正覚ともいわれますが、その状況が最も近い言葉は「解脱」ゲダツです。蝉が地上に出て、その抜け殻を脱して鳴き始めるのを蝉脱(ぜいだつ)といいます。
それと同じに書けば「禅脱」です。
しかし、この禅脱は・・たとえ自分が必死に努力したり、希望したり欣求したり、集中(三昧・ザンマイ)したりしたからといって、セミが抜け殻を脱する(蝉脱・ゼイダツ)の如く、悟れる訳はないのです。かえって(坐)禅を、我執我見で生殺しにし、坐禅する思いを増長させておいて、唯我独尊デアルことを決めこむ・・それが一番、禁じ手です。
・・してはならないことなのです。
禅は「煩悩即菩提=ぼんのうソノママが悟り」です。
決して、誓願して断じて切り捨てられるシロモノではアリマセン。
唐代の禅者 馬祖道一(ばそどういつ)と、その師 南嶽懐譲(なんがくえじょう)との禅話に「磨塼(ません)問答」があります。
若い弟子、道一が、ヒタスラ坐禅に打ち込む姿を見て、師の南嶽懐譲が、瓦(カワラ)を磨き始めます。不思議に思った道一が「何をしているのか」・・と師に尋ねますと「鏡にしようと磨いているのだ」「瓦が鏡になる訳がありません」と否定すると「坐禅して悟れるわけがなかろうに・・」と無礙(むげ)にいわれて、省悟(ハット気づく)する(後年の馬祖山)道一。
禅寺の専門道場では、昔、告報といって、禅堂の先輩が警策(けいさく)をもって、ぐるぐる回りながら、坐禅中の者を励ますために、集中心を養う事例など話して聞かせる風習があったと聞きますが、この「カワラをみがいて、カガミ」とする話(磨塼作鏡・マセンサキョウ)など、僧堂修行の合間に聞かせてやる老婆(親切)心がアレバナア!と思います。
*四弘誓願・・衆生無辺誓願度・煩悩無尽誓願断・法門無量誓願学・仏道(禅への道)無上誓願成・・
よくある話だが、坐禅や瞑想に魅かれて、坐禅道場に通ったり、写経や精進(点心)料理つきの説法坐禅に、お仲間とホッツキ歩く、とくに御婦人方に多く見かける。せめて坐禅、瞑想を・・チンするレンジと心得て、牛乳を温めて飲み干す程度に 独りイス禅を気楽にされることを推奨します。
悟り(解脱)・・など、目指さなくてよい(坐)禅であればよいのにと思います。
有(会)難とうございました。
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奉魯愚 碧巌の歩き 羅漢と真珠・・の拄杖話の継いでに・・
有る奴にやり無い奴から取る・・そうすると禅が湧く・・本則 素玄居士
この則は・・初めから終わりまで、素玄居士の文字通り、丸写し。
読者の皆さん・・今回は・・独り坐禅で素玄居士と相見してください。
芭蕉 拄杖(ばしょう しゅじょう)第四十四則
【本則】芭蕉和尚 衆に示して云く
汝に拄杖子(しゅじょうす)有(あ)らば、我 汝に拄杖子を与えん。
汝に拄杖子無(な)くんば、我 汝が拄杖子を奪わん。
【本則】素玄居士 提唱
禅坊主は なかなかキイタ風なことをぬかす。
有る奴にはやる。
無い奴から取る。この拄杖子とは禅坊主の持っている棒のことで、禅のシンボルに用いられる。碧巌集にもよく出てくる。
本則は禅のある奴には、禅で応対してやろう。禅のない奴なら禅を奪い取ってやる。
この禅は一物のなきことを指すのじゃ。
雑念妄想があると禅はない。
禅のないとは、この雑念妄想があることで、禅を奪うのは雑念妄想を奪うのじゃ。そうすると、そ奴に禅が湧いてくる。
修禅の学人を接し これを自分と同じようにする、ツマリ禅の修行をさせるには、雑念妄想を抜きとるのじゃ。その手段はいろんな公案を捏ねくりまわし、棒し喝し あるいは、速やかに道え、速やかに道え・・とか、種々にしてまるでネズミが銭筒に追い込められた様にしてやる。赤裸々にすじゃ。慧可の不可得(ふかとく)じゃ。
こうなると雑念も妄想も居どころがなくなる。
廓然無聖(かくねんむしょう)じゃ。すなわち雑念妄想を奪い取るのじゃ。そうすると禅が湧く。無一物中 無尽蔵(むじんぞう)カナ。
こんな説得法が古来のやり方らしい。
説得は師家の手腕で境に従って景ありじゃ。
本則は この逆にも見られる。禅を持っているぞ・・などと云う奴に拄杖子で一本ポンと喰(くら)らわしてやる。悟臭の吩(ふん)たる奴にはこの手でやる。禅も何もないと云う飛び切りな奴なら、そ奴から禅を引き抜いてやる。即ち禅機を弄(ろう)して、他の禅機を見るのじゃ。
本則は二様に見られるが、こんなのは講釈禅で公案の真意とは違う。本則は有る奴にやり、無い奴からとる。サアどうじゃと云うので、拄杖子はつけたのに過ぎぬ。重きに便にし、軽るきに便にせずじゃ。
これが活作略(かつさりゃく)じゃ。
◆素玄云く 首吊りの足に噛みつく野犬かな
【無門曰く】扶(たすか)っては 断橋(だんきょう)の水を過ぎ、
伴(ともな)っては 無月の村に帰る。
もし喚(よ)んで 拄杖となさば、
地獄にはいること箭(や)の如し。
【無門曰く】素玄居士の註・・ソノママに意訳とします。
◆素玄 註・・断橋の水を過ぎ云々(橋の落ちた川をわたり、暗夜の村を行く時の杖、
この杖を拄杖子と云わば、堕地獄じゃ。拄杖子は杖でない)
【頌に曰く】諸方の深(しん)と浅(せん)と、
すべて掌握(しょうあく)の中(うち)にあり。
天を撐(ささ)え ならびに地を拄(ささ)う、
處にしたがって宗風をふるう。
【頌に曰く】素玄居士の註・・ソノママに意訳とします。
◆素玄 註・・拄杖子じゃから掌中(しょうちゅう)にある。
何にでも使える。
天を撐え地を拄うと云うのも 誇大にすぎて狂気じみている。
こんな文句のある文章は 値打ちがない。
【附記】 この則は・・初めから終わりまで、素玄居士の文字通り、丸写し。読者の皆さん・・この則は、独り坐禅で素玄居士と相見なさることです。素玄云く・・の一語・・絶語を凌ぎます!
こうした解訳は、この第2稿まで。第3稿は全くの内容を改め出版するため、この奉魯愚に掲載しません。
◆はてなブログ 禅者の一語・・碧巌録 意訳編集中
◆はてなブログ 禅のパスポート・・無門関 素玄居士提唱 復刻解訳中
◆はてなブログ 羅漢と真珠・・独り3分間イス坐禅の仕方、禅の心禅の話
◆坐禅させる(自分の中の)ものの働き・・
昨年11月当初の奉魯愚(羅漢と真珠)に、世界に禅を紹介した仏教学者・禅者の鈴木大拙翁の言葉を引いて、坐禅する事に囚われない「坐禅」こそ大事との件を 今一回、再録登場させています。
【役たたずの坐禅・・無功徳の禅】こそ、悟り(解脱)への道程に必要な出来事と言ったり書いたりしてきました。この無価値といい・・無一物と言いする・・思い(思考)こそ、捨て去り忘れ去りしての禅行(禅ニヨル生活)です。
どうにか・・数息のイス禅が出来るようになって、無門関や碧巌録の話の一つも、何を言っているのかな・・どうして噛み合わぬ問答なのか・・何故だろう?・・と思い至れることになったら「独り坐禅=独り接心」して、(坐)禅へのコダワリを捨てて下さい。
役立たず(無功徳・ムクドク)とばかりに、ソレすら捨て去り、忘れ去るのが最も大事なこととなります。
無門関 無門慧開の序(冒頭)にある「門より入るものは是れ家珍にあらず」・・「なんぞ言句に滞(とどこお)って解會(げえ)をもとむる・・をや」
人間の五感(見る、聞く、觸る、嗅ぐ、味わう)から認識できるものは、本当に(価値ある)宝とするものではない・・ことが体中にいきわたり、薫香してくるのです。
こうした状況は、独り一人、・・ナカナカ出来難い「3分間独りイス禅」が身についてこそ体得出来ることです。
街中で薪を売って母を養っていた恵能(638~713)が、思い至って五祖法演の寺に入り、山猿と罵(ののしら)れながら、米つきをしていた時に「菩提もと樹にあらず、本来、無一物」と喝破したのは、決して、坐禅したから悟り得たことではありません。
むしろ、臨済義玄(臨済宗開祖?~867)の出た頃までは(坐禅は)瓦を磨いて鏡となすようなこと・・愚かな出来事として・・南嶽懐譲(677~744)とその弟子、馬祖道一との磨甎(ません)問答・・のごとく、必要条件ではアリマセンでした。
鈴木大拙翁は、上田閑照・木村静雄との対談「臨済録」を語る・・の「生活の中の坐禅」で、「坐禅のはたらきというより、坐禅をさせるもののはたらきだ。そいつを見にゃいかんとわしはいうんだ。坐禅にとらえられると坐禅の中にいろんな妙な境涯を見ることになる。坐禅を主にする人は、その中から起こる境地を本物だと思う。心理学者や精神分析の人が好むところだ。そいつがいけないんだ(中略)・・のように、言葉(文字)に囚われて、三昧の境地を禅の境地と思い込みます。
これに警告しておられます。
この三昧を、禅の境地だと思い込む・・あるいは求道者に、それがサトリへの道筋だとか、精神安定の効用があるのだ・・とか、教導することが、かえって、純禅(解脱)を妨げることになるのです。本やお経や修行・坐禅(瞑想)の教導などに、まるで蜘蛛の糸に囚われてしまうようになるのが、一番、なってはならないことです。
ドダイ、悟りといい、頓悟・見性といい、大覚・成道と言い、解脱と道い、用語はいろいろありますが、三昧境地を含めて、すべて・・ソンナ境地は「禅による生活」の境地ではアリマセン。
前に書きましたが、自覚(大悟)したという自覚があるとすれば、それは・・まだ自覚していない・・下らぬナマザトリの証拠です。
チョウド ドコカノ国の政治家が、コロナのワクチン騒動とオリパラ実施騒動を、遺憾に堪えません!とか、反省します!とか・・口で言う内は、叱られた子供のアヤマリ同様、反省していないことなのです。
酒のみ運転で捕まった者が、私は酔っていない、正気です・・と主張するようなものです。蕎麦屋の釜の中です(湯・ユウばかり)
【閑話休題・カンワキュウダイ・・それはさておき】
誰からも何の教導も受けず「独り坐禅」は 役立たずで行い、自然な数息が出来るようになったら、そんな坐禅すらも忘れて・・禅語録(無門関・碧巌録)の、引っ掛かりのできた1則の【WHY?】に向き合うことです。自分の、何処からか湧き上がってくる【どうして?】だろう・・の、解決のつかぬ疑問の思いが、めぐりめぐって、数息坐禅に溶け込んでくれるのです。
どうやら・・そのあたりから、自分の独りポッチの立ち位置(坐り位置・行住坐臥)がボンヤリ自覚して、言葉を失う状況になりましょう。
世界的なコロナ騒ぎが、政治や社会的な変革の機となりました。この事件は従来の禅にとって「滅びの一撃」となりましょう。
跡には観光・拝観禅つまり寺僧の生業(ナリワイ)禅や効用効果を求める心理坐禅が細々と営業を続けることでしょう。
逆に云えば、純禅(独り接心)にとって、願ってもない禅 体得のチャンスです。
禅の極点に立つためには、磁石・・この場合は、自分のココロの中の【WHY?】です。そして、その歩き(生活行動)です。
達磨の坐禅は・・役立たず(無功徳)=WHY?です。
目的地は・・廓然無聖(かくねんむしょう・・カラリとした青空)です。
年頭から、碧巌録・無門関の意訳、編集が第3稿を迎えました。後、半年以上はかかるやもしれません、でも、やり遂げます。ソレまでは、羅漢と真珠の禅のココロ、禅の話を雑記として登場させます。
どうぞ、折々にはてなブログ「禅者の一語」「禅のパスポート」ご覧ください。
有(会)難とうございました。加納泰次拝。
◆火もまた涼し・・ホントかな?
◆心頭を滅却すれば・・火もまた涼し・・ホントかな?
昔、松竹映画の木下惠介監督が映画「笛吹川」を製作しました。天正十年四月三日、甲斐の国、武田信玄の位牌所である恵林寺の快川紹喜(かいせんじょうき)と修行僧百人余りを、織田信長の軍勢が、寺ごと山ごと火をかけ、有無なきままに皆殺しにしたのです。信長は、信玄と戦って勝利した勢いに乗じ、快川が、佐々木義賢の子、義治を寺にかくまったこと・・さらに信長に屈従しない禅者達の剛直ぶりを遺恨として 一山郎党を、山門に追い上げて焼き殺したのです。
快川は,戦火を逃れてきた反信長勢力の衆僧をかくまっていましたが、信長の軍勢は逃げることができないよう、山の周辺を軍兵が囲み、刀や槍で脅しつける残虐ぶりであったといいます。
この最後の時に挑んで、快川は「安禅、必ずしも山水をもちいず、心頭を滅却すれば 火、自(おの)ずから涼(すず)し」と遺偈して火定(かじょう)三昧となり果てました。
滅却とは・・ホロビルこと・スッカリなくすこと・・心頭滅却は、無念無想の境地に達する事とあります。理屈で言えば「断・捨・離」の行為で得られる境地ではありません。
余談ですが・・この映画(笛吹川 原作 深沢七郎、監督 木下惠介)の出演要請が大船の松竹撮影所から、横須賀線で一駅隣の北鎌倉駅にある臨済宗・円覚寺の僧堂(修行僧)に届いたのです。たしか管長は朝比奈宗源老師の頃でした。宗源老師は、雲水達に、映画のセットであれ、火で焼かれる快川の禅行を体験させたかったのでしょう。出演を承諾しました
(私は当時、円覚寺山内にある続燈庵に寄宿してお茶の水に通学する学生でした)映画のスタジオでは、山門の伽藍に、居並ぶ禅僧たち(雲水の本物)が、さすが禅堂で修行しているだけって、ピタリ、坐禅三昧・・助監督が火付け役で、OKが出たら、スカサズ消火に当り、逃げ出せる万全の準備を期して本番を迎えたそうです。いよいよスタートでカメラがまわり、伽藍の下で火が燃え上がります。・・ココからは話のまた聞きです・・「本番です」監督の声がかかり、フィルムが回り始め・・準備した紅蓮の炎が伽藍にメラメラと上がった瞬間、あまりの熱さに居並ぶ坐禅の雲水さん、アッという間に逃げ出したそうです。
さてもさても・・当時の焼け死んだ快川紹喜や宝泉寺の雪峯、東光寺や長禅寺の禅者達の覚悟の禅境(地)に、ただ言葉もなく思いを深くしたそうです。
もちろん誰一人、火傷やケガもなく円覚寺に戻って来たそうですが、このシーン、本編で使用されたかどうかシリマセン。(たぶんカットされたことでしょう)
この心頭滅却の絶句は、晩唐の杜荀鶴(とじゅんかく846~904)の作であるといわれています。その意は「暑い夏の頃は、山間渓流の涼しさを求めるまでもなく、ただ心頭を滅却スレバ暑さも涼しく観ぜられる」といった程度の感想文です。私は・・快川の引用は、単なる引用ではなく、日頃の快川ならではの「平常心」・・禅ニヨル生活の「禅境偈」であるとつくづく思います。
ZENは、独り一人の心の奥底にあり、自己内省により発見、発明(悟り)されることを待っています。そのキッカケが「たった3分間独りポッチ」のイス禅です。
人は悩む時・・哲学とか人生本とか・・宗教教団や仲間など・・何かの指標にすがりたくなるものですが、最後に頼りになるのは自分だけとなります。その自分だけ・・も、あてにはならず・・結局、役立たず(無功徳)のアリノママになることが必要です。
紀元520年に、インドから支那(中国)梁の国(金陵=南京)に海路数年を費やしてやって来た菩提達磨は、武帝と禅に関する問答を試みたが、禅を「無功徳(無効用)」といい・・禅とは何か?の問いに「廓然無聖(かくねんむしょう)」と答えて、嵩山少林寺に9年面壁坐禅した菩提達磨。純禅は、1500年経過した今も「真っ青な・・空」の如き変わらぬ天気です。
この禅境(地)の クダクダしい説明は、かえって自発的(自覚)を阻害することになる・・として・・まあ、そんな感じで奉魯愚しております。
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ZEN・独りポッチ禅につきましては・・下記メールでご連絡の方宛て ご返事いたしております。加納 泰次 taijin @ jcom.zaq.ne.jp
達磨 無功徳の面壁禅 VS 日本 盤珪の不生禅・・
仏(禅)心を、念(執着心)に仕替えさしゃんなと申すことを、俗の人に説き聞かせまする程に・・
◆「不生禅」(ふしょうの禅・・盤珪永琢)
私は、日本の代表的禅者に、ここで紹介する盤珪永琢(ばんけい ようたく 1622~1693)を挙げます。
(もちろん、白隠や一休さん、良寛さんなど、敬愛する禅者は沢山おられるけれど)盤珪さんほど 解かりやすく禅を説かれた方はいない。
それも一般の悩める庶民に対しての提唱(講座)である。
無門関や碧巌録の意訳をはじめた六十才の頃から、この「不生禅」が、次第に心の片隅で、フツフツと醸成されてきたのです。
2018(平成30)年2月、神田の古本屋で、盤珪禅師法語集、藤本槌重編著(昭和46年(株)春秋社刊)を買い求め、この奉魯愚に紹介するべく読みました。
平語、民衆の言葉そのままに禅を説かれています。身に染みて再読しました。
以下、文中「仏」の字を、悟り(覚者)=「禅」と置き換えて紹介します。
◆「人々 皆、親の産み付けてたもったは、不生の仏(禅)心一つ。餘の物は産み付けやしませぬわい。不生なが禅心、禅心は不生にして霊明なものに極まりました。不生で一切事が調いますほどに、皆不生の禅心で居さっしゃれい。不生の禅心でござれば、今日の活禅(禅による生活)でござるところで、不生で居ますれば、迷いようもござらぬ程に、迷わにゃ悟りは要りませぬ。直(じき)な事じゃござらぬか。
また、不生なものは、不滅なものに極まりました程に、身共は、ただ不生とばかり説きまして、不滅とは云いませぬ」法語/三p186=41
◆「皆、禅心を餓鬼(がき)に仕替え、修羅(しゅら)に仕替え、あれに仕替え これに仕替えて、不生で居ませず、迷いますところで、凡夫に成りますわい。身共がもうす、この仕替えぬ、と云うが肝要な事じゃと思わっしゃれい。p187=42
◆「仏祖と申すも生じた跡の名でござれば、不生な場からは第二義、末(すえ)な事でござる程に、不生で居ますれば、仏祖のもとで居るというものでござるわい。至って尊いことでござらぬか。不生決定(ふしょうけつじょう)しますれば、法 成就ともうすものでござるが、その決定しました事は、我より外の人は知りませぬ。人に知らせようもござらず、また人の知ろうようもござらぬ。また人の知らぬとあっても、苦しゅうはござらぬわい。不生決定の場は仏祖も不識じゃわい。どなたに依らず、不生な事を決定めさるれば、骨を折らずに畳の上で、心安う活如来(禅による生活)で居るというものでござるわい」p187=43
ただ「不生」と決心、覚悟すればよいのだ。昔、禅がインドから中国に渡って来た頃、純禅の面壁(達磨)禅は盛んだったが、唐代、日本に渡来して、寺僧の教導による修禅僧堂の修行がハビコッて、何時しか直指の禅が消滅してしまった。
今、私は・・盤珪が発明・再発見した「不生禅」を盤珪の語りソノママに紹介している。迷いは仮に起こり、仮に滅する、実体のないものである。禅心は不生・不滅だから、少しの念もない。だから迷いもない。迷わないのに悟りたい・・とは無益なこと。不生は自知冷暖・・「自ずから冷暖を知る」までのことじゃわいの・・と道(い)う。
(江戸初期の庶民への言葉が、直に心に響いてくることを願います)
「自分から念を生じ、知恵才覚、利根を出さいでも、万物はそれぞれに、自ら通じ別るるは、霊明なる禅心は不生にして、事事物物がそれぞれ埒(らち)があくということを、深く信心決定して肯(うけが)はしゃるまでの事でござる」との仰せなり。
・・解かりやすいでしょう・・もう一つだけ・・坐禅して悟りを開こうと思うのは大間違いだぞ・・と警告しておられます。
イヨイヨ 復刻版・・素玄居士の提唱 無門関 や、碧巌録 意訳が本年中に出版されるでしょう。達磨の無功徳禅と何が違うのか・・私が道う役立たずの「3分間独りイス禅」と何が違うのか・・お判りになったでしょうか?