禅のパスポート

禅語録 無門関no解釈to意訳

禅のパスポート NO7 大工の良し悪しは、カンナくずでわかる!

          ◆A carpenter is known by his chips.

               無門関 第七則 趙州洗鉢 (じょうしゅう せんぱつ)

【本則】素玄居士 禅寺では日常 粥食であるとのことじゃが「食ったかどうじゃ」「ハイ食べました」「それじゃ茶碗を洗え」で、禅が手に入ったというのじゃが、この僧は昨今坊主(乍入叢林・さにゅうそうりん)ではなく 大分、修行を積んでいたものと見える。けれども趙州が豪物(えらもの)であったからでもあろう、趙州の前へ出ると その日常の一語で 手がかりがついたのじゃ。自己暗示も手伝ったのだろうか、どこかに禅者の風格が修行底を薫化(くんか)し 機縁をなしたのかも知れんテ。平常の不退転にもよるが 明眼の禅師の一挙一動も機縁じゃ。

それが禅を表現しているから 手がかりは何時でも掴めるわけじゃ。臨済が大愚の一語「黄檗(おうばく)恁麼(いんも)に老婆親切なり」で入手したのも、この僧に似たりじゃ。

今日 何の處にか大愚・趙州ありやだ。蒼天(そうてん)蒼天。 

     【本則】趙州 因(ちな)みに僧 問う、

        某(それ)甲(がし)、乍入(さにゅう)叢(そう)林(りん)。

        乞う師、指示せよ。

        州云く、喫粥了也(きっしゅくりょうや) いまだしや。

        僧云く、喫粥了也。

        州云く。鉢盂(ほう)を洗い去れ。

       その僧 省(せい)あり。

 素玄 曰く    昨来餘物無過口 趙州饗来一語粥 

                          山堂寥廓嵐気冷 失銭閑人洗鉢去

      昨来、口を過ごす余物なし。

     趙州 一語の粥を饗(きょう)し来る。

    山堂寥廓(さんどう りょうかく) 嵐気冷(らんき れい)なり。

   失銭(しつせん)の閑人 鉢を洗って去る。

【無門曰く】趙州 口をひらいて膽(たん)をあらわし、

                     心肝を露出す。

                     この者、事を聴いて真ならずんば、

                     鐘を呼んで甕(かめ)となさん。

素玄 註】鐘云々(ここで禅を見届けなければ盲目じゃの意)

【無門云く】明眼の禅者(趙州)の日常、すべてが禅そのもの。

ご教示とやらの手がかりは、一挙手一投足、ゴホンと咳払いしようが、コッンと机を叩こうが、すべてがズバリ禅を表現している。

臨済が、師 黄檗のもとを去り、大愚に参じて「黄檗、恁麼に老婆親切なり=さすが黄檗だな。美味しいご飯を炊くのが上手だ」の一語で、禅を手に入れたのも、この求道者に似ている。

サア・・鐘を甕(かめ)と言い間違える人になるな。洗えと言われる前に、茶碗を洗ってしまう輩でないと、禅は手に入らないぞ。

それにつけても 現代、いったい何処に大愚や趙州がいるのかな?

 

【頌に曰く】ただ分明を極(きわ)むるがために、

                      翻(かえ)って所得を遅からしむ。

                      燈の これ火なるを早く知らば、

                      飯(はん)の熟するにすでに多時(たじ)。

素玄 註分明云々(禅をむつかしいと思い込んでいるが そんなもんでない。瞭(あきら)かすぎるから かえつておくれる)早知云々(灯の火なるを知るの時節が来れば 機縁すでに熟せりじゃ。禅も すでに内に純熟している時になって はじめて機縁を掴むことが出来るのである。内部に醗酵していないのに 機縁だけを掴もうとしても機縁はつかめぬ。

(飯 熟するを知れば、早くも灯の火なるを知るのじゃ)

【頌に曰く】「禅」を難解だという人こそ、素直でないな。分析・比較・検証と、論理や心理を学問しても、効能書きに頼る病人は助からない。

ご飯を上手に炊き上げるには、水加減は当然として、初めトロトロ、中パッパ、子供が泣いてもフタ取るな・・電磁的自動化社会に安住するスマホ信者には、禅は無縁となるでしょう。

【附言】禅を悟るに難行苦行・・開けても暮れても坐禅三昧といわれる。ホントかどうかナ?

そんなことより・・「正直」でないと(桶職人でも)オケは作れない・・これは本当だ。

 

達磨より三代あと、鑑智僧璨(かんちそうさん)は 信心銘において「至道無難(しどうぶなん)唯嫌揀擇(ゆいけんけんじゃく」・・悟りへの道は難しいものではない、ただ、好き嫌いや比較することがなければ・・と、わずか584文字の詩文で述べている(彼は・・当時、日本で法隆寺が建立された頃(606年)だが、仏教・道教の迫害にあい、深山に隠棲して難を逃れ、求道者たちに大樹の下で説法中、合掌・坐亡したと伝えられている)

 

禅の悟りはイロイロだが、素直に、独りで坐禅、自省すれば、ヒヨットした何かの機縁(禅機)があって、涙ながらの・・玉ねぎの皮むき作業が終わる。ただ、それだけのことなのだ。