禅のパスポート

禅語録 無門関no解釈to意訳

◆女人出定(無門関 NO42)・・ドッチもどっちだネ!

禅のパスポート 無門関NO42    

      女人出定(にょにん しゅつじょう)第四十二則

      【本則】世尊、昔、ちなみに文殊もんじゅ)、諸仏の集まる處にいたって、

         諸仏おのおの本處(ほんじょ)に還(か)えるにあう。

         ただ一(ひと)りの女人あって

         かの佛座に近づいて三昧(ざんまい)に入る。

         文殊すなわち佛に白(もう)して云く、

         何ぞ女人は佛座に近づくことを得て、我は得ざる。

         佛、文殊に告げたまわく、汝 ただ この女を覚(かく)して

         三昧より起(た)しめて、汝みずから これに問え。

         文殊 女人をめぐること三匝(そう)、指を鳴らすこと一下(げ)して

         すなわち托(たく)して梵天(ぼんてん)に至って

         その神力を盡(つく)せども出だすこと能(あた)わず。

         世尊云(のたまわ)く、

         たとえ百千の文殊もまた 

         この女人の定(じょう)を出(い)だすことを得じ。

         下方(げほう)一十二憶河沙(がしゃ)の国土を過(す)ぎて

         罔明菩薩(もうみょうぼさつ)あり、よくこの女人の定を出ださん。

         須臾(しゅゆ)に罔明大士、地より湧出して世尊を礼拝(らいはい)す,

         世尊、罔明に勅(ちょく)す、

         かえって女人の前に至って 指を鳴らすこと一下(いちげ)す。

         女人 ここにおいて定より出ず。

【本則】世尊、昔 ちなみに文殊、諸仏の集まる處に至って、諸仏各本所にかえるにあう。ただ一女人あって、彼の佛座に近づき三昧に入る。文殊すなわち佛に白(もう)して云く。なんぞ女人の佛座に近づくを得て、我は得ざると。佛、文殊に告げて、汝 ただ この女を覚して三昧より起(たた)しめて汝自(みずか)ら之に問え。文殊 女人をめぐること三匝(さんそう 3回り)、指を鳴らすこと一下(回)して、すなわち托(たく)して梵天(ぼんてん)に至って、その神力(じんりき)を盡(つく)せども出だすことあたわず。世尊云く、たとえ百千の文殊もまた、この女人の定(じょう)を出だすことを得じ、下方一十二億河沙(がしゃ)の国土をすぎて、罔明(もうみょう)菩薩あり、よくこの女人の定を出ださん。須臾(しゅゆ)に罔明大士、地より湧出(ゆしゅつ)して、世尊を礼拝(らいはい)す。世尊 罔明に勅(ちょく)す。

かえって女人の前に至って指を鳴らすこと一下(いちげ)す。

女人ここにおいて定より出ず。

素玄居士提唱 これは人情劇じゃ。人情と云うと金や女に限らず 総じて執着が元じゃ。執着を女人に仮想して、人情劇が持ち上がったのに対する禅者(世尊は禅者だ)の処置で、禅者は事物に拘泥せず執着がない。けれども人情劇の中に飛び込んで、それをどうするという力もない。

禅者には金もなければ就職口のストックもない。

人情劇にはカラ意気地のない傍観者以上でありえない。けれども彼は虚明(きょめい)にして、執着がないから よく高所大局をすることができる。だから自然に落處を知る。落ち着く先がわかる。適当な意見、可能な処置をつける。

それがうまく行くかどうかはわからない。

それがわかれば禅者はこの世の神様みたいなもんじゃ。

うまくゆかなければ又その時のこと。深く拘泥することなしじゃ。これが禅者の処世人情策じゃ。世尊もここで この策をとって、まず文殊の無能を示した、智慧第一の文殊の理知や道理一片では處世にも人情にも、何の役にも立たぬことを教えたのじゃ。執着妄想に凝り固まっている人情劇には、人情の奥底を喘ぎ暮らした分別男の話でなくては始末がつかぬのじゃテ。下方十二憶の河原の石コロの中に、ゴロゴロしているような平凡俗愚の人間でなくては解結がつけれれぬ。世尊はそんな人間を見つけて連れてきて、人情劇の始末をさせたのじゃ。罔明が女を連れだして口説いたか、慰めたかはわからぬが、要するに處世人情に対しては 禅者は自分では何の力もない、ただ大局を達観し落處を知り、意見を述べて他をして処置させる位のもので それがよければよし 悪ければわるいでもよしじゃ。これ以上の力はない。力があるなどと自惚れたら地獄に真っ逆さまじゃ。ここらが處世観じゃ。そこの處に禅機がある。ここの禅機をスパリと掴かむのがこの公案じゃ。それが掴めたら禅者の處世もナルホドナアと、あきれるじゃろうサ。さあ素玄曰くを見よ。

素玄云く 強に遭(お)うては 弱、

       弱に遭うては 強。

        【無門曰く】釈迦老師 この一場の雑劇(ぞうげき)をなす。

              小小(しょうしょう)に通ぜず。

              しばらく道え、文殊はこれ 七佛の師、

              何によってか 女人の定を出だすことを得ざる。

              罔明は初地(しょち)の菩薩、

              なんとしてか かえって出だし得る

              もし者裏(しゃり)に向かって見得(けんとく)し 

              親切ならば 業識(ごっしき)忙忙(ぼうぼう)たるも

              那伽(なぎゃ)大定(だいじょう)ならん。 

【素玄 註】ここでチョツト前に書き落としたことを附けておく。諸佛おのおの本處に還えるとは、善知識はみんな自分の本據(きょ)がある。厳(いか)めしい城郭のようなもんじゃろか、近づきにくい處があるのじゃ。軍人風とか学者風とか、金持ち面、道徳面など等じゃ。女人が世尊の傍(かたわ)らにヘバリついたのは、禅者にはコンナ城郭がない。廓然無聖じゃ。誰でも近寄ることが出来るのじゃ。入るを拒まず去るを追わずじゃ。しかし諸佛の方では人情が入り込むと逃げ出すものと見える。

金でも貸せと云われはせぬかと心配するのじゃろう。

諸佛もずいぶん肝っ玉の小さい奴どもじゃ。 

小小を通ぜず(少々の工夫じゃわからない)那伽の大定(那伽は大、また龍ともいう。大定は禅の即するなきの意。

世態人情の忙々(ぼうぼう)たる中にあって大定を行ずの意。

【無門曰く】釈迦に纏わりつく女人・・少しの坐禅や工夫している禅者では、座を立たせることすらできない。文殊菩薩は七佛の師(ビバシ佛、シキ佛、ビシャフ佛、クルソン佛、クナゴン牟尼佛、迦葉佛、釈迦牟尼佛)と言われるが、どうして女人の定に疎(うと)いのか。居並ぶ諸仏、それぞれの思惑、算段ありすぎて(愛だの慈悲だの・・無関心の仏頂面に愛想がつきた)女人である。釈尊(禅者)には、何の計らいもないから、警戒心がなく誰でも何でも近寄ってくる。しかも去るを追わないから未練もない。

罔明菩薩は、役立たずの禅にヒタスラ片思いする純な輩だから、女人も疑わない。

真の禅者とは・・痘痕(アバタ)も笑窪(エクボ)の、世渡り人情の喧騒の中にあって、「エクボもアバタ」の・・どっちもどっちの「禅による生活」を行ずる(風流の)人・・をいう。

          【頌に曰く】出得不出得(しゅっとく しゅつふとく)

                かれ儂(わ)し、自由を得たり。

                神頭(じんず)ならびに鬼面(きめん)

                敗闕(はいけつ)は 當(まさ)に風流。

【素玄 註】出るも出ぬも渠(かれ)は渠。儂(わし)は儂で共に自由を得た。この渠、儂を女人と罔明とするは誤まりならん。出得不出得を指すとす。

お神楽の鬼の面でも神の面でも勝手に出す、敗闕は失敗で 文殊、無能なことも笑止々々。

ただし禅では敗闕も嫌うていの法ならずじゃ。

【頌に曰く】定(禅の即するなき境地)を出るも出ないもない。彼は彼、私は私で共に自由だ。この彼を女人とし私を罔明とするは大きな誤りだ。禅者は出すときは、鬼の面でも神様の面でも自由に出す。文殊の失敗は「痘痕も笑窪」を「エクボもアバタ」と云ったことだ。だが、これも風流・・笑わば 笑え。

【附記】文殊の失敗・・笑窪(えくぼ)も痘痕(あばた)・・

     罔明菩薩・・アバタもエクボ!・・

      ドッチもどっちの菩薩サマだネ!

世尊・・仏陀・・釈迦牟尼仏の事。文殊菩薩智慧を代表し、観世音菩薩は慈悲を表現した姿。

罔明は無明(無知)の意。とにかく、沢山の悟りの段階に応じた名前付けをしていますが、例えですから知らなくて結構の・・仏教用語です。

三昧(ざんまい、地/サマージ)禅定の世界の意。

女性の坐禅・・釈尊の最初の女性の弟子は、ヤソーダラー(妻)・・尼さんのはじまりです。

(追記・・息子ヤーフラも後年、弟子となります)