禅のパスポート

禅語録 無門関no解釈to意訳

◆花は五分咲きが看ごろです!

はてなブログ・・禅者の一語(碧巌録意訳)/禅のパスポート(素玄居士提唱「無門関」復刻意訳/禪・羅漢と真珠(禅の心、禅の話)・・

この奉魯愚(ぶろぐ)は、2020年1月5日までの間、一休さんの「門松は冥土の旅の一里塚、目出度くもあり目出度くもなし」にあやかって、菜根譚(さいこんたん)花看噺できり出します。

花看半開(花は五分咲きを看るべし)菜根譚 洪王明(自誠)

花看半開   花は半開、清楚を看るべし・・

酒飲微酔。  酒はホロリと酔うほどにすべし・・

此中大佳趣。 此の中にこそ バランスのとれた風流がある

若至爛漫モウトウ もしも酒乱泥酔の輩と一緒の花吹雪なら

便成悪境矣。 花と酒 ともどもに最悪・・お断りだ。

履盈満者 宜思之。 えいまんの(みちたりた)者は、

          今が看脚下だぞ。

     *モウトウ・・酉に毛。酉に匋と書く・・酒に憑りつく、アル中の意。

昨年は・・はてなブログ計23160回の閲覧(アクセス)と☆86をいただきました(2020年1月1日AM0;00現在)

☆を沢山いただきながら、私がPCの使い方が未熟なため、お礼やご返事もままならない点、お許しください。また、禅や坐禅のご質問には、ナニブン、禪は宇宙の中で役に立たない価値なき出来事ゆえに、貴方ご自身で見性(自覚)されること・・のみが解決法です。ご参考に、碧巌録や、終戦前、真っ当な無門関を提唱された素玄居士の復刻・・各則の見解(けんげ)頌(禅機・禅境)など、禅者の風流な生活(行為)を紹介している次第です。

ご覧になった禅語から【!・・?】と感じられた一語を 孤独な独りイス坐禅で、思い返し、考え返してください。

(これを拈弄/ネンローと言います)

禅の公案(問答)は、いずれも異次元から答えられたように矛盾に満ちており、論理的心理的哲学的科学的な正解はありません。これが正解だと言えば言うだけ、書けば書くだけ、間違いや誤解が増えるだけなのです。

釈尊ですら・・生後7日に生母を失い、ヤソーダラー(妻)との間に、結婚13年目に生まれた男児に「ラーフラ」(サンスクリット語で 障(さわ)り。悪魔の意、漢字で羅睺羅(らごら)と名付け、子捨て(家出)しました・・その後、独り山に入って、6年に渉る苦行の後、菩提樹下、明星の輝きを見て悟りにいたる・・ソンナ苦悩、行脚の生活が背景にあります。当時(2500年前)の平均寿命は30才前後。縁なくば、死んでも不思議ではない年齢でした。後に羅睺羅は、仏弟子となったと伝えられています。その因縁、由来はつまびらかではありません。

(山折哲夫著「ブッダはなぜ子をすてたか」集英社新書

更に1500年前、仏教伝来の最後を飾って、はるばるインドから中国に渡航して禪をつたえた菩提達磨(ぼだいだるま)・・にせよ、その後、禅語録に登場する中国の禅者たちは、現実的な今を尊重する中国の風土に育まれて・・

釈尊「犀(さい)の角(つの)のように。ただ独り歩め」

中村 元訳ブッダのことば スッタニバータ・・と道(い)われた「禅ニヨル生活」を歩んできたのです。

「禅」は独り一人にチャントあります。宗教ではアリマセン。

寺僧や教本、教導に頼ることなく、独りで、チョットの時間でも無価値で役立たずの「坐禅」をなさってください。

                                                                                                                      

                                     禅のパスポート 無門関NO26

大空(タイクウ)なお いまだ禅ならず・・ここを掴(つか)み取れ!(素玄居士)

        二僧 巻簾(にそう けんれん)第二十六則

【本則】素玄提唱 

この一得一失が禅の妙じゃ。二僧同じく去って簾を巻く、歩き具合も手つきの様子も、眼つきも腰つきも何一つ書いてないのじゃ。そんなことは無用じゃ。

それなら・・どこに一得一失があるか、臨済は賓主歴然(ひんしゅれきぜん)という語を用いているが語意いよいよ同じじゃ、がまた別なりだ。

無礙縦構(むげじゅうこう)の禅機は、書いて書かれぬことはないが、そんなことは読んだだけではナルホドというだけで他人の刀を借りて振り回すようなもんじゃ、剣道の技倆(ぎりょう)にはならん、かえって他を傷つけ自からを害(そこ)なうのみじゃ、教えられるとその人に禅が湧いてこぬ、学人を毒することになる、また学人の為にもならぬこともあるのじゃ、また教えたところで悟りにはならぬ。

要は悟るにある、悟れば一得一失がわかる。

サア法眼のこの禅機を勘破(かんぱ)せよ。

  【本則】清涼(せいりょう)の大法眼(だいほうげん)、

   因(ちな)みに僧、斎前(さいぜん)に上参(じょうさん)す、

   眼、手をもって簾(れん)を指す。

   時に二僧あり、同じく去って簾を巻く。

   眼曰く、一得一失(いっとくいっしつ)。

 ◆素玄曰く ラジオの天気予報、

   東の風又は西の風・・晴れ又は雨。 

  【無門曰く】しばらく道え、これ誰か得 誰か失。

   もし 者裏(しゃり)に向かって一隻眼(いっせきげん)を著得(じゃくとく)せば、

   即ち清涼国師 敗闕(はいけつ)の處を知る。

   しかも かくの如くなりといえども、

   切に忌(い)む、

   得失裏(とくしつり)に向かって商量(しょうりょう)することを。

【素玄 註】敗闕(清涼国師の大切なる處を 素玄曰くでサラケ出してやった。得失もなにもあるもんか)

【無門曰く】二僧の誰がよし・・であり、誰が至らぬ・・のか。

もし、ちゃんとした見どころを押さえた者であるなら、清涼国師の大事な、基準点がわかろうというものだ(素玄云く・・サラケ出してやったぞ。得も失もアルモンか!)

 【頌に曰く】巻起(けんき)明明として太空(たいくう)に徹す、

  太空なお いまだ吾宗に合(かな)わず。

  いかでか似(し)かん 空よりすべて放下(ほうげ)して

  綿綿密密(めんめん みつみつ)風を通(つう)ぜざらんには。

【素玄 註】大空云々(大空なお未だ禅とすべからずじゃ。ここのところをしっかり摑(つか)め。不通風(締め切っておくのも禅ならずじゃ。けれども空より放下したら締め切ることになるかナ。この頌は一得一失にすこしそぐわぬ様じゃテ) 

【頌に曰く】(この・・無門曰くと、頌に曰く・・は、どの則も意訳です)

簾を巻けば、清々しい青空が見えてくる・・

これが禅だと思うと大誤解となる。・・大空は禅ならず。ここのところをしっかりツカメ。けれども、閉め切って風通しが悪いのも禅ならずじゃ。どうも、この頌は少しソグワヌところがある。