禅のパスポート

禅語録 無門関no解釈to意訳

禅は竿頭(さおさき)から・・・ところにある!

禅のパスポート 無門関NO46    

禅は坐禅・修行の竿先から落ちた處にあるのじゃ

          竿頭 進歩(かんとう しんぽ)第四十六則 

        【本則】石霜(せきそう)和尚云く、百尺竿頭 如何が歩を進めん。

            また古徳云く、百尺竿頭に坐する底(てい)の人、

            しかも得入(とくにゅう)すといえども、いまだ眞となさず。

            百尺竿頭に すべからく歩を進めて、

            十方世界に全身を現(げん)ずべし。

【本則】素玄居士 提唱

百尺の竿頭に歩を進めたら落ちる。

別事なしじゃ。

落ちて見せるのじゃ。

軽業のし損(そこ)ない、アレヨ・アレヨと見物人の掌(てのひら)に汗を握らす(の)も なかなか一興(いっきょう)じゃ。

そして その中をドサンと落ちて見せるのじゃ。

落ちたら安心で二度と落ちない。

猫は逆さに落としても正位に復する。

重力(重心)のとり方が天成なのじゃ。

軽業の綱渡りでは 始めの添え竹から手を離したら、一本の綱の上に身を託する。

無念夢想に重心を一線上に据(す)えている。三昧境(ざんまいきょう)じゃ。

偽禅の連中は、三昧が禅だと吐(ぬ)かす。

トンデモナイことじゃ。

百尺竿頭に坐してビクビクしている奴も、綱渡りの娘も禅でない。禅は この綱から落(おっ)こちる處にあるのじゃ。

懸崖(けんがい)に手を撒(さん)じて大死一番せんことには、禅が手に入らぬ。

大磐石上(だいばんじゃくじょう)に臥(ね)ているような訳に行かんのじゃ。

竿頭一歩(かんとういっぽ)を進めると、全身丸出しの即(そく)するなしじゃ。

十方世界アレアレと見てくれる、見せてやる。 

素玄曰く 軽業(かるわざ)娘を女房にしたら毎日毎日気がもめる。

   いっそお前と心中したら 

   あとは暢気(ようき)で嬉しかろ。

           【無門曰く】歩を進め得 身を翻(ひるがえ)し得ば、

            さらに いずれの處を嫌(きら)ってか尊と称(しょう)せざらん。

            しかも かくの如くなりといえども、しばらく云え、

            百尺竿頭 如何(いかん)が歩を進めん。  嗄(さ)。

素玄 註・・嗄(さ)・・瓦器を打破するの音。

 又は舟の沙に入るの音ともいう。語意を強むること。

            【無門曰く】素玄居士の註・・ソノママに意訳とします。

  【頌に曰く】頂門(ちょうもん)の眼を瞎却(かっきゃく)して、

        錯(あやま)って、定盤星(じょうばんせい)を認む。

        身を棄(す)て 能(よ)く命を捨つ、

        一盲衆盲(いちもうしゅうもう)を引く。

素玄 註・・頂門眼云々・・大自在天の一箇の眼、八方一倪(いちげい)の眼がツブレて一事に定着する。そうなると自分の始末も出来ず、盲人がゾロゾロ歩いているようなもんじゃ。

この頌 要を得ず。

           【頌に曰く】素玄居士の註・・ソノママに意訳とします。

【附記】潭州、石霜(山)慶諸(せきそうけいしょ807~887)薬山惟儼・道吾圓智の弟子。