◆「佛」とは・・「禅」のこと!
即心即佛(そくしん そくぶつ)第三十則
【本則】馬祖 因(ちなみ)に大梅(だいばい)問う
如何なるか是れ佛(禅)
祖云く 即心即佛(禅)
【本則】素玄提唱 馬祖は即心即禅(佛とは禅)という。素玄は「禅」は対象を絶し心意を超越するという。ドッチが眞でドッチが偽か知らんテ。
何より簡単なのは心を掴(つか)みだして見ることじゃ。
そしてそれが禅かどうかを調べるのじゃ。
サア、皆の衆、自分の心を掴んで見ておくれ。
掴んで見たら他人の心であったら駄目じゃ。
自分で自分を精神することが出来れば、自分の心が自分の心になるのじゃが、精神してみたら、どうやら自分以外のものになってしまっていはせぬかナ。
心理学では手のつけられぬ問題になっている、自分自身の精神を他人の精神の如く観じ批判することは出来る、自省(じせい)という奴じゃ。然らば自省するものは何かというと、そ奴はいつの間にやら自分でなくなる。
自省もつまり他観批判じゃ。道徳も自律というが自律する奴は自分以外にあって、それが自分以外の自分を他観し批判し、且(か)つ自律の命ずるままになっているのじゃ。自律が自分を圧倒してくれる。自分はどこにあるか判らない。修養とは、この高遠な自律の命ずるままに聴従する習慣に外ならない。
この事は自心を自観する習性が人間に成立しなかったのではないかと思う。
パブロフ(露国の心理学者)の刺激と反射の理論からすると、自心を自観する習性は成立し得なくて、かかる場合においても類似の他観に被覆せられるのではなかろうか。自心を自観する刺激ができない。自心を自観する反射も成立しない。習性の不成立じゃ。(もとより、これは素玄の私説にすぎないが・・)
この自心というも心意に対象をもうけ、それに律せられると云うことに外ならず、即心と云うもつまるところ対象を立(りっ)し、それを心とし、それを把握する・・それを禅だとする。
もし馬祖の意がこうであるとすると「即心即佛」は「禅」にならぬ。心を超越せず心を立し対象を作っているから、そしてその心は一般の対立的な平凡な心にすぎない。馬祖ともあるものがこんな心のことを云うはずがない。
馬祖の心は一事の立するなき心じゃ。
把握することなき、知識することなき心じゃ。
道徳とか自律とか信仰とか、そんな紛々擾々(ふんぷんじょうじょう・思いわずろうの意)なることなき心じゃ。心意を心意することのない、水灑(みずそそ)げども水着(みずつか)ずじゃ。
この心が佛(禅)じゃ。
心の心とすべきなきところが禅で、心意の超越であり素玄の禅と同じことになる。
處でそれは不可得の心で、即心というと その不可得の心を可得することになる。
慧可の不可得に向かって達磨が「汝の為に安心す」としたのは、その不可得を可得して安心するとしたのである。
不可得の把握が即心で達磨の安心じゃ(達磨安心 第41則)
即心即佛(禅)じゃ。
◆素玄云く
昨年三百餘 不招新年来(去年はアレよ・・アレよ!の内に)
復々三百餘 又々新年来(今年の正月はアッ!という間に)
【無門曰く】もし、よく直下に領略し得去らば、佛(禅)衣を着、禅飯を喫し、
禅法をとき、禅行(禅による生活)を行ず。
すなわち是れ禅ならん。
しかも、かくのごときなりといえども、大梅、多少の人を引いて
あやまって定盤星を認めしむ。
いかでか知らん、
この佛(禅)の字を説くも三日、口を漱(すす)ぐということを。
もし是れ、この漢ならば 即心即佛(禅)と説くを見ば、
耳を蔽うて すなわち走らん。
【素玄 註】直下(早合点して僧業を佛とせん)定盤星(秤の目盛り、固定的見解、禅を錯ること)口を漱ぐ(佛などと云うと口が汚らわしく臭くなるの意)耳を蔽う云々(そりゃ大変、口頭禅には却走の外はない)即心即佛は誤解を生みやすい。心を一般の心意としたら大間違い。即心即佛などと云う奴に出逢ったら逃ゲ出スワイ。
【無門曰く】よく聞きなさい。佛(禅)の事を説明したら、三日間は口を漱いで(うがい)しなければならない。コレを聴いたら耳をふさいで逃げ出せ・・と言われた。
*素玄居士、この事、百も承知の老婆(ろうば)親切の提唱である。
【頌に曰く】青天白日(禅は・・露堂々、隠れていない)
切に忌む 尋覓(じんみゃく・・たずね求めるな)することを。
更に如何(いかん)と問えば、臓をいだいて屈と叫ぶ。
【素玄 註】青天白日(禅は蔵カクすことなし)尋覓(尋ね求める)抱臓叫屈(ほうぞうとくつ・・禅とは何かと問うと、古徳の禅の説話をつかみ取って腹一杯に詰めていながら、私は泥棒でないと、口先で失敬呼ばわりをする)
【頌に曰く】「水」を雲と言い、霧と言い、氷と言い、H2Oと言い、春の小川、滝、湖、大海の・・と言ったところで、その水の中で、喉の渇きを訴える・・独り一人がゴクリと飲まねば、本当の癒しにはならない(白隠、坐禅和讃)