禅のパスポート

禅語録 無門関no解釈to意訳

達磨 無功徳の面壁禅 VS 日本 盤珪の不生禅・・

仏(禅)心を、念(執着心)に仕替えさしゃんなと申すことを、俗の人に説き聞かせまする程に・・

      ◆「不生禅」(ふしょうの禅・・盤珪永琢)

私は、日本の代表的禅者に、ここで紹介する盤珪永琢(ばんけい ようたく 1622~1693)を挙げます。

(もちろん、白隠一休さん良寛さんなど、敬愛する禅者は沢山おられるけれど)盤珪さんほど 解かりやすく禅を説かれた方はいない。

それも一般の悩める庶民に対しての提唱(講座)である。

無門関や碧巌録の意訳をはじめた六十才の頃から、この「不生禅」が、次第に心の片隅で、フツフツと醸成されてきたのです。

2018(平成30)年2月、神田の古本屋で、盤珪禅師法語集、藤本槌重編著(昭和46年(株)春秋社刊)を買い求め、この奉魯愚に紹介するべく読みました。

平語、民衆の言葉そのままに禅を説かれています。身に染みて再読しました。

以下、文中「仏」の字を、悟り(覚者)=「禅」と置き換えて紹介します。

◆「人々 皆、親の産み付けてたもったは、不生の仏(禅)心一つ。餘の物は産み付けやしませぬわい。不生なが禅心、禅心は不生にして霊明なものに極まりました。不生で一切事が調いますほどに、皆不生の禅心で居さっしゃれい。不生の禅心でござれば、今日の活禅(禅による生活)でござるところで、不生で居ますれば、迷いようもござらぬ程に、迷わにゃ悟りは要りませぬ。直(じき)な事じゃござらぬか。

また、不生なものは、不滅なものに極まりました程に、身共は、ただ不生とばかり説きまして、不滅とは云いませぬ」法語/三p186=41

◆「皆、禅心を餓鬼(がき)に仕替え、修羅(しゅら)に仕替え、あれに仕替え これに仕替えて、不生で居ませず、迷いますところで、凡夫に成りますわい。身共がもうす、この仕替えぬ、と云うが肝要な事じゃと思わっしゃれい。p187=42

◆「仏祖と申すも生じた跡の名でござれば、不生な場からは第二義、末(すえ)な事でござる程に、不生で居ますれば、仏祖のもとで居るというものでござるわい。至って尊いことでござらぬか。不生決定(ふしょうけつじょう)しますれば、法 成就ともうすものでござるが、その決定しました事は、我より外の人は知りませぬ。人に知らせようもござらず、また人の知ろうようもござらぬ。また人の知らぬとあっても、苦しゅうはござらぬわい。不生決定の場は仏祖も不識じゃわい。どなたに依らず、不生な事を決定めさるれば、骨を折らずに畳の上で、心安う活如来(禅による生活)で居るというものでござるわい」p187=43

 

ただ「不生」と決心、覚悟すればよいのだ。昔、禅がインドから中国に渡って来た頃、純禅の面壁(達磨)禅は盛んだったが、唐代、日本に渡来して、寺僧の教導による修禅僧堂の修行がハビコッて、何時しか直指の禅が消滅してしまった。

今、私は・・盤珪が発明・再発見した「不生禅」を盤珪の語りソノママに紹介している。迷いは仮に起こり、仮に滅する、実体のないものである。禅心は不生・不滅だから、少しの念もない。だから迷いもない。迷わないのに悟りたい・・とは無益なこと。不生は自知冷暖・・「自ずから冷暖を知る」までのことじゃわいの・・と道(い)う。

(江戸初期の庶民への言葉が、直に心に響いてくることを願います)

 

「自分から念を生じ、知恵才覚、利根を出さいでも、万物はそれぞれに、自ら通じ別るるは、霊明なる禅心は不生にして、事事物物がそれぞれ埒(らち)があくということを、深く信心決定して肯(うけが)はしゃるまでの事でござる」との仰せなり。

 

・・解かりやすいでしょう・・もう一つだけ・・坐禅して悟りを開こうと思うのは大間違いだぞ・・と警告しておられます。

イヨイヨ 復刻版・・素玄居士の提唱 無門関 や、碧巌録 意訳が本年中に出版されるでしょう。達磨の無功徳禅と何が違うのか・・私が道う役立たずの「3分間独りイス禅」と何が違うのか・・お判りになったでしょうか?